超一流の美術館が認めた0.02ミリ「薄すぎる和紙」で大逆転…倒産寸前の高知の町工場が打った「起死回生の一手」

2025年4月9日(水)7時15分 プレジデント社

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人口約4600人の高知県の村に、倒産寸前の状態から、世界中の名だたる美術館や博物館から依頼が殺到するまでに復活した和紙工房がある。どうやって業績を立て直したのか。ライターの甲斐イアンさんが取材した——。

■世界中の有名美術館を顧客に持つ高知の和紙会社


ルーブル美術館、大英博物館、オックスフォード大学、メトロポリタン美術館——。パンフレットの「取引先一覧」には世界的に有名な美術館や博物館がずらりと名を連ねる。これらが「高知にある小さな和紙会社のお得意さん」というから驚きだ。


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高知市内から車で約30分に位置する高岡郡日高村。青い空と田園風景が広がる村の山裾に、世界中から注文が絶えない和紙会社「ひだか和紙」はある。創業は1949年。従業員はたったの10人ながら、世界37カ国にオーダーメイドの和紙を届けている。


「世界一薄い和紙を漉きます」


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ひだか和紙の厚さ0.02ミリの和紙。テーブルが透けて見える。 - 筆者撮影

パンフレットの1ページ目には英語と日本語でこうキャッチコピーが書かれている。同社が製造するのは、薄さわずか0.02ミリの「世界最薄の和紙」だ。その薄さは一般的なハガキの10分の1以下で、人間の皮膚の角質層と同じという。うしろが透けるほど薄く、別名「かげろうの羽」とも呼ばれる。


■障子、襖の需要減で売り上げは減少し1度倒産


透過性が高く、それでいて丈夫な同社の和紙は、美術品や古文書など文化財の保存修復の分野では必需品とされている。常に数カ月待ちの人気製品を製造するに至ったひだか和紙だが、もとは襖や障子用の紙をOEM生産する田舎の和紙工場だった。1980年代以降、和室の減少とともに売り上げは激減し、倒産を経験したこともある。


「未来はない」と言われた和紙業界に新たなニーズを開拓し、家業の立て直しを図ったのは、5代目社長の鎭西(ちんぜい)寛旨(ひろよし)さん(57歳)だ。


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鎮西さん - 筆者撮影

「学生の頃は家業を継ぐ気なんて一切なかったですよ。家には常に反抗していました」


人口約4600人の小さな村を飛び出し、アメリカで金融マンを目指していた跡取り息子。勝ち目も応援もないなかで、いかにして地域の伝統工芸を世界に売り込んだのか。


■家業を継ぐことは考えていなかった


周囲を山と森に囲まれた日高村周辺は明治時代から和紙の生産で栄えた。地域で作られる土佐和紙は当時からその薄さが特徴で、岐阜県の美濃和紙などと並び、日本三大和紙のひとつに数えられる。


ひだか和紙の歴史は、1949年に日高村周辺の紙漉き職人10人が集まり「輸出典惧帖紙協同組合」を創業したことに遡る。1969年にはオリジナルの抄紙機(しょうしき)(紙を漉く機械)を開発して機械化を実現。丁寧な下処理を施すことで質の高い和紙を大量生産できる体制を整え、規模を拡大していった。


鎭西さんは1968年にひだか和紙の5代目として生まれ、日高村で育った。中学生の頃から和紙づくりを手伝ってはいたが、家業を継ぐことには幼い頃から反発していた。


「親族から跡取りとして口うるさく言われるのが本当に嫌で。家族経営だから家では社長の父と専務の母がお金のことでケンカばかり。正直に言うと、家のことは嫌いだったんです」


子どもの頃の夢はパイロット。母方の祖父がカナダ生まれだった影響で幼い頃から海外に憧れた。「いつか世界に行くんだ」と思いながら、中学校と高校では英語のディベートサークルに所属して語学力を磨いた。


■パイロットの夢を諦め、金融マンを目指す


しかし18歳で臨んだパイロット養成学校の入学試験は不合格。アレルギー体質だったことが影響して体格試験をパスできなかった。長年の目標を失った鎭西さんは「パイロットがダメならさっさと海外に行こう」と思い直し、20歳でアメリカに留学した。父からは猛反対されたが、母と祖父が応援してくれた。


