「助けられる命」をもう失いたくない…「病院の機能停止」で4歳の娘を亡くした母親が震災報道に思うこと

2024年4月14日(日)10時15分 プレジデント社

能登半島地震の発生から3カ月を迎えた、大規模な火災が発生した観光名所「朝市通り」周辺=2024年4月1日午前、石川県輪島市 - 写真=時事通信フォト

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地震や津波による直接的な被害からは免れたものの、過酷な避難生活や医療資源の不足などで失われる命がある。2016年4月の熊本地震で、宮崎さくらさんは次女・花梨ちゃん(当時4歳)を亡くした。入院先だった熊本市民病院の機能停止などが原因の「災害関連死」だった。こうした被害は、どうすればなくせるのか。宮崎さくらさんに『最期の声 ドキュメント災害関連死』の著者・山川徹さんが聞いた——。

■地震が起きるたびに発生する「災害関連死」


——能登半島地震から3カ月が過ぎましたが、支援や復旧の遅れが報じられています。能登半島地震をどうごらんになっていますか?


災害関連死の遺族としては、能登半島の災害関連死が、どうしても気になってしまいます。災害のあとに、避難生活で持病が悪化したり、体調を崩したりして亡くなってしまうことが災害関連死です。


能登半島地震発災直後、高齢の男性が命を落としたとニュースで知りました。その男性は、避難所の床で寝ていて朝起きたときにはすでに息がなかったそうです。


熊本地震でも避難所への段ボールベッドの供給の遅れが問題になりました。段ボールベッドは、過酷な避難所生活のなかで、災害関連死を防ぐ有効な取り組みの1つと言われています。もしも避難所に段ボールベッドがあったなら、その男性は亡くならずにすんだのではないかと思わずにはいられませんでした。


被災した能登半島の映像を見るたび、どうしても8年前の後悔が蘇ってしまいます。ふだんの暮らしのなかでは思い出さない記憶が呼び起こされてしまうんです。


写真=時事通信フォト
能登半島地震の発生から3カ月を迎えた、大規模な火災が発生した観光名所「朝市通り」周辺=2024年4月1日午前、石川県輪島市 - 写真=時事通信フォト

■地震で死ぬ人より、地震後に死ぬ人のほうが多い


——体育館の床には漂うウイルスやホコリは、感染症や肺炎の原因になります。段ボールベッドは、ウイルスやホコリから被災者を守るだけではなく、保温効果もある。2018年の北海道胆振東部地震では段ボールベッドが迅速に届いたことが、災害関連死者が少なかった要因と考えられています。


災害関連死という言葉をニュースで見聞きするたびに熊本地震と同じこと——災害関連死の教訓が、支援や避難所運営に活かされずに、8年前と同じような苦労や悲しみを味わっている人たちがいるのではないか、と考えてしまいます。


熊本地震では地震の揺れが直接の原因で亡くなった方は50人に対して、災害関連死は220人を超えました。4歳で亡くなった私の娘もその1人です。


遺族の立場としては、花梨の、娘の死を教訓として、災害支援や災害医療に活かしてほしい。それが、あの子が生きた意味だったと思いたいんです。それはほかの遺族の方も同じなのではないでしょうか。


■「まさかもう一度、震度7が起きるなんて」


——災害関連死の教訓とはどういうことでしょう。


花梨を亡くしてから、私は災害支援の大きな目的の1つが災害関連死をなくすことだと考えるようになりました。ただいろいろと話を聞いたり、調べたりして災害関連死と言ってもさまざまなケースがあると知りました。


筆者撮影
2016年4月の熊本地震で、次女・花梨ちゃん(当時4歳)を亡くした宮崎さくらさん - 筆者撮影

災害関連死をなくすためには、過去の災害関連死1つ1つを丁寧に検証する必要があります。


花梨の場合は、生まれつき心臓に疾患があり、酸素を供給するチューブは手放せませんでした。それでも山登りに行ったり、みんなに交じって公園で遊んだりと本当に元気に育ちました。2016年1月末の手術を終えれば、酸素チューブを使う必要もなくなり、夏からはみんなと一緒に幼稚園に通えるはずでした。


