なんやこのオッサン…Jリーグ開幕前、元日本代表・山口素弘を「弱小チーム」に入団させた勝負師・加茂周の言葉

2024年4月12日(金)15時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/South_agency

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将来有望な人物を採用するにはどうしたらいいか。Jリーグで唯一消滅したクラブ・横浜フリューゲルスの監督を務めた加茂周は、ユニバーシアード日本代表の山口素弘に「読売(クラブ)と日産(自動車)を倒すサッカーをする。やりたかったら来い」と声をかけた。山口は面白いことを言う人だと興味を持ち、勝負師の怖さ、迫力を感じたという。田崎健太氏の著書『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』(カンゼン)より紹介する——。

※本稿は、田崎健太『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』(カンゼン)の一部を再編集したものです。


写真=iStock.com/South_agency
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■「わしはな、お前のためにこのチームに来たんだぞ」


前田治によると、90〜91年シーズンの途中から顧問の加茂周が、しばしば練習見学に来たという。


「チームの雰囲気を把握したいということだったようです。俺たちも、ああ、(来季から)加茂さんが監督になるんだという感じになってました。加茂さんが、こんな練習量じゃ勝てないと言っていると栗(本)さんから聞いていました。


栗さんと加茂さんはすごく仲が良かったんです。午前午後で2部練(習)するという話だったのに、午前中ちょっと長めに練習したら、今日はもういいかと午後練(習)がなくなったり、ということもあった」


ある日、前田たち主力選手は加茂、栗本、そしてヘッドコーチに内定していた木村文治の三人から呼びだされた。


「(横浜市)関内のふぐ料理屋でしたね。選手は反町さん、石末さんたち五人ぐらいいたのかな。酒を飲みながら、色んな話をしようということでした」


前田が酌をしに行くと加茂は「ここに座れ」と隣りの席を指さした。そしてこう続けた。


「治のことは(帝京)高校から見ていたよ。全日空の1年目も良かった。でも最近、全然良くないな、お前、このままでいいのか」


前田は即座に「もちろん、これで終わりたくないです」と答えた。


加茂は前田の顔をじっと見た。


「わしはな、お前のためにこのチームに来たんだぞ」


お前を復活させるために来たんだと繰り返すと、「お前もそう思うんならば、やれ」とぶっきらぼうに言った。


「もしかして、みんなに言っていたのかもしれません。でも、この人がそこまで言ってくれるんだったら、ひと頑張りしたいって思うじゃないですか。ぼくはおだてられると木に登ってしまうタイプ。そんな風に言われて何もしないなんてありえないです」


■個人技頼みのサッカーは世界の潮流の中で時代遅れ


加茂は新たな試みを温めていた。


この年代の例に漏れず、加茂は70年ワールドカップで優勝したブラジル代表に魅せられた人間だった。円熟期に入っていたペレ、爆発的な突破力のジャイルジーニョ、華麗な足技のリベリーノ、頭脳的なポジショニングのトスタン、キャプテンで右サイドバック、カルロス・アウベルト・トーレスなど才能ある選手を揃えた史上最強のブラジル代表である。


ブラジル人の愛する、強くて華麗なフッチボウ・アルチ——芸術サッカーと同義になるチームだった。ところが4年後の74年ワールドカップ、ブラジル代表はオランダ代表に敗れている。優勝はそのオランダ代表を決勝で破った西ドイツ代表だった。


この大会から欧州の組織的なサッカーが主流になった。その流れが欧州に限らないと実感したのは、ずいぶん後の89年7月のことだった。


日産自動車サッカー部監督を辞した後、加茂はコパ・アメリカが開催されていたブラジルを訪れている。そこでセバスチャン・ラザロニが監督を務めるブラジル代表に感銘を受けた。


