吉原で遺産を溶かした"ただのぼんぼん"ではない…「鬼平」長谷川平蔵が誤認逮捕の相手にした尋常でない対応

2025年3月30日(日)8時15分 プレジデント社

明和の大火と火付盗賊改方の様子、「目黒行人阪火事絵巻」(模写)、国立国会図書館デジタルコレクション

池波正太郎の小説や時代劇でおなじみの「鬼平」こと長谷川平蔵宣以。その若き日の姿が大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)で描かれている。作家の濱田浩一郎さんは「宣以は時代劇のイメージどおり粋で気前の良い江戸っ子だったが、幕府のリーダーが田沼意次から松平定信に代わる間に出世を目指し、政治に翻弄された」という——。

■時代劇でおなじみ「鬼平」の若き日の姿が大河ドラマに


横浜流星さん主演の大河ドラマ「べらぼう」において「鬼平」こと長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶため)を演じるのは、歌舞伎役者の中村隼人さんです。平蔵は初回から登場していましたが、吉原遊廓で蔦重や花魁・花の井(小芝風花)らにカモにされて散財する旗本のお坊ちゃまとして描かれていました。どこか憎めないキャラクターのように筆者には感じました。


池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』の主人公であり、火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためがた)(江戸市中を巡回し、放火・盗賊・博打の取り締まりや検挙を担当。以下、火盗改と略記することあり)として活躍する宣以の意外な姿に驚いた読者も多いのではないでしょうか。後述するように宣以は家督を継いでから父の遺産を遊郭で使い果たすことになるのですが、青年時代も放蕩無頼の生活を送り「本所(ほんじょ)の銕(てつ)」とあだ名されたといいます(宣以の幼名は銕三郎で、本所に住んでいたことに拠る)。


宣以はどのような人物だったのか、更に見ていきましょう。宣以が生まれたのは、延享2年(1745)のことです。父は長谷川平蔵宣雄(のぶお)であり、母の名は不詳。宣雄は旗本であり、火付盗賊改を務めていました。つまり、親子とも同じ役職に就いた訳です。宣雄が火付盗賊改となったのは、明和8年(1771)10月のこと。その翌年(1772年)には、「べらぼう」の冒頭で描かれた「明和の大火」が発生し、死者約1万400人という甚大な被害をもたらします。


明和の大火と火付盗賊改方の様子、「目黒行人阪火事絵巻」(模写)、国立国会図書館デジタルコレクション

■火付盗賊改の父は「明和の大火」の放火犯を捕まえた


宣雄はこの火災は放火だと見て、与力・同心を投入し、捜査を開始。出火元の江戸郊外、目黒行人坂の大円寺周辺の捜査により、武蔵国熊谷無宿・長五郎(真秀と名乗る願人坊主)を捕縛し、ついに放火を白状させるのでした。自白によると長五郎は、盗みをしようとして大円寺に放火したと言います。拷問による自白で事件に決着を付ける火盗改が多い中(当然、冤罪が多数発生)、宣雄は自白だけで納得せず、大円寺での現場検証、寺住職にも聞き取りを行おうとしたのです。


しかし、住職は寺再建の勧進のため留守でした。よって宣雄は「真秀の口ばかりでは、虚実のほどが疑わしい。私ばかりの吟味では判断できないので、奉行(町奉行)へ引渡したいのですが」と老中・松平武元(「べらぼう」で石坂浩二が演じる)に願い出ているのです。武元は宣雄の取り調べがしっかりしていることを理由にして、町奉行への犯人引渡しを却下、犯人の長五郎は同年6月、火炙(ひあぶ)りの刑に処されます。「鬼平」の父の誠実な人柄というものがこの逸話から分かるでしょう。現代においても警察が冤罪を作り出すことがありますが、長谷川宣雄を見習ってほしいものです。