「寛旨、アメリカはいいぞ! いってこい!」


祖父の言葉を胸に西海岸のシアトルに渡った。高校時代に落合信彦などの経済小説が大好きだったこともあり、アメリカでは金融を学ぶことにした。語学学校とカレッジで3年間基礎を学んだ後、ビジネススクールに約3年半通った。


「家業と違って、モノを作って売る以外の方法で稼ぎたかったんです。M&Aなど会社の価値を高めて売却するようなダイナミックな商売がしたいと思っていました」


■「会社が潰れそうだ」実家からの電話


アメリカ生活が6年半を超えた頃、修了が迫っていた鎭西さんに実家から電話があった。「跡取りがいないと銀行が融資をしないと言っている。お願いだから帰ってきてほしい」と、帰国を懇願された。


当時、家業は火の車だった。住環境の変化により和室が減少し、襖や障子用和紙の生産が中心だった同社の売り上げは急激に落ち込んでいた。


鎭西さんが高校生の頃には曽祖父が仲間と立ち上げた組合が破産。経営を続けるために母の親族が負債を肩代わりし、1986年に「ひだか和紙有限会社」に名前を変えて再出発した過去もある。


実家が苦しい状況にあることを知っていた鎭西さんは、両親の願いを無下に断ることができなかった。就職が決まっていたアメリカの金融会社に断りの電話を入れて帰国の途についた。1995年、27歳の頃だった。


「当時は、日本が嫌だったら会社を売ってアメリカに戻ればいいと思っていました。会社を誰かに譲るにしろ、自分が継ぐにしろ、まずは会社を立て直さないとダメだと思って。気持ちを切り替えて頑張ることにしたんです」


■カップ酒の空き瓶が転がる工房、ちらつく2度目の倒産


帰国後、鎮西さんは業界の商習慣を学ぶために、まず実家の取引先だった包装紙の卸会社に就職した。ひだか和紙は跡取りのめどがついたことで金融機関や得意先とも前向きな話が進められるようになった。大阪で営業マンとして6年半を過ごした後、2002年に34歳で故郷に戻り、ひだか和紙に就職した。社員として戻ってみると想像していた以上に家業は危機的状況だった。


「売り上げは低迷して利益率もすこぶる低い。そしてとにかく工場や事務所が汚い。これは本格的にやばいと思いました」


2000年代に入り、住宅や建具用の和紙の需要はさらに落ち込んでいた。これまで1万枚単位だった発注が5000枚になり、最終的に1000枚になった。大口注文が減って在庫を抱えるようになり、あれよあれよと資金繰りが悪化していった。


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紙を漉く機械 - 筆者撮影

日高村は朝晩の寒暖差が激しい。身体を温めるために酒を飲みながら仕事をする職人も多く、工場内には工具が散らばり、床にはカップ酒の空き瓶がいたるところに落ちていた。事務所内には書類が整理されずに積み上がり、水道代や材料費、税金などの督促が何通も届いた。


2度目の倒産は確実に迫っていた。


■「強みを生かせ」で「和紙の薄さ」に再着目


焦りを感じた鎮西さんは、できることをとにかくやった。朝と晩に一人で工場の片付けをする傍ら、空いた時間を使ってビジネスセミナーに通い、片っ端からビジネス書を読み漁った。なんとか突破口を見つけようと必死だった。


「何個もビジネスセミナーに通って、何冊も本を読んで気付いたのは、どれも『強みを生かせ』と言ってるなって。それで『うちの強みってなんだ?』と考えた時に、やっぱり薄さしかないよなって思ったんです」


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原料となる楮 - 筆者撮影
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楮を水洗いする鎮西さん - 筆者撮影

和紙作りは非常に繊細だ。材料の楮(こうぞ)を煮て繊維を取り出し、不純物を取り除いた後に細かく砕く。それを植物由来の粘り気のある液体「ネリ」と水に混ぜて出来上がった原料を薄く伸ばして紙ができる。


