毛利元就でも大内義隆でもない…難攻不落の城で5万もの大軍を撃退し8カ国を支配した西国最強の武将の名前

2025年3月29日(土)9時15分 プレジデント社

尼子晴久の肖像(部分)、山口県立山口博物館蔵(写真=「毛利元就 特別展」/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

信長・秀吉・家康の三英傑の時代より少し前、現在の中国地方では戦国武将たちがしれつな勢力争いを繰り広げていた。歴史家の乃至政彦さんは「周防(山口県)の大内義隆は出雲の尼子氏に圧勝して安芸(広島県)を手に入れるが、その2年後、尼子氏の本拠地・月山富田城に4万5000騎以上という大軍で攻め込み、思いがけない悲劇を招く」という——。

■出雲国の大名、山陰山陽8カ国に勢力を広げた尼子晴久


尼子晴久(あまご・はるひさ) 永正11年(1514)〜永禄3年(1561)

出雲国の戦国大名。尼子経久の孫で、父・政久の急死により24歳で家督を継ぐ。天文9年(1540)に安芸国の毛利元就を攻めて敗北。その後、大内義隆の出雲侵攻を撃退すると勢力を回復し、毛利を破って石見銀山を奪取した。天文21年(1552)には室町幕府より山陰・山陽八カ国の守護に任命され、尼子氏の全盛期をもたらしたが、月山富田城にて47歳で急逝した。


尼子晴久の肖像(部分)、山口県立山口博物館蔵(写真=「毛利元就 特別展」/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

前回の記事「戦国武将の運命を決めた城 吉田郡山城をめぐる大内義隆と尼子詮久の戦争」では、大内義隆が天文9年(1540)から天文10年(1541)にかけて、安芸国(広島県)の吉田郡山城を舞台に尼子詮久(晴久)と繰り広げた一大合戦を紹介した。


義隆は毛利元就を援護し、郡山合戦で尼子軍を撃退、安芸国を平定することで、西国一の「武徳之家」たる武威を示した。


しかし、この勝利は新たな戦いの序章に過ぎなかった。


今回は続編として、天文11年(1542)から天文12年(1543)にかけての「月山富田(がっさんとだ)城の戦い」を取り上げよう。


■毛利と組んで安芸国を平定した大内義隆が攻めてきた


安芸国の平定を成し遂げた大内義隆(おおうちよしたか)は、天文10年(1541)の冬を本拠地・山口で過ごした。


だが尼子への攻勢をこのまま終わらせる気はなかった。折しも同年11月13日、尼子家の重鎮・尼子経久(あまごつねひさ)が84歳で病没した。


経久は尼子家の礎を築いた老練な武将で、もとは出雲守護・京極(きょうごく)家の守護代だった。15世紀末に国人連合に推される形で下克上を果たし、領国支配権を吸収した。その後、新興勢力・尼子家の指導者として、その威勢を陰陽(おんよう)十一カ国に影響を及ぼす巨大勢力に育て上げた。


経久の死は、義隆にとって吉報である。尼子家は長年大内家の障害であり、経久が亡き者となった今こそ二度とない好機といえた。


天文11年(1542)1月5日、義隆の養嗣子・大内恒持(つねもち)(晴持(はれもち))が19歳にして従五位下から正五位下に昇進する。のちの上杉謙信や武田信玄が生前に受けた官位より上位である。


義隆は、後継者にふさわしい舞台を用意していた。尼子の本拠地・月山富田城への侵攻計画である。


同月11日、大内義隆は防府(ほうふ)(周防国山口)を出発し、大軍を催して「出雲乱入」の実行に着手する。


■勢いに乗る大内義隆が周防国山口から北上、出雲に乱入


同年(1542)2月には、先遣隊が「新庄西禅寺」(現・北広島町)に到着した。無理のない進軍速度である。3月には、義隆本隊も安芸国佐東郡銀山城から北に進軍して、西禅寺に入った。