■28歳で「自分は英傑と呼ばれるようになる」と豪語


明和9年(1772)10月、宣雄は京都西町奉行に就任、京都に赴任しますが、それには嫡男の宣以(27歳)も従っていました。当時、既に宣以には妻子がいました。宣雄は奉行としても優秀でしたが、安永2年(1773)6月、病により急死します。父の急死により、嫡男の宣以が家督を継承、宣以は江戸に戻ることになりますが、その際、見送りに来た与力・同心に対し「各々方(おのおのがた)、しっかりと御在勤あるべし。後年、長谷川平蔵は当世の英傑と呼ばれるようになろう。各々方、御用のため江戸に参られた時は屋敷に来られよ」と豪語したといいます。


28歳とは言え、まだ何の功績もない若者(宣以)の放言に、見送りの者は呆然としたことでしょう。良く言えば大志あり、悪く言えば自信過剰と言えるでしょうか。家督継承した宣以は、小普請入(役職に就くまでの待機組)となりますが、素行は悪かったようです。父・宣雄が倹約して貯めていた「金銀」を、「悪友」と共に遊里で使ったのでした。宣以は「大通(だいつう)」(遊里の事情や遊興の道によく通じていること)と呼ばれたと言いますので、通い詰めたのでしょう。


写真=時事通信フォト
新作歌舞伎「NARUTO—ナルト—」の製作発表会見で写真撮影に応じる中村隼人さん(左)と坂東巳之助さん(右)、2018年4月東京 - 写真=時事通信フォト

■田沼意次失脚後、「打ちこわし」騒動を鎮圧し、人気者に


その後、宣以は安永3年(1774)に西の丸書院番士(将軍世子の住む江戸城西ノ丸御殿の書院番)、儀礼の場での贈答品を周旋する進物番に。天明6年(1786)には先手弓頭(旗本の番方として最上位)に任命されます。この栄進は松平武元、田沼意次(「べらぼう」で渡辺謙が演じる)という老中(首座)に引き立てられたからとされます。父・宣雄の功績は前述した通りですが、そのお陰もあったかもしれません。


ちなみに天明6年(1786)8月には田沼意次が失脚し、その翌年(1787年)には松平定信が老中に就任しています。この間、江戸と大坂で群衆による「打ちこわし」が起こりますが、この時、江戸にて鎮圧に尽力したのが、先手弓頭の宣以でした。鎮定の際の功績が認められたのでしょう、天明7年(1787)9月、宣以は火付盗賊改加役(助役)、翌年(1788年)には同職の本役に任じられています。


■老中に就任した松平定信に「火付盗賊改」を任じられるが…


宣以は、幕府上層部の受けはあまり良くなかった(「さして評判宜(よろ)しからず候」)ようですが「奇妙」にも「町方」(江戸の民衆)の受けは「宜し」かったとのこと。「平蔵様、平蔵様」と言って江戸の人々は平蔵を慕っていたので、松平定信も「平蔵ならば」と言うようになったとのことです。


江戸の民衆が平蔵を慕ったのには理由がありました。夜中、町人が囚人を役宅に連れてきた時、普通ならば「ご苦労」とのみ言って、囚人を受け取り、そのまま町人を帰すでしょう。しかし、宣以はそうではなく、出前をとり蕎麦を振る舞ったのです(宣以は部下にもよく酒食を振る舞ったとされます)。しかも自腹でした。町方の者が宣以に心服するのも分かる気がします。


だが、見る人によっては「人気取りをして」と宣以を嫌う者もいました。田沼意次の屋敷辺りが火事になった時などは、宣以は田沼の屋敷に駆け付け、避難を促し、田沼の下屋敷まで誘導します。これは普通のことかもしれませんが、宣以は田沼の屋敷に行く前に有名な菓子司(かしつかさ)(鈴木越後)に立ち寄り、餅菓子を注文、更には下屋敷に夜食を持参するよう申し付けていたのです。


下屋敷に避難して一息付いたところで、田沼家の者に夜食が振舞われたのでした。「どうしたら、このように手が回ったのか」と宣以の要領の良さに意次は感心したそうです。この逸話も「権力者に取り入っている」と見る人によっては嫌悪感を抱くでしょうが、如才ないとも言えます。