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ネリ - 筆者撮影

ひだか和紙では、不純物を取り除く作業を従業員の半分、5人がかりで行う。時には水洗いを20回以上繰り返し、数日から数週間かけて塵や不純物を徹底的に取り除く。この「手漉き以上に手間をかける下処理」と抄紙機の微妙な力加減を研究し続けて、業界でもトップクラスに薄い紙を生産する技術を磨いてきた。


「この薄さが強みになる売り先はどこだろう」


■「薄い和紙」は文化財の保存修復にうってつけ


本や普及し始めたばかりのインターネットであらゆる可能性を模索したなかで、たまたま仏像や絵画、古文書など文化財の保存修復に和紙が使われていることを知った。


例えば古文書などの保存には、経年劣化を抑えるために古い紙の表や裏に和紙を貼って補強する。コピー用紙などに使われるパルプ紙の方が紙としての強度は高いが、50年後、100年後を考えると和紙のほうが強度が持続するのだという。


そのうえ和紙は柔らかく、折り曲げても破れにくいため平面のものから立体物まで対応できる。さらに薄ければ薄いほど透明度が上がり、文化財本来の色や文字の視認性を確保できる。まさに「薄い和紙が求められている市場」だった。


「セレンディピティっていうのかな。書店で偶然、自分に必要な本にパッと巡り合う感覚ってわかります? 何かないかって必死に探していた時にたまたま『文化財の保存修復』に出合えたんです」


■運命を変えた「一本の問い合わせ電話」


文化財の保存修復に可能性を感じた鎭西さんは、すぐに行動を起こした。


黄色い電話帳を開き、関係団体や企業に上から順にサンプルを送った。当時は見本帳も会社案内もなかったため、すべて手作りして封筒に収めた。作業は夜な夜な続いた。


家族からは「すぐに売り上げが上がるところを探してこい」と怒られた。勝算はなかったが「何かしなければ」との想いだけが鎭西さんを動かした。


しかし、全国に300通を超える封筒を送っても、良い反応をくれる企業はゼロだった。「やっぱりダメか」と諦めかけていた2007年の暮れ、鎭西さんが「一筋の光」と振り返る一本の電話がかかってきた。


それは国宝を含む仏像や彫刻などの修復を手掛ける団体からの問い合わせだった。


「東京の浅草にある浅草寺宝蔵門の仁王像の修復を手掛けていて、そちらの和紙を使ってみたい。試しにいくつか送ってほしい」との内容だった。


■売り上げはたったの1000円、でも…


雷門で有名な浅草寺といえば東京のランドマークのひとつだ。鎭西さんは持てるだけの和紙を両手に抱えて、事務所がある埼玉へ飛んだ。家族には「東京の既存顧客へ営業に行ってくる」と嘘をついた。


「最初で最後の希望のように感じていました。電話の後、埼玉にすっ飛んでいって、和紙を見せながら会社のこと、自分たちができることを、これでもかと語りました」


仏像の修復では、色落ちなどの進行を遅らせるために彩色層(色が塗られている層)に和紙を貼り付け補強する技法が用いられる。和紙の質の高さと鎭西さんの熱意を買われ、浅草寺仁王像の修復に、1m65cm四方の和紙を10枚使ってくれることになった。売り上げは当時の値付けでたったの1000円。しかし、鎭西さんにとっては希望の1000円だった。


■「損して得とれ!」の精神


浅草寺仁王像の修復に参加したことがきっかけで、ひだか和紙は翌年2008年に文化財修復学会の協賛会員となるチャンスを得た。関連企業や団体が多く参加する同会に所属できれば、さらなる営業の機会に恵まれる。鎭西さんはやる気に満ちていた。


しかし、会員になるには登録費として3万円が必要だった。当時、水道の支払いさえ滞ることもあったひだか和紙にとっては大金だ。さらに鎭西さんが営業の好機と考えていた学会の展示会参加にはさらに10万円がかかる。


「たった1000円を売り上げただけで、何を言ってるんだ!」
「先に払うべき督促状は山積みだ! そんな金はない!」


両親からは応援されるどころか怒鳴られることも多かった。それでも鎭西さんの気持ちは変わらなかった。


「薄さが特徴の和紙が活躍できるのはその道しかないと思ったんです。確実に売り上げが立つ見込みはない状態で、正直、僕も怖かったですよ。でも『損して得とれ!』の気持ちで、やるしかないと思ったんです」