〈ブラジルが勝った70年以降はスピードが上がる一方で、中盤がどんどん狭くなってきていた。70年のブラジルのような芸術的な技術をもってしても、それだけでは通用しないようになっていた。速く、シンプルで正確な技術を使い、速いサッカーをしないと通用しない。
(中略)
当時はまだ「コンパクト」という言葉は使っていなかったが、チームの最前線から最後尾までを一定の幅に保つプレーは、まさにコンパクトそのものだった。攻撃ではダイレクトパスを使って前に行くのがものすごく速かった。
こうした戦術はヨーロッパでとくに発達したものだったが、ブラジルはそれを完全に消化し、しかもテクニックの高さはブラジルそのものだった〉(『モダンサッカーへの挑戦』)

加茂は日産自動車での最後のシーズン、リーグ、カップ戦、天皇杯の三冠を獲得している。しかし、自分のやってきた個人技頼みのサッカーは世界の潮流の中で時代遅れであることを改めて自覚した。全日空スポーツの雁瀬から誘いを受けたのはその直後だった。


加茂の理想とするサッカーを具現化しているチームがあった。イタリアのACミランである。


写真=iStock.com/ilbusca
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ACミランはロンバルディア州の州都ミラノを本拠地として1899年に設立された。50年代に賭博スキャンダルに関与し2部へ降格、その後は長らく低迷していた。86年、実業家で後に首相となるシルヴィオ・ベルルスコーニが会長に就任し、クラブを大きく変えた。


87年にオランダ人選手のルート・フリット、マルコ・ファン・バステンが加入、監督にアリゴ・サッキを招聘した。この年、10年ぶりのリーグタイトルを獲得している。


■自分の目で国外のサッカーを観に行く


ミランのサッカーの特徴は、最終ラインと最前線の距離を30から50メートルに保つことだ。そして相手ゴールに近い場所でボールを奪い、得点に繋げる。


加茂は顧問という助走期間を利用して、選手たちに助言を与えた。ディフェンダーの岩井厚裕はヘッドコーチとなる木村から、フランコ・バレージのプレーを見習えと言われたという。


イタリア代表のバレージはACミランの守備の要だった。17歳で、ACミランの下部組織からトップチームに昇格。サッキ監督就任後は最後列で守備を統率し、攻撃の起点にもなっていた。


「今みたいにテレビで国外のサッカーが沢山観られる時代ではなかったんです。とにかく自分の目で確かめるしかないって、国立競技場までトヨタカップを観に行きました」


90年12月9日、ヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップの勝者とリベルタドーレス杯の勝者によるインターコンチネンタル杯、通称「トヨタカップ」が行われた。この年はACミランとパラグアイのオリンピアの対戦だった。


このときミランはファン・バステン、フリットに加えて、もう一人のオランダ人、フランク・ライカールト、そしてイタリア代表のロベルト・ドナドーニ、アレッサンドロ・コスタクルタ、パオロ・マルディーニなどを擁した世界最強のチームだった。試合は3対0でミランが勝利している。


■加茂の監督就任でチームの雰囲気が一変


翌91年、4月から全日空SCに加入する二人の選手がアルゼンチンへ留学している。順天堂大学の大嶽直人、そして東海大学の山口素弘である。


山口は1969年1月に群馬県高崎市で生まれた。前橋育英高校から東海大学に進んだ。岩井の2学年下にあたる。2年生と4年生時に東海大学は全日本大学サッカー選手権で優勝、ユニバーシアード日本代表に選出された。卒業が近づくと多くのクラブからの誘いを受けた。