手術は成功したのですが、感染症にかかってしまい肺炎を引き起こし、ICUで治療を続けました。まだ4歳でしたから、治療によって身体に負担がかかり、予後がよくなかった。そこで負担が軽い別の治療に切り替えたんです。すると回復の兆しが見えてきました。もうすぐ帰宅できるだろうと私たちは本当に安心したんです。


治療を切り替えた2016年4月14日の夜。熊本市が震度7の揺れにおそわれたものの、治療は継続できました。私もさほど心配はしていませんでした。余震は続くだろうけどその後、徐々におさまっていくと思っていましたから。まさかもう一度、震度7の地震が発生するなんて、想像もしていなかったんです。


■医師から告げられた信じられないひと言


2日後の4月16日深夜、突き上げられるような揺れで目を覚ましました。その後、病院から電話があり、病院の機能がストップした上、花梨が入院する病棟が老朽化していて倒壊する恐れがあると知らされました。病院が倒壊する……。最初は理解できませんでした。


転院せざるをえないことは分かったのですが、準備にとても手間取りました。病院にある救急車には輸液ポンプが積めないとわかり、ドクターヘリや自衛隊の大型救急車での搬送を検討しました。けれど、実現できなかった。


結局、病院の救急車から人工呼吸器を降ろし、主治医の先生が手動ポンプで酸素を送りながら福岡市の九州大学病院に向かいました。ふだん熊本市から1時間半ほどの距離なのに、道路状況が悪くて3時間近くかかりました。


九州大学病院は、九州でもっとも設備が整っています。これでもう大丈夫とホッとしたのもつかの間、検査を終えた先生から「熊本に帰れる可能性はほとんどありません。あったとしても数%」と告げられ、言葉を失いました。それまでダメかもしれないなんて、思ってもいませんでしたから。覚悟しました……いえ、でもまだ数%の可能性が残っている。希望が捨てられなかった。


花梨が亡くなったのは、その5日間です。私には「よくがんばったね」「一緒におうちに帰ろうね」と声をかけてあげることしかできませんでした。


■どうしたって娘は帰ってこない


——老朽化していたとはいえ、しっかり耐震措置を施していたとしたら、あるいは非常時の搬送計画が立てられていたら、と考えずにはいられませんね。


私も後悔が尽きないんです。病棟の老朽化を知っていたのに、なぜ地震を想定してほかの病院に転院させなかったのか。震災後にDMATの先生に「ドクターヘリで運ぶことができたかもしれない」と聞きました。もしもドクターヘリで運んでもらえたら、いまも元気だったかもしれません。


私の選択が間違っていたのではないか。母親の私の責任なんじゃないか、と。あのとき別の選択をしていたら、いまも花梨は元気だったかもしれない。いまもそう考える瞬間があるんです。


——どういう経緯で、花梨さんが災害関連死だとお気づきになりましたか?


亡くなって1カ月が過ぎた頃に、花梨も災害関連死なのではないかと親戚に教えられました。それまでは災害関連死という言葉も知らなかったんです。


調べてみると、自治体に災害弔慰金を申請したあと、審査会で災害と死との関係性が判断されて、災害関連死に認められるという流れでした。災害弔慰金とは、災害の犠牲者になった遺族が国や自治体からいただけるお見舞い金です。


正直に言えば、当時の私は、災害関連死に認められようが、認められまいが、どうでもいいと考えていました。だって、災害関連死に認められたからといって花梨は帰ってきませんから。


筆者撮影
花梨ちゃんの仏壇 - 筆者撮影

■病気だけじゃなくて、地震とも戦った証明になる


もうひとつ引っかかっていた部分があります。災害関連死に認められるということは、災害弔慰金をもらうことです。娘の人生がお金に換算させられるようで、申請には抵抗がありました。そんな私の背中を推してくれたのは、夫の言葉でした。


「花梨は病気に勝てたけど、地震が起きたから亡くなってしまった。災害関連死に認められたら、病気だけじゃなくて、地震とも戦った証明になるんじゃないかな」


でも、実際に災害弔慰金を申請してみて、とても苦労しました。申請書には、花梨が亡くなった経緯を詳しく書かなければなりません。あの日のことを思い出すのが、精神的にとても辛かった。