■文書の最高機関からもらった「お墨付き」


ひだか和紙は幸運にも伝統技術の産業振興を支援する国の補助事業に採択され、ギリギリで活動費を工面することができた。学会員になったことをきっかけに、鎭西さんの取り組みは、家族の予想に反して好転していく。


学会に所属してしばらくして、事務所にまた電話がかかってきた。今度は国立公文書館から和紙を使いたいとの依頼だった。


国立公文書館とは、全国の図書館や公文書館の総本部のような場所だ。日本国憲法の原文や「玉音放送」として知られる「終戦の詔書」など、国の重要な公文書が保存されている。


鎭西さんは電話口で用件を聞き、また親に内緒で東京に飛んだ。


鎭西さん曰く、紙に関しては日本が世界でもっとも古い歴史がある。中国の古い書物は竹が使われていて、ヨーロッパでは羊の皮「羊皮紙」が用いられた。木の繊維から作る紙の利用は日本がずば抜けて長い歴史を持ち、和紙を使った保存技術は世界から注目されていた。


文書や書物の最高機関とも呼ぶべき国立公文書館には、日本のみならず世界中から保存修復技術を学ぶ人たちが集まる。世界の有名美術館にはここで技術を学んだ職人も多い。同館の「お墨付き」をもらったことで、ひだか和紙の評判はじわじわと全国各地へと広まり、徐々に保存修復用の和紙の依頼が入るようになっていった。


■問い合わせはついに海外からも


国内での知名度が少しずつ上がり始めたころ、ひだか和紙にある一通の問い合わせメールが届いた。


「公文書等の保存修復にあなたの和紙を使ってみたい。4、5枚を送ってくれないか」


差出人は「オックスフォード大学」。イギリスの超名門大学からのオファーだった。驚いた鎭西さんはすぐに和紙をイギリスへと送った。5枚分の売り上げは800円。海外取引の勝手がわからず、イギリスからの振り込みと両替の手数料2500円をこちらで負担することになってしまった。完全な赤字だったが「損して得とれ」の精神はここでも続いていた。


続けざまに今度はフランスのルーブル美術館からもメールが届いた。その後もドイツの博物館など、ポツポツと海外からの問い合わせが続いた。


「Louvre(ルーブル)って綴りが最初は読めなくてね(笑)。『え、あのルーブル⁉』ってびっくりしましたよ。国立公文書館経由で知ったのか、ヨーロッパの職人の口コミか、詳しいことはわからないんですが、海外から問い合わせが入るようになったんです」


海外の需要の高さを感じた鎭西さんは、サンプルを持ってヨーロッパに飛ぶ決心をした。渡航費用は補助金や借金でどうにか工面した。国立公文書館の紹介を頼りに美術館や博物館にアポイントをとり、2月のある寒い冬の日、まずはドイツに飛んだ。


■ヨーロッパに飛んで気付いた「これなら勝てる」


世界トップと言われている日本の和紙を使った保存修復技術はヨーロッパにも浸透していた。


写真提供=ひだか和紙
損傷した書籍の背表紙に和紙を貼る様子 - 写真提供=ひだか和紙

ドイツを周り、その後、フランスのルーブル美術館、イギリスの大英博物館など、名だたる施設を巡って現場を観察した鎭西さんは、日本との違いに驚くことばかりだった。


それは鎭西さんがロンドンにある有名博物館を訪れた時のこと。絵画の保存修復を担当する職人に「前任者が買って大切に使っていた和紙がなくなりかけている。新しく購入したいのだが、まずはどんな紙なのか調べてほしい」と言われた。


美術品のなかには、レオナルド・ダ・ヴィンチの直筆スケッチなどもあった。和紙は用途によって必要な厚さや質が異なる。だが、修復予定の美術品に使われていた和紙は、本来求められる品質とはまるで異なるものだった。


