『まんぷく』が描かなかった「台湾の娘」と詐欺師に狙われた1400万円の遺産相続

3月30日(土)17時0分 文春オンライン

〈 日清食品創業者・安藤百福の歴史から「消えた娘」は台湾でホームレスになっていた 〉から続く


「インスタントラーメンの父」として慕われる安藤百福(1910〜2007年)には、その存在を公にされていない台湾籍の娘がいた。彼女・呉美和(ウー・メイホゥ、76)が赤裸々に語る、亡き百福と安藤家への切なる思いとは──。



台湾でホームレスとして生活を送っている呉美和 ©田中淳


「父は擬似的な恋人にも等しい存在だった」


 母・呉金鶯の生前は百福への連絡を遠慮していた美和だったが、1971年に金鶯が死去したあとは手紙や電話で頻繁にやりとりするようになった。1972年から77年までは、百福の計らいで毎年のように大阪を訪れている。


「父は当時、最先端だった東洋ホテルの客室を予約してくれて、ふたりで夜遅くまで、台湾語でとりとめのないおしゃべりに花を咲かせたものだわ。父は取り立てて厳格でもなければユーモアに富んでいたわけでもなかったけれど、『何かを成し遂げたければ自分を信じ、勇気を持て!』と何度も言っていたのは今でも心に残っている」


 時には腕を組んで散歩をしたこともあったという。美和は、昔の恋人を思い出すかのように幸福な表情で百福と過ごしたひとときを述懐した。


「恋人……そうね。私にとって父は親であり、先生であって、擬似的な恋人にも等しい存在だった。親戚には『百福から捨てられた娘』と蔑まれたこともあったけれど、両親の離別や台湾帰国は3歳のころで記憶にはない。むしろ、チキンラーメンやカップヌードルで成功を収め世界的な経営者にのし上がった父が誇らしく、憧れで、誰よりも頼りにしていたの」



1977年、35歳の美和が大阪で会ったのが……


 大阪旅行中に東京まで遠出をした際は、パレスホテル(現・パレスホテル東京)に投宿。百福は窓から皇居の森を見下ろしながら「俺は皇室に相当の額を献金したのだよ」と誇らしげに語ったという。


 ただ国有財産法によると、皇室に献金する場合はわずかな例外を除き、国会での議決を義務付けている。現時点で百福の献金を国会で討議した事実は確認できない。


 百福は別れ際に小遣いだけでなく、人生を鼓舞するような内容の本を美和に与えたこともあったという。


 美和は兄たちを大阪行きに誘うこともあったが、既に自身の生活を確立していた彼らは「俺たちを捨てたオヤジなど、今さらどうでもいい」と言って取り合わなかったらしい。束の間の逢瀬は言うまでもなく、百福が台湾に残した家族と接触することを快く思わない3人目の妻・安藤仁子には内緒だった。


 だが1977年、35歳の美和が大阪で会ったのが、百福との最後の邂逅だった。


 美和によると、百福の新任秘書となったK氏が美和と百福の接触を拒むようになったためらしい。もっとも美和の次兄・武徳の妻である呉許秀が台湾日刊紙「自由時報」に証言したところでは、K秘書は毎年のように百福の代理で訪台し、宏男・武徳・美和の3兄妹やその子供たちに金銭を渡すなどして面倒を見ていたという。




美和は何度となく百福との接触を打診するが……


 美和自身は32歳のとき、信仰が縁で12歳年上の仏教関係者と関係を持ち、1男1女をもうける。ただ「夫」には妻がおり、「夫」の母親に激怒されたため入籍はできず、いみじくも金鶯と同じような内縁関係に甘んじることとなった。


「夫」は稼ぎが悪かったため、美和は運転免許とタクシー運転手の営業許可証を取得。百福から援助された資金で日産車を購入し、60代を過ぎるまでの約20年間、子育てをしながらタクシー運転手として働いた。


 1977年に百福と会ったあとも、美和は何度となく百福との接触を打診する。何としても百福の娘として公式に認めてもらいたい、父娘の絆をもっと深めたいという思い以上に、金銭を無心する目的もあったからだ。さすがの百福も次第に辟易したのだろう、彼はK秘書を間に立てて、美和との接触を明確に拒むようになった。


 2005年、美和は弁護士を通じ、自身を実子として法的に認知するよう働きかけるが、業を煮やした百福は日清食品ホールディングスの顧問弁護士であるT氏を通じて美和の説得を図る。