「新橋の焼肉屋で、加茂さん、全日空(スポーツ)の人と会いました」


それまで加茂と面識はなく、日産自動車サッカー部の黄金期を作り上げた監督という知識だけだった。


加茂の口から出たのは意外な言葉だったという。


——読売(クラブ)と日産(自動車)を倒すサッカーをする。やりたかったら来い。


山口はこう振り返る。


「他のチームの人は、みんな来てくれ、すぐにレギュラーになれると。来て欲しいから、良いことを言いますよね。でも加茂さんは違った」


最初は、なんやこのおっさんと思いましたと笑う。


「面白いことを言う人だと加茂さんに興味を持ちましたね。勝負師の怖さ、迫力を感じました。それが加茂さんの手だったのかもしれませんけど」


約1カ月のアルゼンチン留学から帰国、全日空SCに合流した。


「大学卒業前の3月から試合登録できたんです。監督は塩澤さんで、明るいチームだなという印象でした。1回だけベンチ入りしましたが、試合には出ていないです。その後、ぼくと大嶽はユニバーシアード(代表)に行きました」


91年5月、シーズンが終了した。優勝は読売クラブ、全日空SCは7位だった。その後、加茂の監督就任でチームの雰囲気が一変したと山口は言う。


「加茂さんに、プロとは何かを叩き込まれました。お前らのプレーには生活がかかっているんだ、プロなんだから自分の足で金を稼げと」


写真=iStock.com/Panorama Images
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■「規律が大切」を体現したサッカー


練習を仕切ったのは、ズデンコ・ベルデニックだった。


ベルデニックは1949年に旧ユーゴスラビア、現スロベニアで生まれた。ユーゴスラビア2部リーグでプレーしたのち、指導者に転身した。


ドイツ体育大学ケルンで知り合った祖母井秀隆の誘いで、彼が監督を務める北摂蹴鞠団の短期コーチを務め、加茂の誘いで全日空SCのコーチに就任していた。


前田治は加茂=ベルデニックのサッカーは、相手がボールを持ったときの守備が特徴的だったと評する。


「一人目がボールを奪いに行く。その空いたスペースに別の選手がスライドして、追い込んでいく。その選手の場所はまた別の選手が埋める。一人でもやらない選手がいたら機能しない。


だから規律が大切だと口酸っぱく言われるようになった、練習時間でも1分1秒遅れても駄目だという風になった。当たり前のことなんですけれど、それでさえこれまでは徹底されていなかった」


組織での守備は今日では当然のことである。しかし、当時の日本のサッカー界はそうではなかった。


この頃、日本で初めて有料放送を行った衛星放送局「WOWOW」がイタリアの1部リーグ、セリエAの中継放送を始めている。


ベルデニックはACミランのサッカーを例にとり「ソーナプレス」と選手たちに説明した。これを英語に直訳した「ゾーンプレス」は加茂のサッカーを象徴する単語となった。


岩井厚裕はこう振り返る。


「(相手ボールになったとき)まずディフェンスはサイドに追い込んでいく。そしてボールを持った選手を囲い込んで、プレスをかけて奪う。奪ったら縦に速くボールを出して攻める」


守備から攻撃への速い切り替えである。


■プロとアマチュアの間で揺れ動いていた選手


ベルデニックは練習中、笛を吹いてプレーを止め、動き方に細かく指示を出した。一部のアルゼンチン人選手がベルデニックの手法に激しく反発した。彼らは東欧を格下だと考えており、ベルデニックに細かく指示を出されることが許せなかったのだ。


「(ぼくは)不満はなかったです。それをやらないと試合に出られないので」


岩井の印象に残っているのはベルデニックに「時に長いパスを狙え」と指示されたことだ。ボールを奪ったあと、近くにいる中盤の選手に渡すだけではなく、状況によって前線の選手にパスを出せというのだ。


守備の選手も攻撃を意識しろという指示を受けたのは初めてだった。見本はやはりバレージだった。テレビ映像で最後列のバレージの動きを確認するのは限界があった。後に岩井はバレージの一挙一動を確認するためにイタリアまで足を運ぶことになる。


日本サッカー全体が動き出していた。


91年6月、2002年ワールドカップ日本招致委員会が立ち上がっている。翌7月、プロサッカーリーグの正式名称は「Jリーグ」と決まった。


写真=iStock.com/Artsanova
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9月15日、最後の日本リーグが開幕した。全日空SCは第1節で松下電器に1対1で引き分け、その後、ヤマハ発動機に3対4、日産自動車に0対1、読売クラブに0対1で敗れた。ようやく初勝利を挙げたのは、第5節の日立戦だった。


