戦後に三菱Gで慶応学閥が「幅をきかせた」のはなぜか…東大理系・一橋大卒の役員激減の中、慶応増加のワケ
2025年4月13日(日)16時15分 プレジデント社
出典=『財閥と学閥』
※本稿は菊地浩之『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』(角川新書)の一部を再編集したものです。
■1999年時点での三菱グループにおける最大学閥は?
三菱の現在の状況について見てみよう。ただし、分析年次は1999年とする。2000年以降は三井と住友が合併したり、安田が「みずほ」に吞み込まれたりして、三井財閥や安田財閥の現在といえなくなってしまうからだ。
三菱グループ企業というと、一般的には社長会「三菱金曜会」加盟メンバーを指すが、分系会社(三菱財閥の直系企業)以外のキリンビール、東京海上火災保険、明治生命保険、戦後設立の三菱自動車工業、三菱建設を含んでいるので、対象を分系会社の後継会社に絞った。ただし、三菱石油は1999年当時、日本石油に吸収合併されてしまい(日石三菱)、三菱グループ会社とはいえないと思われたため除外した。また、三菱マテリアル(旧三菱鉱業)は役員の学歴を開示していないので、これも対象から除外した。
出典=『財閥と学閥』
■財閥解体後、三菱グループ再結集を導いた同期生たち
終戦直後、三菱は財閥解体された後も有志が秘密裏に会合を重ね、再結集が訪れる日を虎視眈々と窺(うかが)っていた。
「三菱本社の清算人であった石黒俊夫氏が、当時追放中の加藤武男、田中完三(かんぞう)および岩崎家の社長の家系を汲む岩崎彦弥太の三氏に相談し、その指示をえて必要のつど三菱銀行の三階の一郭にあった石黒氏の事務室に各社社長を招集して指令を伝えるとともに、その対策を協議していた。
『従って当時のその会合は定期的なものではなく、必要のつど集まったという程度のものであったが、その頃から一部社長の間で、たとい中心となる本社はなくとも、各社間に連繫を保ち相伴って社運の復興を計らんとする機運強く、占領下の当時は、指令により禁止されていたにも拘わらず、重工岡野保次郎、電機高杉晋一、鉱業高木作太、銀行千金良宗三郎、金属羽仁路之氏と石黒氏が非公式に昼食を共にしたり、九段松濤寮で碁会を開いたり等して、意志の疎通の具としていた』という」(『三菱——日本を動かす企業集団』)。
財閥解体後の三菱グループは、旧財閥本社のトップ・マネジメントであるシニア経営者のグループ(加藤武男、田中完三、岩崎彦弥太(ひこやた))と、現役経営者のグループ(岡野保次郎、高杉晋一、高木作太、千金良宗三郎(ちぎらそうざぶろう)、羽仁路之(はにみちゆき))があり、後者と同世代でありながら旧本社役員だった石黒俊夫が、両者を介在する役割を担っていた。
■若くして総務部長となった石黒俊夫が同期の結束を強める
ここで興味深いのが、石黒と岡野・高杉・高木・羽仁の5人が同期入社だということだ(岡野・高杉は茨城県の公立小学校の同級生である)。かれらが入社した1917年はまだ三菱合資での一括採用だった。しかも、石黒・岡野・高杉・羽仁は共に東京大学卒(高木は神戸高商卒)、石黒・高杉・千金良が銀行出身というように、共通の経歴を持っていた。
岡野は石黒・高杉について「先輩の方々が追放になられてから後の同志としては、三菱本社の清算人となった石黒俊夫君、および小学校からの同級生で同じ時期に三菱電機の社長になった高杉晋一君で、三人は常に同志的な交遊をしました」(『昭和史への証言第4巻』)と語っている。
なお、三菱グループは終戦後もしばらくは圧倒的に東大閥優位の時代が続き、旧制一高(第一高等学校)・二高の主導権争いが続いたといわれている。1953年に石黒俊夫が社長会「三菱金曜会」を結成してそのトップ(世話役、世話人代表)に就き、石黒以降も1980年代までほぼ一高・二高出身者がその地位を独占していた。
写真=共同通信社
財閥解体後、1954年、正式に再結成された三菱商事本社のビル、1952(昭和27)年3月13日撮影、東京都千代田区丸の内 - 写真=共同通信社
■東大が最大派閥だが、戦後は理系採用が減り文系が増えた
1999年における三菱グループの学歴構成では、やはり東京大学卒が多く、3割半弱(34.2%)を占めている。ただし、戦前(1940年)に比べて文系が増えている反面、理系の減少が目立つ。