「乙が甲との面会などについて強く拒否し」


 筆者は、2006年1月にT弁護士が作った、美和が百福へ提出する「誓約書」の草案を入手したが、そこには百福の最後通牒とも言うべき内容がしたためられていた。


「第1条〈懺悔〉(1):甲(※美和)はこれまでの生涯、失敗し散財することを繰り返し、乙(※百福)との約束を破り続けてきたにも関わらず、金に困ると都度、第三者を介して乙に支援を求め、多額の金員を乙から援助し続けてもらったことに多大なる感謝をする」──の書き出しで始まる誓約書には、美和の「タカリ歴」が詳細に記載されている。


◇1959年(美和17歳):数万円(援助金として)

◇1975年(33歳):100万円(長兄の進学支援名目で)

◇同時期:36万台湾元(現在の約130万円、次兄の入院費名目で)

◇1977年(35歳):685万台湾元(現在の約2500万円、台北駅前のビル購入費用で)

◇1990年(48歳):50万台湾元(約180万円、起業名目で)

◇2003年(61歳):100万円(最後の支援という約束で)

◇2004年(62歳):1000万円(条件付き生前贈与で)──。


 これらは全て美和個人が無心した金で、百福からの生活費や小遣いなどは含まれない。


 さらに「今後いっさい、百福の生活環境を乱す行為は行わない」との約束を何度も反故にし、美和がたびたび百福の自宅や日清食品の本社を突撃しては面会や金品を迫るといった迷惑行為も列記されていた。



「乙が甲との面会などについて強く拒否し」という一文には、ある種の非情さを感じさせるが、「(甲は)以上のことを人間として心から恥じ、神仏に誓い懺悔し、同様のことを二度と繰り返さないことを誓約する」の強い表現で結ばれた「誓約書」の尋常ならざる内容からは、美和が生涯を通じて百福に執着し続けた狂気が垣間見える。


 2006年末、美和はT弁護士から「百福氏は美和氏が実子であることを否定はしておらず、台湾の子女を経済的に支援するよう申し渡されている」と記されたファックスを受け取ったという。ただ、面会や電話の取り次ぎ、入院中の百福の見舞いが受け入れられることはなかった。



警備員に包囲されつつ焼香


 2007年1月に百福は数えで97歳の生涯を閉じる。


 だが遺産の法定相続人リストには当然ながら、婚外子である美和の名はなく、彼女は直ちに日清食品大阪本社へ出向いてT弁護士らと直談判。最終的に1430万円の分与が提示されるが、「想定される額より遥かに少ない」と感じた彼女は合意を拒んだ。額としては遺産継承者16人のうち6番目に多いが、この不満は今も美和の中にくすぶり続けている。


 翌2月に日清食品は京セラドーム大阪で、葬儀委員長の中曽根康弘元首相や小泉純一郎元首相ら6500人が参列する社葬を執り行った。美和に密着した台湾日刊紙「蘋果日報」によると、喪服でドームに駆け付けた美和は「親族席に座らせて!」「実の娘として弔事を朗読したい!」「(異母弟の)安藤宏基社長に挨拶したい!」と訴えるが、安藤家は拒否。美和は結局、警備員に完全包囲されつつ一般会葬者のひとりとしてスタンド席の最上段から式を見守るほかなく、焼香の順番も最後だった。



 百福の死去前後から美和の言動は「迷惑行為をしない」と誓った「誓約書」の内容に反してエスカレートし、メディアの前で公然と日清食品や安藤家を非難。遺産の増額を求めて台湾からたびたび大阪へ出向くようになった。


「そうはいっても私の子供たちの生活も楽ではないから、そうそう頼るわけにもいかない。タクシーの運転手を引退したあとは、不定期に家楽福(台湾カルフール)の清掃作業員や入院患者の付添婦をして収入を得ながら、日本行きの費用を捻出しているの。この頃(※2008年当時)は日清サイドと話し合うために、何カ月も大阪で粘った。滞在費用が底をつけば、リヤカーを引きながらダンボールやアルミ缶を集めてはお金に換えてね。当時はアルミの市場価格が今の倍以上あったから、1日で数千円を稼げたこともあったわ」(美和)


 当初は美和らの境遇に同情的だった台湾メディアも、次第に「浅ましい遺産争い」を懐疑的に報じるようになる。次兄・武徳の未亡人、呉許秀は台湾日刊紙「自由時報」に「美和らの主張が、安藤百福の台湾人親族の総意とは思わないでほしい。私自身は安藤家と争うつもりなどなく、弁護士の決定を静かに見守るだけ」との声明を発表している。