選手はプロとアマチュアの間で揺れ動いていたと反町は言う。


「読売クラブはもうみんなプロだった。大学に通いながらプロ契約を結んでいた菊原(志郎)のような選手もいた。日産(自動車)も全員の選手とプロ契約を結ぶという方針だった。一方で、プロ契約の選手に加えて、暫定的に社員選手を認めるというクラブもあった。


試合前、松下(電器)の永島(昭浩)や三菱(重工)の福田(正博)とか社員選手と、お前、どうするんだって話をした。永島はプロでやる、福田は最初、社員選手でやると言っていたのかな」


三浦知良は「本当のプロ」


反町は前年の90年7月に行われたダイナスティカップで日本代表に選出されており、永島や福田たち、他のクラブの選手と付き合いがあった。9月に北京で行われたアジア競技大会から、日本代表に読売クラブのラモス瑠偉、そして三浦知良が呼ばれている。


「知良はだいたい同じ時期に代表に入ったから、よく話をしたね。あっ、こういうのが本当のプロなんだなっていう感じだった。彼の家にも遊びに行ったけど、良いマンションに住んで、良い車に乗って。芝生の上では同じ立場だけれど、他の境遇は俺とはまったく違うなって見ていた」


反町自身はプロ契約に移行する気はなかった。


「うちの親父もサラリーマンで定年退職するまで同じ会社にいた。それが普通だという固定観念があったんだろうね。全日空は風通しのいい会社で、バブルの真っ只中だったので待遇も良かった。仕事でも信頼されているという感覚もあった。辞めてプロになるという気は毛頭なかった」


すでに20代半ばを超えており、現役生活はそう長くない。俺はそのまま会社員としてサッカーを続ける気だと永島たちに言うと、そうだよな、全日空いい会社だもんな、という答えが返ってきた。


92年3月、第22節のトヨタ自動車戦を0対0で引き分け、最後の日本リーグは12チーム中8位で終了した。4月、チーム名が全日空SCから「横浜フリューゲルス」となっている。


■決まり事が消化不良で2勝7敗最下位に


この年の9月からJリーグの前哨戦にあたるヤマザキナビスコカップが始まった。Jリーグに参加する10クラブがリーグ戦を行い、上位4クラブが決勝トーナメントに進出する。フリューゲルスは予選リーグ、2勝7敗で最下位に沈んだ。



田崎健太『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』

加茂の導入した決まり事が消化不良だったと前田は考えている。


「ゾーンプレスって立ち上がりの10分ぐらいまで機能しても、だんだん運動量が落ちるので、守備のずれが大きくなっていく。特にヴェルディはパスを繋ぐのが上手い。(集団でプレスを掛けて)ボールを取りに行っても、いなされる。チンチンにやられましたものね」


9月5日、茨城県の笠松運動公園陸上競技場で行われた鹿島アントラーズ戦では2対4と惨敗、観客席から「金返せ」と罵声を浴びせられた。


「チーム内でもゾーンプレスは無理じゃないかという声は出てました。加茂さんはミーティングで、これをやり続ける、できるようになれば5年、10年勝てるチームを作れると言っていた。ぼくらはこの言葉を信じるしかなかった」


そして翌年5月のJリーグ開幕を迎えることになった。


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田崎 健太(たざき・けんた)
ノンフィクション作家
1968年3月13日京都市生まれ。『カニジル』編集長。『UmeBoshi』編集長。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『電通とFIFA』『新説・長州力』『新説佐山サトル』『スポーツアイデンティティ』(太田出版)など。小学校3年生から3年間鳥取市に在住。2021年、(株)カニジルを立ち上げ、とりだい病院1階で『カニジルブックストア』を運営中。
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(ノンフィクション作家 田崎 健太)

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