トルストイ、ペンで非暴力・非戦 【沼野恭子✕リアルワールド】

2024年4月14日(日)10時0分 OVO[オーヴォ]

レフ・トルストイ

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 先日、徳富蘇峰(とくとみ・そほう)の名を冠する「蘇峰公園」(東京都大田区)の近くで講演をする機会があり、イントロとして徳富蘇峰(1863〜1957)・徳冨蘆花(とくとみ・ろか)(1868〜1927)兄弟とレフ・トルストイ(1828〜1910)の関係に触れた。徳富兄弟は2人とも、敬愛する文豪にまみえる目的で、はるばるロシア帝国の領地ヤースナヤ・ポリャーナまで出向いているのだ。

 そもそも、トルストイを日本に紹介した最初期の記事の1本は、1890(明治23)年、兄であるジャーナリストの蘇峰が、みずから主宰する雑誌「国民之友」に載せたものだった。蘇峰がトルストイに会ったのは、長期海外視察の折、1896年のことである。

 一方、兄を頼って「国民之友」の記者となった弟の蘆花は、1897年に日本で最初のトルストイ伝を刊行している。当時は、二葉亭四迷が活躍していたものの、ロシア文学の日本語訳はまださほど多くなかったため、トルストイの小説は英訳で読まれていた。蘆花も、主に英語文献を用いてこの伝記を書きあげた。そして兄に遅れること10年、1906年にヤースナヤ・ポリャーナを訪れ、食客としてもてなされ5日間滞在した。

 蘆花の「順礼紀行」には、その時トルストイと川で泳いだり、さまざまな話題で議論したり、「アンナ・カレーニナ」の一場面のように草刈りをした様子などが克明に記されている。トルストイと蘆花の2人が菜食、他の家族は肉食だったという。トルストイが肉を断ってから28年、蘆花自身は「菜食をはじめて七ヶ月の新参なり」と、つづられているのも興味深い。

 かつて私は、モスクワのトルストイ記念館を訪ねたことがあるが、一家が実際に使っていた食器のうち、肉食用と菜食用の大小二つのスープ鉢が展示されていたのが印象に残っている。

 蘆花がトルストイを訪ねたのは日露戦争が終わった翌年の1906年だが、敵国民同士だったなどという気配はつゆほども感じられない。互いへのリスペクトに基づく温かい精神的な交流が行われたのである。日露戦争が勃発した時、トルストイが「悔い改めよ」と題する反戦論文を書いて「ロンドン・タイムズ」で発表したのは有名だ。

 この非暴力・非戦の姿勢は、トルストイ自身の従軍体験に裏打ちされた確固たるものだった。それは、「戦争と平和」(1869年)のこんな場面にも見いだすことができる。

 黒雲があつまってパラパラと降り出した小雨が、死者たちの、負傷者たちの、怯(おび)えた者たちの、疲れ果てた者たちの、疑惑に駆られた者たちの体を濡らす。まるで雨はこう語り掛けているかのようだった——「もうたくさんだ、たくさんだよ、人間たち。よしなさい・・・。正気に戻るんだ。君たちはいったい何をしているんだ?」(望月哲男訳)

 擬人化された雨の問いかけが、現代の私たちの心にもことのほか切実に響く。

【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No. 15からの転載】





沼野恭子(ぬまの・きょうこ)/1957年東京都生まれ。東京外国語大学名誉教授、ロシア文学研究者、翻訳家。著書に「ロシア万華鏡」「ロシア文学の食卓」など。

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