不況のどん底だからこそチャンスに恵まれた…元新聞記者が「バルセロナで豆腐屋になる」夢を叶えた方法

2025年4月18日(金)16時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Eloi_Omella

仕事の視野を広げるには読書が一番だ。書籍のハイライトを3000字で紹介するサービス「SERENDIP」から、プレジデントオンライン向けの特選記事を紹介しよう。今回取り上げるのは清水建宇『バルセロナで豆腐屋になった』(岩波新書)——。
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■イントロダクション


近年、働き方は変化し多様化も進んでいる。転職や副業、リスキリング、定年後の再就職などが注目されるが、海外移住や起業など、前半生とは大きく異なる生き方へ舵を切ることも可能だ。


人生100年時代を迎え、仮に一つの企業に定年まで勤めたとしても、その後の人生の選択肢は思ったより多いのかもしれない。


本書は、朝日新聞社に定年まで勤めた著者が、バルセロナで豆腐屋を始め、10年間に渡って経営した後に事業を他社に引き継ぎ、帰国するまでの記録である。


開業に至るまでには、豆腐屋での修行、スペインでの労働居住許可と営業許可の取得、バルセロナの物件探しなど多くの困難があり、さまざまな失敗やトラブルを乗り越えた。開業後は、2度の値上げをはじめ試行錯誤を続け、4年後にはバルセロナ市役所から「新しい、良い」店として表彰を受けるなど、現地に受け入れられるに至った。


著者は、元朝日新聞記者。1971年に朝日新聞社入社後、東京社会部で警視庁、宮内庁などを担当。『論座』編集長、『大学ランキング』編集長、テレビ朝日「ニュースステーション」コメンテーターなどを務めた。2007年秋に定年退職し、バルセロナで豆腐屋を開業。2021年春に帰国。


1.一身にして二生を経る
2.「失敗したって、たいしたこたぁないよ」
3.不況のどん底こそ起業のチャンス
4.崖っぷちに舞い降りた天使たち
5.うれしい誤算、うれしくない誤算
6.我が家はバルセロナ市の文化財
7.忙人不老
8.異国の文化は「新しい、良い」
9.日本食ブームは、より広く、より深く
10.「どちらから来られました?」「北極から」
11.南仏プロヴァンスと比べたら
12.コロナ禍、お客は半径500メートルの住民だけ
13.欧州はプラスチックを規制し、検査ビジネスを育てる
14.事業の継承は険しい山道を登るが如し
15.カミさんと私

■38歳、「世界名画の旅」取材班への配置換え


1985年、私は38歳だった。新聞社で事件取材を長く担当していたが、「明日から「世界名画の旅」取材班へ配置換えだ」という。日曜版の2ページを使って名画にまつわる記事を書く仕事だ。1年半の間に訪れた先は15カ国の21都市に及んだ。「名画の旅」の仕事が終わって、どの都市がいちばん良かったかを考えた。答えはすぐに出た。バルセロナ。


退職したらバルセロナに移り住みたい。ただ、アジア系の食材店を訪れると、中国の人がつくったと思われる豆腐を売っていたのだが、日本の豆腐とは違う代物なのである。移住というからには何年間も暮らすことになる。最大の問題は食べ物だ。私は豆腐や油揚げ、納豆が大好きで、それらを何年間も我慢することはできそうにない。


■バルセロナで豆腐屋になる


では、どうするか。いくら考えても答えは一つしか思い浮かばなかった。——バルセロナで豆腐屋になる。


バルセロナで豆腐屋になると決意はしたものの、ぼんやりとした夢想のままだった。この企てに太い心棒が入ったのは、伊能忠敬の生涯に触れてからである。井上ひさしさんは、忠敬の人生を小説『四千万歩の男』で描いた。その前書きの言葉が(*著者が仕事を頼んだ)佐藤嘉尚さんの文章に引用されている。「平均寿命がびっくりするほど延び」「現在では、たいていの人が退職後も20年、30年と生きなければならなくなってしまった」「われわれの大半が「一身にして二生を経る」という生き方を余儀なくされている」