ここからは周囲に残存する敵勢力をひとつずつ制圧しながらの進軍である。


なお、この時期、義隆は朝廷に奏請(そうせい)して自分の家臣とする「有道保国(ありみちやすくに)」なる人物を太宰大監に任官してもらっている。義隆には信長クラスの傾奇者(かぶきもの)でもやらないような、お茶目なところがあり、過去には「山口興家(やまぐちおきいえ)」「筑紫海静(ちくしみしず)」「漢人着朝(かんどつきあさ)」という人物にも官途を求めて認められている(名前のルビは筆者の想像)。


「大内義隆画像」(模写)、楯護介蔵(東京大学史料編纂所所蔵)を改変

いずれも実在の確認されていない人物で、義隆が独自に創作したバーチャル武将に任官させていたらしい。任官の奏請は莫大な資金を要する大事業である。よく見るとみんな縁起のいい名前をしている。今回の「有道安国」はこの出雲遠征にかける思いが反映されているだろう。


こんな途方もないことをやる大名は、義隆ぐらいなものではないか。奏請を受ける公家たちも一目見れば、察しがついたに違いない。だが、否定する材料がなく、献金さえしてくれれば朝廷も潤うのだから、そのまま受けて立つのがお互いのためである。


義隆もこういう口実を作って朝廷との関係を強化していたのだろう。


莫大な資金力だけでなく、その使いどころまで、西国一の大名といっていい風格があった。


■尼子家の若き当主、晴久は足利将軍に認められたが…


だが、尼子詮久(あきひさ)もただ手をこまねいているだけではなかった。経久が亡くなる前の天文10年(1541)10月2日、将軍・足利義晴(よしはる)から、「晴」の一字を拝領する許可をもらい、名乗りを詮久から晴久(はるひさ)へと改めた。


これは経久の後継者として、幕府から出雲国の統治権を改めて公認されたことを示す。


この年に尼子軍が大内軍の武力によって安芸国から放逐されたのは隠れもない事実であったが、畿内方面からの印象はまだ悪くなかったことになろうか。長期政権としての実力が備わっていると判断されたのだろうから、その威風はまだ衰えていなかったと思われる。


ただし義晴はこの翌月、畿内の紛争で劣勢に陥って近江国坂本に逃れており、政情不安定のため来るものは拒まずの姿勢を取っていたのかもしれない。


晴久への一字拝領は、将軍と義隆に交渉があることを理解してのことと考えれば、むしろ威風を保つための読みの深さが成果を実らせた行動として評価するべきではなかろうか。


■晴久は山城の月山富田城で敵を迎え撃つことを選んだ


尼子晴久は打って出ることなく、防備を固める構えに出た。単なる消極策にも見える。だが、それが後に逆転への布石となるのであった。


月山富田城は、飯梨川右岸の「月山」(標高190メートル)を利用して構築された要害である。短期間で攻め落とせるはずのものではない。


義隆は時間をかけて準備を整えていく。帰伏した領主たちには所領安堵を認め、あるいは「御扶持」の許可を与えて経済支援を約束することで、その威容を膨張させていた。


義隆が出雲出兵に動員した人数は軍記『雲陽軍実記』によると、4万5000騎以上とされている。途方もない大人数である。


これを裏付けるものとして、義隆は、周防国・長門国・豊前国・筑前国の家臣と、備後国・安芸国・石見国の領主たちを率いて月山富田城に押し寄せている。軍記には誇張があるとしても、類を見ない大軍であったことは確実である。


6月7日には備後・石見・出雲国の国境にある赤穴(あかな)城の麓で豊前守護代・杉重矩(すぎしげのり)の大軍が尼子勢と交戦した。出雲国での戦いがここに始まったのである。しかし重矩は戦果を上げられず、赤穴城はその後1カ月以上、大内軍の侵攻を阻止した。


7月18日、毛利元就が現地に到着。27日、陶隆房(すえはるかた)が主導して、赤穴城を攻略。ここから石見国の有力領主である小笠原長徳(おがさわらながのり)・長雄(ながかつ)が大内軍に帰伏するなど、大内軍にとって順調な滑りだしとなった。