それに、申請に必要な診断書などの書類も遺族が集めなければなりません。被災し、家族を亡くした状況で、申請を諦めてしまう人も少なくなかったのではないかと感じます。


■なぜ教訓は埋もれてしまうのか


——申請しなければ、災害関連死の教訓が埋もれてしまうということですね。


そこが大きな問題だと感じています。教訓が埋もれてしまう原因は、申請の難しさだけではありません。


東日本大震災や熊本地震の自治体の中には、災害関連死の資料を廃棄した自治体もあるそうです。申請書は、遺族にとっては大切な家族が生きた証です。それを破棄するなんてありえないと感じました。


災害後の避難生活をよりよくして、被災者1人1人の寄り添える支援を実現するためにも、災害関連死にもっと目を向けてほしいのです。たくさんの人がそうした意識が共有できていれば、資料を破棄するなんて発想にはならないと思うのですが……。


——宮崎さんは、災害関連死はゼロにできるとお考えですか?


災害による理不尽な死をすべてなくすのは難しいと感じます。


でも、災害関連死は支援や防災の取り組み、あとは災害弱者と呼ばれる人へのサポートによって限りなくゼロに近づけることはできると信じています。ゼロにできる。そうした意識をもって、支援を行ったり、防災政策を考えたりすることが重要なのではないでしょうか。


■「もう二度と」という言葉の重さ


8年前まで、まさか娘が地震で亡くなるなんて、そして私自身が災害関連死の遺族になるなんて、想像もしていませんでした。


過去の被災した人たちや遺族の方々は「もう二度と同じ悲しみを繰り返して欲しくない」と話しますよね。私は当事者になって「もう二度と」という言葉の重さをはじめて実感しました。


阪神・淡路大震災でも、倒壊の恐れがある病院に入院中のお子さんが、治療を継続できずに亡くなったそうです。二十数年前にも私と同じ経験をしたお母さんがいたんです。


そのお母さんもきっと「もう二度と」と感じたに違いありません。しかし私自身は、当事者になるまで、そうした人たちに思いを馳せることができませんでした。


「もう二度と」と思った人は、過去の災害でも大勢いたはず。それなのに、新たな災害が発生するたびに、同じ悲しみが繰り返されてしまう。いまの私には、それが悲しくて、悔しいんです。


そんな気持ちから今年の3月11日に立ち上げたのが「災害関連死を考える会」です。


■過去の災害の経験を次につなげる


花梨のような子って、日本中にたくさんいますよね。いままさにICUで治療を受ける子も、手術を待つ子もいる。そんな子どもたちが入院する病院を今日、明日、地震がおそうかも知れません。


どうやったら花梨が助かったかを考えることが同じような子どもたちを守ることにつながるのかな、と。


阪神・淡路大震災以降、災害関連死は5000件を越えるそうです。1つ1つの災害関連死には異なる事情や背景があります。にもかかわらず、これまで遺族の方々が、何に困ったのか、どんな苦労をしたのか、情報や気持ちを共有する場がなかったんです。


後悔は歳月を経ても消えません。過去の災害の被災者で、私のように思いを抱き続ける人はたくさんいるはずです。被災して、いままさに悩みを抱えている方々やご遺族の方も必ずいます。


同じような経験をした人たちと情報を共有することで、いま苦しんでいる人の力になれるかもしれません。それが次の災害の備えになる可能性もあります。


過去の災害の経験を次につなげることが、当事者になった私たちの役割なのかな、と考えているのです。


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山川 徹(やまかわ・とおる)
ノンフィクションライター
1977年、山形県生まれ。東北学院大学法学部法律学科卒業後、國學院大学二部文学部史学科に編入。大学在学中からフリーライターとして活動。著書に『カルピスをつくった男 三島海雲』(小学館)、『それでも彼女は生きていく 3・11をきっかけにAV女優となった7人の女の子』(双葉社)などがある。『国境を越えたスクラム ラグビー日本代表になった外国人選手たち』(中央公論新社)で第30回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。Twitter:@toru52521
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(ノンフィクションライター 山川 徹)

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