「『え、本当に⁉』と驚きましたよ。他の施設でも、使われている多くは普通の障子紙より少し薄いくらいのぶ厚い和紙でした。聞くと、ヨーロッパにも日本の和紙を卸す会社はあるけれど、商品に限りがあったり、対応が遅かったり問題も多かった。海外の現状を見て初めて『ここで商売したら勝てる』と思ったんです」


自分たちには知識と経験、そして何より薄くて丈夫な和紙がある。鎭西さんは英語が堪能だ。直接取引をすればコミュニケーションロスも少ない。鎭西さんは目の前に広がる可能性にワクワクした。


■「2位じゃダメ」世界一薄い和紙の開発に着手


当時、ひだか和紙が作るもっとも薄い和紙は、1平方メートルあたり3.5gのものだった。それでも日本トップクラスの薄さを誇ったが、海外にはもっと薄い紙を漉く職人がいた。「2位では誰にも覚えてもらえない」と思った鎭西さんは、世界一を目指すことを決意する。


「ドイツに『1平方メートル2.0g』の紙を作っている手漉き職人がいるのは知っていました。手漉きだと時間がかかって量産ができない。機械漉きで世界一を超えれば、市場でより目立てると思いました」


こうして世界一薄い和紙を作るプロジェクトが始動した。鎭西さんと若い社員2名の3人で開発チームを組み、業務終了後や土日に集まって開発を行った。親族からは引き続き反対されていたので、秘密裏に動く必要があった。楮を使いすぎるとバレるので無駄使いはできない。深夜の工場でひっそりと活動が続いた。


和紙は、伸ばす力と引っ張る力のバランスで薄さが決まる。原料の粘度、漉くスピード、機械の角度と力加減など、和紙づくりを構成するさまざま要素をミリ単位で調整した。実際に漉いて様子を確認してメモをとる。地道な作業の繰り返しだった。


「薄くしたければ薄くすることはできるんです。でも途中でどうしても穴が空いてしまう。うちの規格は長さ60mでワンロールです。薄さを追求しつつ少なくとも60mは破れない和紙を作ることが完成の条件でした。いい塩梅を探すのに必殺技なんてありません。すべてトライアルアンドエラーです」


■2年間の試行錯誤の末、0.02ミリの和紙が完成


100メートルを走るオリンピック選手が0.01秒を縮めるのに苦労するように、世界一薄い紙を作るには並大抵以上の努力が必要だった。試行錯誤の日々は丸2年続いた。


「大変だと感じたことはないですね。むしろ面白かった。これができたら会社もなんとかなるぞって希望があったし、『お客さんの要望に応えたい』ってことしか考えていなかったです。ついてきてくれたメンバーには本当に感謝しています」


試行錯誤の末、2012年に世界最薄と並ぶ薄さの機械漉きの和紙をついに完成させた。さらにその1年後には世界最薄を上回る厚さ0.02mm、1平方メートルあたり1.6gの和紙が完成した。


■海外の取引が3割を超えるまでに


世界一薄い和紙が完成してからも、鎭西さんの足で稼ぐスタイルは変わらなかった。世界一の冠がついたことで国内外のメディアから取材を受けるようになり、問い合わせが増加。家族からもやっと認めてもらえたことで、それまで以上に全国各地を営業に駆け回った。


会社案内やサンプルは日本語と英語を併記して作成。webサイトもバイリンガルに作りかえた。パンフレットに英語を記載したことで外国でも配りやすくなり、口コミとともに加速度的に認知度が広がっていった。


さらに2014年からはヨーロッパのほか世界各国で和紙のワークショップを開催。営業やコネクション作りと併せて、和紙の作り手と保存修復の職人が相互に学び合う場作りにも挑んでいる。


現地で日本人の修復師によるデモンストレーションを行ったり、和紙を使った修復方法を職人同士で意見しあったりし、会場はいつも活発な議論で賑わった。


「世界中の美術館、博物館の修復師と話をしていると、世界トップクラスの技術を持った人たちのはずなのに、和紙の知識や使い方が正しく伝わってない場合も多いんだなとわかりました。和紙の作り方にしても、機械に原料を流し仕込んだらできると思っている。ひだか和紙では手漉きの紙以上に手間かけて作っているのを伝えると驚いていましたよ」