月山富田城古図(安来市歴史資料館レプリカ)(写真=Reggaeman/PD-Japan/Wikimedia Commons

■開戦1カ月後、毛利元就も出雲に到着し、晴久は劣勢に


9月5日には冷泉隆豊率いる大内水軍が出雲国大根島(だいこんじま)(松江市八束町)で尼子勢と交戦。義隆は、水軍に石見沖の日本海から宍戸湖・中海を渡らせて、月山富田城に軍勢を迫らせていた。


同時に、調略工作も進めていた。当時、大内家臣・相良武任(さがらたけとお)から出雲国の三沢為清(みさわためきよ)に宛てた密書(意味の通りにくい不自然な文章と省略された署名から推定される)も現存している。


このように西国一の大名が戦い慣れた将兵を進ませてくる状況に、28歳の若き当主・尼子晴久はいつ寝首をかかれるかと不安が募っていたことだろう。


実際に大内家臣・多賀隆長(たがたかなが)が毛利元就と共同で、晴久を自害させ、娘婿の尼子誠久(まさひさ)を当主にする計略を企てさせようとした記録が「尼子氏破次第」(『毛利家文書』158号)に残されている。


■大内義隆は月山富田城を見下ろせる山に本陣を置く


天文12年(1543)3月、いよいよ大内義隆は月山富田城西方まで足を踏み入れ、京羅木(きょうらぎ)山に本陣を置いた。


その山頂点標高は、南東に位置する月山富田城の標高より遥かに高く、その様子を一望することができた。


大内軍は月山富田城への本格的な攻城戦を仕掛ける。


3月14日は菅谷(すがたに)と蓮池畷(はすいけなわて)の虎口(山中御殿跡)まで兵を進ませ、鎗戦を展開した。だが、それ以上の侵入は阻止された。尼子方は消極策にも拘らず明確な仲間割れも起こさず、ここまでよく耐えていた。


次は4月12日に塩谷口(しおたにくち)(塩谷口搦手門)で激戦があった。ここでは毛利元就ですら、尼子軍に押されて敗退させられた。尼子の守りは堅固そのものだった。力押しはまたしても成果を上げられなかった。


出典=国土地理院ウェブサイト、一部編集部で加工

■大内も毛利も尼子軍を打ち破れず、兵糧の輸送を絶たれた


尼子晴久のここまでの消極策は打つ手が何もなかったからだろうか。多分、そうではない。むしろ、今のこの時を待っていた。


この戦いはこの頃から空気感が大きく変わっていくのだが、一次史料には書かれていない。『中国治乱記』などの軍記類によると、このとき尼子方は、各所の通路を塞いで糧道を断つ作戦を実行し、「大内方(を)難儀(なんぎ)」にさせたことに触れている。兵糧の輸送を途絶えさせたのである。これは事実であるだろう。


大内軍は、ここまでほとんど無制限に人数を膨れ上がらせたため、現地調達(住民や商人からの買取り)や略奪では賄えなくなってきた。


義隆もこんな事態は予想できていなかったのでないか。そもそも当時の遠征は現地での買取りが常識であった。軍勢が前進すると、先々で市場が形成される。なぜなら集落や寺社が「禁制」を侵攻軍に申し出て、宿舎や物資を提供するからである。もちろん料金は将士が支払う。プロセスとしては、「①大軍が迫るという情報が現地に入る→②現地の裕福な寺社や集落が大軍に金を出して営業をかける→③現地が潤う」というものだ(乃至政彦『戦国大変』JBpress、2023)。


このため、資金が豊かな大内軍は何があっても兵糧に困ることなどないと踏んでいたのではなかろうか。


ところが、あまりに人数が多すぎると、現地の受け入れ体勢が追いつかなくなった。キャパオーバーである。こうして大内軍はやむなく後方から輸送しなければならなくなったのだ。


■晴久は敵の兵糧を欠乏させ、13人を寝返らせることに成功


輸送通路を非戦闘員の労働者が使われる。そこへ地理に慣れている尼子の少数部隊が襲いかかる。これが「大内方難儀」の実相と考えて間違いなかろう。状況証拠もある。


たとえば、毛利家ゆかりの「覚書」に、尼子晴久が大内陣営に寝返った出雲国領主層に「廻文(まわしぶみ)をめくらし調略」の工作を進めたことが伝えられている(長谷川博史「遠用物所収『覚書』にみる史料の可能性」)。


大内家に寝返った出雲国の領主たちを、ふたたび尼子家へ寝返らせるなど、普通は不可能だろう。聞く耳すら持ってもらえないはずだ。だが、糧道が壟断されていたらどうだろうか?