遺産詐欺の被害に


 結局、美和は遺産1430万円を受け取ることで安藤家と合意するのだが、あろうことか、このうちの1200万円を騙し取られてしまう。


 台湾ニュースサイト「ETトゥデイ」によると、百福死去の翌2008年、美和は日清食品から三菱UFJ信託銀行を通じ、1430万円を指定口座に振り込みたいとの連絡を受けた。その話を聞きつけた近隣住民のLは「日本に私のめいのCが住んでいる。彼女に手伝わせれば受領手続きも円滑に進むはずだ」と提言。美和、美和の息子と3人で台湾から日本へ赴き、Cと合流した。


 Cは美和に「日本国内の銀行口座なら1週間以内に振り込まれるが、台湾口座だと1カ月以上かかるそうだ。だから私の日本口座を使えば早い」と騙り、遺産の振込先をCの口座に指定させる。いぶかしんだ美和が数日後に預金通帳を確認すると、すでに1200万円がLのもとへ流れたあとだった。



 美和はただちに警察へ通報し、台湾桃園地方法院検察署(桃園地検)はLを詐欺罪で起訴。2012年に一審で懲役2年6月の有罪判決が下った。「5年以内に返す」との約束は今も果たされていない。



「私に33億円くらいの養老金は出せるはずよ」


「詐欺に遭ったのは災難だったが、それでもあなたはトータルで、百福氏からけっこうな額の金を受け取ってきた。一体、どんな散財をしたのか」と問うと、美和は「不動産を買ったり、危ない投資話に乗って元手を失ったり、タクシー会社を興してはツブしたり、もういろいろ。そうでなくても生まれてこの方、生活はずっと苦しいままだし」と気色ばんだ。


「私が強く訴えたいのはね、金銭うんぬんではなく、安藤家に一分の義理や人情もないことよ。同じ父親の血を分けた兄弟なのに、私の存在そのものを無いものとし、面会を拒み続ける宏基社長の態度はあまりにも冷たい。困ったときに助け合う互助精神や慈悲の心こそが正義であり、家族関係の基本でしょう」と情に訴える美和だが、いつの間にか「試算したのだけどね、日清食品ほどの大企業のオーナーなら、私に33億円くらいの養老金は出せるはずよ」などとカネの話をギラつかせる。


 だが驚くべきことに数年前、宏基氏から15万円が台湾・兆豊国際商業銀行の口座に振り込まれたという。思わず美和に対して「もうじゅうぶんではないか。あなたは『知足者常楽(足るを知る者が心豊かに過ごせる)』という概念を知るべきだ」と叫ぶが、彼女は聞く耳を持つそぶりすら見せない。


 ドン・キホーテと化した美和をいつしか親族たちも疎んじるようになり、美和自身も「私の訴えをわかってくれない」子供たちとは疎遠になる。娘はホームレス同然の生活を送る美和を案じ、何度も同居を提案しているが、「あの子の家は狭すぎて」と言い訳する美和に、安らかな生活を受け入れる気持ちはないようだ。



 なお、安藤百福と美和の親子関係、遺産相続などについて編集部を通じて日清食品ホールディングスに質問したが、「故人のプライベートに関することにつき、当社としてコメントすることは控えさせて頂きます」(広報部)との回答だった。


* * *


「そろそろ閉店時間なので……」


 喫茶店の店員から遠慮がちに促された美和は、大儀そうにデイパックを背負うと、キャリーバッグを引きながら店の表に出た。その間も舌鋒鋭い日清食品批判、安藤家批判はまったく止む気配がない。


 今夜はどこで寝るのかと問えば「龍山寺の門前の広場を知っているかしら。あそこのベンチではいつも、大勢の人が寝泊まりしていてね」と美和。雑然とした下町ムードが漂う台北龍山寺の界隈は、多くの性産業従事者や路上生活者が拠点としていることで知られ、美和もたびたび雨よけのあるベンチや寺の軒下で夜を明かす。



「(市政府社会局の)炊き出しは朝4時から1時間は並ぶ必要があって、起きられない日はミルクティー1杯だけで丸1日を過ごすこともある。それでも極力、出費を切り詰めて、次回の訪日旅費を蓄えるつもりよ。まだ行くのかって? 宏基と会えるまで続けるのは当然」(美和)


 生涯にわたって安藤百福という巨像にすがり続けるしかなかった美和の生き様は、傍目には哀れというほかない。それでも、日清食品や安藤家との「闘い」が彼女の活力源になっていることだけは間違いないようだ。


(文中一部敬称略)



(田中 淳)

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