「松平定信自画像」鎮国守国神社(三重県桑名市)、1787年(天明7)(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

■誤認逮捕をしてしまった際には自腹で慰謝料を出した


『よしの冊子』(松平定信のもとに集められた隠密情報を整理した史料)は平蔵を「手の廻る事は奇妙に功者」と評していますが、的を射た表現でしょう。しかし、その一方で同書は宣以を「山師・利口もの・謀計もの」とも書いています。松平定信は宣以に「山師」という評判が立っていることも知っていたでしょうが、先に見たような要領の良さ、機転が利くことも同時に知っていたでしょう。そうした宣以の能力を鑑みて、彼を起用したのでしょう。


宣以は火盗改として多くの盗賊を召し捕えることになりますが、なかには盗賊の誤認逮捕(召し捕り違い)もありました。現代でも警察が誤認逮捕や冤罪を認めて謝罪するのは珍しいとされますが、では誤認逮捕があった時、宣以はどうしたか。「3日・4日、牢内にいたらそれだけ家職(仕事)ができない。また妻子を養うこともできない。よって3・4日、牢内にいた分の手当てを、牢から出る時に与えた」のでした。誤認逮捕した者に対し、自腹で償ったのです。


明和の大火と火付盗賊改方の様子、「目黒行人阪火事絵巻」(模写)、国立国会図書館デジタルコレクション

宣以のことを「山師」や「小賢(こざか)しき性質」と非難する人もいますが、これはなかなかできることではありません。前掲の逸話から筆者には、宣以には父・宣雄の精神がしっかりと宿っているように感じます。


■罪を犯した人間でも社会復帰できる施設を作った


宣以と言えば、人足寄場(にんそくよせば)(無宿=家がない、人別帳をはずれた者が社会復帰や職業訓練をする施設)の設立に尽力した人としても有名です。享保年間頃より、無宿の「悪業」が問題となっており、対策(養育所に入れる)が発案されていましたが、実現できずにいました。定信は無宿問題の解決を幕臣に諮問したところ「長谷川何がし(某)」が「やってみたい」と名乗りをあげたのです。「長谷川某」というのは、勿論、宣以のことです。そして江戸石川島に人足寄場が設立されます。宣以は無宿が盗賊になるのを避けるために、更生のためにこのような施設を作ろうとしたのです。


松濤軒斎藤長秋ほか著『江戸名所図会 7巻』、1834〜1836年(天保5〜7)、国立国会図書館デジタルコレクションを一部加工

このように様々な功績があった宣以ですが、念願の町奉行に任命されることはありませんでした。転役も昇進もない状態に、さすがの宣以も「力が抜け果てた。酒ばかり飲んで死ぬことになろう」と嘆息するありさまだったとのこと。宣以が昇進できなかったのは、老中・松平定信の推薦がなかったからと言われています。


■目標は町奉行だったが…、松平定信との本当の関係


定信は「平蔵ならば」と宣以を買っていたともされますが、その一方で自伝『宇下人言』に「左計の人(山師)」「長谷川何がし」と記述するなど宣以にどこか冷淡。そうしたこともあり、宣以は町奉行に就任できなかったとされるのです。このことから定信は宣以を「使い捨てにしようとしていた」とも言われています。


定信は宣以の能力は買いつつも、人物は評価していなかったと思われます。寛政7年(1795)4月、病に倒れた宣以は5月10日に死去しました。死去の4日前には、11代将軍・徳川家斉から秘蔵の薬が届けられています。宣以は病床にありましたが、どれほど喜んだことでしょう。


参考・引用文献
・滝川政次郎『長谷川平蔵』(朝日新聞出版、1982年)
・山本博文『鬼平と出世』(講談社、2002年)
・丹野顯『「火附盗賊改」の正体』(集英社、2016年)


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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
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(作家 濱田 浩一郎)

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