これこそが尼子の強力な交渉カードだったに違いない。大内軍は実際に兵糧が途絶えていており、この状況を作り出したことで晴久の手元にカードが手に入ったわけである。事実としてすべてを一変させる大きな事件が起こった。


なんと、4月30日に、三沢為清・三刀屋久扶(みとやひさすけ)・本城常光(ほんじょうつねみつ)など「雲州国衆」(出雲国現地の領主層のこと)と、安芸国の吉川興経、備後国の山名理興がこぞって寝返りを決意したのだ。合計13人の離反であった。


このような一斉離反は、普通では起こり得ないことである。だが、晴久はその「普通」を覆したのであった。兵糧欠乏からの一斉に離脱発生。事態を知った大内軍は一時的に混乱状態に陥った。


■大内義隆は出雲からの撤退を決めるが、パニックで悲劇が…


大内軍は、尼子方に寝返った者たちと矢戦(やいくさ)を繰り返したが、もはや小競り合いで状況が改善される状況ではない。


義隆に決断のときが来ていた。計画を中止して撤退するほかなくなったのである。


5月7日午前4時、大内将士は続々と撤退を開始する。黙って見逃す手などない。尼子軍の追撃が始まった。


義隆は京羅木山から揖屋(いや)へ移り、船を出させた。北上を選んだということは、南方の通路が遮断されていたのだろう。水路を使い、安全な日本海側から帰国しようとしたのだ。


だが、数万もの大軍を収容できるほど大量の船を、おそらく極秘に決めた撤退の当日に準備できるはずがない。


■義隆の養子である後継者が、船の転覆で19歳にして死亡


養嗣子・恒持の船には多数の人が集まった。『大内義隆記』には、「一条殿若君(大内恒持)が「小舟」に乗ったところ、「余多の人」が乗り込んできたため、転覆して亡くなった」と伝えられている。


この群がった人々が大内の兵たちであったかはわからないが、「二宮俊実(にのみやとしざね)覚書」(『毛利家文書』561号)には「御果候」とあり、『棚守房顕覚書』は「介殿(大内恒持)[以下3名略]ノ四人討死ナリ」と明記している。


これらの史料から推測されるように、復讐に燃える尼子兵たちが船に殺到したのだろう。


地図作成:PJ、編集部で一部加工

■知略に長けた晴久は籠城で勝利するが、その城で生涯を終えた


月山富田城の戦いは、大軍を誇る大内義隆と知略に長けた尼子晴久が激突した一大舞台であった。


義隆は入念な準備と威圧で勝利を確信したはずが、兵糧の途絶に足元をすくわれ、晴久は限られた手札から奇策を繰り出し、逆転の糸口をつかんだ。


しかし、この戦いが両者の命運を決定づけたと果たして言えるだろうか。


やがて訪れる大内家の没落と尼子家の滅亡を前に、彼らがこの城で賭けたものは、何だったのか。われわれに残された問いは多い。


主要参考文献
福尾猛市郎『大内義隆』吉川弘文館、1989年
長谷川博史「遠用物所収『覚書』にみる史料の可能性」/山口県編『山口県史の窓 通史編中世』山口県、2012年
藤井崇『大内義隆』ミネルヴァ書房、2016年
山田貴司「大内義隆の「雲州敗軍」とその影響」/黒嶋敏編『戦国合戦〈大敗〉の歴史学』山川出版社、2019年
乃至政彦『戦国大変』JBpress、2023年


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乃至 政彦(ないし・まさひこ)
歴史家
香川県高松市出身。著書に『戦国武将と男色』(洋泉社)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。新刊に『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『戦国大変』(日本ビジネスプレス発行/ワニブックス発売)がある。がある。書籍監修や講演でも活動中。
公式サイト「天下静謐
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(歴史家 乃至 政彦)

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