「一身にして二生を経る」という言葉が私の頭に突き刺さった。(*前半生で家業の業績を上げた忠敬が、後半生で成した)日本の地図をつくるという大事業に比べれば、バルセロナで豆腐屋をやることなど、なんとちっぽけで、ささやかな企てだろう。


写真=iStock.com/jreika
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/jreika

■団地と隣り合った商店街の豆腐屋で修行


2007年秋、定年退職し、その直後から開業準備に追われる日々が始まった。(*修行に入った習志野市の)三河屋豆腐店は団地と隣り合った小さな商店街の入り口にある。私が暮らす公団住宅から自転車で7、8分。ご主人の鈴木光男さんは、修業時代から数えると豆腐づくりの経験は50年近い。


自転車をこいで午前5時に三河屋に着くと、鈴木さんはすでに忙しく働いている。大きな圧力釜では鈴木さんが入れた木綿豆腐用の大豆が煮えている。ひと晩水に浸けた大豆を、加水しながら豆すり機でつぶし、ドロドロの状態にしたものを「呉」と呼ぶ。それを圧力釜に移して煮る。煮えたなと思ったら、絞り機にかけて豆乳とオカラに分離する。


そして、木綿豆腐用の豆乳ができあがった。鈴木さんは大桶を木の櫂でゆっくりかき混ぜた後、「ワンツー」と呼ばれる道具を持ってきた。直径50センチくらいのステンレス製の円盤に10ほどの穴をあけ、2本の腕木を取り付けたものだ。これを豆乳の上から押し込むと、穴から逆流して、一気にかき混ぜることができる。鈴木さんは凝固剤を水に溶いて威勢よく豆乳に入れ、すかさずワンツーを2回上下させた。最後は底から静かに引き上げ、豆乳が静止するようにした。


■「失敗したって、たいしたこたぁないよ」


2日目、木綿豆腐の豆乳ができあがったとき、鈴木さんはワンツーを見せて「やってみるかい?」と言った。売り物の豆腐の、しかもいちばん重要な作業をやらせてくれるというのだ。私は思わず「失敗したらどうしますか?」と訊いてしまった。鈴木さんは「失敗したって、たいしたこたぁないよ」と言った。私はびっくりした。


「やります」と答えたものの、緊張して体がこわばる。大桶の前に立ち、水溶きした凝固剤を入れてから、すかさずワンツーを上下させた。鈴木さんは「押すときだけでなく、引き上げるときも攪拌しているんだ。いまのは最初の引き上げが弱かったね」と言った。失敗したのだ。桶の中の豆乳が固まる様子を見るのが怖かった。


鈴木さんは「失敗したときは、こうするんだよ」といって、凝固剤を櫂に落としながら、桶の豆腐の上に垂らしていった。20分後、鈴木さんが包丁を入れて具合を見たら、なんとかなりそうだった。最悪の事態はなんとかまぬがれたようだと、胸をなでおろした。


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■スペインで労働居住許可と豆腐屋の営業許可を取る


三河屋での(*3カ月間の)修行を終えて、いちばん高いハードルを越えたと思った。次のハードルはスペインでの労働居住許可と豆腐屋の営業許可を取ることだ。


私たちが望む自営業の労働居住許可申請は条件がたくさんあるという。まず、法人を設立して一定以上の出資をしたほうが承認されやすい。スペインの法令に具体的な金額が明記されているわけではないが、出資額は「12万ユーロ以上」が現在の相場だという。


次に、申請に際して豆腐屋を開く物件の賃貸契約書、物件を改装するための設計図、その設計図をバルセロナ市役所が受け取ったという証明書、改装工事をする建築業者との請負契約書を提出しなければならない。申請に必要な書類は豆腐屋を開く店舗が決まっていることが前提になっている。ということは、借りる物件を探すためにバルセロナへ行かねばならない。