こうした努力の甲斐あって、鎭西さんが2016年に社長に就任した頃には海外からの取引は全体の3割を超えた。


■「やれることは何でもやる」姿勢


和紙の価値を理解してくれた顧客と、適正価格で直取引ができることで利益率は大幅にアップ。ほとんどがオーダーメイドなため、技術力とともにアイデアや提案力も売値に載せられるようになったことも売り上げ向上につながった。


写真提供=ひだか和紙
修復前の代々木体育館の図面 - 写真提供=ひだか和紙
写真提供=ひだか和紙
図面の修復作業の様子 - 写真提供=ひだか和紙

ワークショップはヨーロッパを超えて、アメリカや韓国、ブラジル、トルコ、エジプトなどでも行われた。数千年の歴史を未来に残す仕事に携わりながら、鎭西さんは和紙を抱えて文字通り世界を走り回っている。


「和紙は薄ければいいってもんじゃない。用途によって適切な薄さや色、質感があります。これまで培ってきたデータと照らし合わせながら、最適解を一緒に考えられるのがうちの強み。『なんでもやれることは精一杯やります』という姿勢がお客様に支持されているんだと思います」


■こだわりがないのがこだわり


2025年1月現在、ひだか和紙の取引先は全世界37カ国にわたる。オーダーは数カ月待ちの人気だ。売り上げは右肩上がりで推移し、全体の4割が海外だ。


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和紙によって修復されたサンパウロ公文書館の新聞 - 写真提供=ひだか和紙
写真提供=ひだか和紙
和紙によって修復されたサンパウロ公文書館の新聞 - 写真提供=ひだか和紙

ひだか和紙の経営は大幅に改善し、営業利益は大幅にアップ。職人さんへの給与も鎭西さんが入社した2002年頃と比べて倍近い額を払えるようになった。


「成功の秘訣は特にないんですが、強いて言えば、お客さんが求めるものに集中することですかね。特に伝統工芸の作り手って『自分のこだわり』が強い人も多い。うちはね、こだわりがないことがこだわりなんです」


ひだか和紙では薄さのほか、色や質感などを変えて1000種類以上の紙を作ることができる。「お客さんが求めるもの至上主義」と話す鎭西さんのもとには、文化財の保存修復以外にもさまざまな分野からの相談が後を絶たない。


2017年からは有名腕時計ブランドのハイエンドモデルの文字盤に、ひだか和紙の和紙が使われている。東京の新国立競技場のVIPルームや都内の超高級ホテルのスイートルームの壁紙にも採用された。有名アーティストや高級インテリアブランドとのコラボ商品も増えている。


文化財保護の分野では、和紙の役割はいわば「裏方」だ。裏方での仕事ぶりが評価されて、今ではひだか和紙が作る和紙の質感を存分に活かした「前に出る仕事」が多くなっている。


「うちはたまたま薄い和紙が得意だっただけ。大発明や大発見なんてしていません。何かを少し足したり引いたりして、柔軟に考えて工夫してみること。そこが一番大切かなって思いますね」


■反対されても、格好悪くてもやってみる


鎭西さんの今後の目標は「『和紙の辞典』のような会社になること」だという。曽祖父の代から75年間以上培ってきた技術と経験とデータを活かして、どんなリクエストにも応えられる「紙のパートナーになりたい」と話す。


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「うちで作る和紙だけでなく、世界中のいろいろな紙をお客様に紹介しながら、求めるものに応じて一番いい提案ができる存在になりたいんです。うちに言えば何かあるんじゃないか、何かできるんじゃないかって思ってもらえたら嬉しいですね」


お客様の要望にどこまで応えられるか。その忍耐力への挑戦だと鎭西さんは話す。


「反対されても、格好悪くても、まずはやることが大事なんですよね。とにかくなんでもやってみる。子どもの時からそういう性格なんです。これはもう一生治らないですね」


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甲斐 イアン(かい・いあん)
ライター
1989年千葉県生まれ。過疎地のPR・地域活性化に携わったのち、フリーライター・イラストレーターとして独立。徳島県在住。特技はバタフライ。
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(ライター 甲斐 イアン)

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