戦前の三菱重工業・三菱鉱業の幹部職員の過半数を東京大学卒が占めていた。これに対し、1999年では三菱重工業は4分の1強(26.3%、一方、三菱マテリアル〔旧三菱鉱業〕は非公表)に過ぎず、99年で東京大学卒が過半数を占めたのは東京三菱銀行(58.5%)。すべて文系である。三菱重工業の東京大学卒が減少した原因は東京大学理系の減少にあり、九州大学理系の躍進がある。九州大学理系は8人、東京大学理系、京都大学理系はともに6人で最大派閥だ。会長・増田信行(1995〜99、社長在任)が九州大学工学部卒だからだろう。
戦前でもトップの学歴が役職員に影響する、いわゆる「学閥」形成の萌芽が感じられたが、戦後はその傾向がより顕著となった。たとえば、三菱地所には小樽商科大学卒の役員が3人(11.1%)もいる。1999年に死去した元社長・中田乙一(1969〜80、社長在任)が同校の前身・小樽高商出身だからだ。社長・会長の出身校が役員に占める割合は、三菱グループが32.4%、三井グループが31.6%、住友グループが31.0%、旧安田財閥系企業で31.9%だった。おおよそ3割が会長・社長と同じ学歴の役員なのだ。これは学閥といっていいだろう。
出典=『財閥と学閥』
■慶応大学出身者が戦後に倍増し、役員も増えたワケ
東京大学卒に次ぐ第2勢力は慶応義塾卒である。1割半強(16.0%)を占め、戦前(7.5%)の倍以上に躍進している。特に多いのは、三菱信託銀行・三菱商事で、ともに役員の2割以上を占める(三菱商事では慶応義塾理系も存在する)。
写真=iStock.com/mizoula
現在の慶応義塾大学 - 写真=iStock.com/mizoula
慶応義塾卒の躍進は、三菱グループにとどまらず、4大財閥すべてにあてはまる。いわば時代の趨勢なのだ。
戦前は大学進学者が少なかったので、上流階層の子弟はよほどのおバカでなければ、東京大学・京都大学に進めた(終戦時の三菱・安田財閥の当主は東京大学、三井・住友では京都大学に在籍経験があった)。ところが、戦後は進学率の上昇とともに、旧帝大に進むことが難しくなり、代わって幼稚舎(小学校)からエスカレーター式に大学に進める慶応義塾が、上流階層の進学先として脚光を浴びた。
上流階層出身者は、親戚・知人に同じく上流階層を多く持つので、営業職では重宝される。1999年でも慶応義塾卒の事例でもないが、東条英機の次男(東京大学工学部航空学科卒)は三菱重工業副社長まで進んだ。海外の要人が「トージョーの子息なら会ってみたい」といって会見をセッティングすることができたという。
■早稲田卒、一橋卒、日東駒専卒はどうか?
早稲田・慶応と並び称される早稲田大学は、系列校の整備を怠っていたため、ここでも後塵を拝した。早稲田大学卒も大幅に増加している(1.6%→7.3%)が、まだ慶応義塾卒の半分にも満たない。
菊地浩之『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』(角川新書)
戦前の2番手だった東京高商(現在の一橋大学)卒は、戦後に1割を切り(95%)、戦前(24.5%)から大幅に減少している。東京高商は少数精鋭を謳って、1学年でおおよそ1000人強。対する東京大学は3000人前後らしい。母数が少ないから、役員数が少ないという見方はできなくはない。
しかし、同じく高商を母体とする神戸大学卒(旧神戸高商卒)も大幅減(4.7%→1.1%)なので、「高商」というカテゴリーがなくなったことで、他の大学との差別化が難しくなっているのではないか。
三菱グループの場合、高商卒の減少を穴埋めしたのが東京大学以外の旧帝大卒(6.3%→17.8%)だと思われる(換言するなら、旧帝大卒が高商卒のパイを奪った)。
高卒以下は極端に少なく1人(0.4%)、中卒以下・不明はいない。1990年代に日東駒専(日本・東洋・駒沢・専修大学)が躍進したものの、従来、高卒を採用していた枠にそれら私立大卒を代替しただけといわれた。しかし、三菱グループでは早稲田・慶応以外の私立大卒は9人(3.3%)しかおらず、高卒の代替にすらなっていない。
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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005〜06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)