■不況のどん底だったから出会えた好物件


そのころのスペインは不景気のどん底である。通貨がユーロに切り替わると不動産バブルが起きて価格が3倍、4倍にはね上がった。しかし、この不動産バブルは2008年春、銀行の経営危機が表面化して破裂した。同じ年の9月に米国でリーマン・ショックが起きると、売れ残った建物がスペイン中にあふれた。カミさんと二人で街を歩くと、シャッターを閉じて「貸します」「売ります」の看板をかけた店が毎日増えていく。


数日後、何度も通ったアリバウ通りに新しい「貸します」の看板が出ているのを見つけた。アリバウ通りは食べ物の店が多いことで知られている。地下鉄の駅と州鉄道の駅に近く、6つの路線バスが走っていて交通の便もいい。月額2100ユーロは当時の為替レートで約27万円だ。不況のどん底だからこそチャンスに恵まれたと痛感した。


■2010年4月12日、開業初日のお客は108人


2010年4月12日、開業の朝を迎えた。(*宿を出て)豆腐屋に着くと、さっそく豆腐をつくり始めた。最初に濃い豆乳で絹豆腐、次に薄めの豆乳で木綿豆腐。木綿豆腐は80丁のうち30丁は板の上に並べて重石をかけ、「押し豆腐」にした。厚揚げにするためだ。一部はがんもにも使う。


最後にオカラドーナツをつくり、オカラを400グラムずつはかってポリ袋に詰めた。厚揚げや油揚げを袋に詰めていると、カミさんが「もうお客さんが並んでいるよ」と作業場に駆け込んできた。外を見ると20人ほどの行列ができていた。午前11時の開店の30分前だったが、「5分後に店を開けます」と大声で言って、作業場に戻った。


写真=iStock.com/Promo_Link
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Promo_Link

午後3時までが午前の部の営業で、午後5時から8時までが午後の営業になる。午後もお客が途切れることはなかった。初日のお客は108人。カミさんによると3割はスペイン語を話す人だったという。売り上げは1000ユーロ(約13万円)をわずかながら超えた。


■バルセロナ市役所から「新しい、良い」とお墨付き


1年もたたないうちに2度も値上げし、豆腐を2.1ユーロ(262円)にした。円に換算すると(*2度目は)25円の値上げである。こんなに高くしていいのかと、おっかなびっくりの値上げだった。しかし、売れ行きが鈍ることはなかった。



清水建宇『バルセロナで豆腐屋になった』(岩波新書)

開業から4年目の6月、店を訪れたバルセロナ市役所の人から分厚い冊子を手渡された。表紙に「NOU i BO」の文字が切り抜かれ、下の写真が浮き出るように製本された凝ったつくりの冊子だ。カラー印刷で60ページもある。バルセロナは、初めての事業として、異国の文化を代表する12の店を選び、表彰することになった。その中に私の豆腐屋が含まれているという。


本を開くと豆腐屋の記事と写真が4ページにわたって掲載されている。カタルーニャ語辞典で調べたら「NOU i BO」は「新しい、良い」という意味だ。バルセロナ市役所から「新しい、良い」とお墨付きをもらったことになる。


※「*」がついた注および補足はダイジェスト作成者によるもの


■コメントby SERENDIP


著者は、「NOU i BO」の表彰について、バルセロナが異国の文化を「リスペクト」するという意思表示だとし、その姿勢が世界のさまざまな生活文化を引き寄せると述べる。もともと、著者が移住先にバルセロナを選んだ理由も、異文化に寛容な土地柄にあったようだ。なお、本ダイジェストにも登場する「カミさん」は、著者の妻・美知子さん(2021年に他界)を指す。バルセロナでは豆腐屋の売り場を担当したほか、鍼灸院やヨガ教室を自ら開業するなど、ときに著者以上に果敢に人生に挑む人であったようだ。「一身にして二生を経る」は、現代の日本で、さまざまな立場の人の背中を押す言葉ではないだろうか。


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