財務次官にセクハラを許すマスコミの事情

4月20日(金)15時15分 プレジデント社

4月18日、辞任を表明した福田淳一財務事務次官(写真=時事通信フォト)

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週刊新潮で女性記者にセクハラ発言を繰り返したと報じられた財務省の福田淳一事務次官が辞任した。この問題ではセクハラを受けていた女性記者が、勤務先のテレビ朝日の上司に相談したが「報道は難しい」と伝えられ、週刊新潮に連絡したという。ジャーナリストの牧野洋氏は「マスコミの取材体制にも大きな問題がある」と指摘する——。


4月18日、辞任を表明した福田淳一財務事務次官(写真=時事通信フォト)

■国家権力とマスコミは主従関係にある?


国家権力を取材するマスコミは国家権力に仕える立場にあるのだろうか? 国家権力が「主」でマスコミが「従」という主従関係が成り立つのだろうか?


答えはもちろんノーである。主従関係が成り立っていたら、マスコミは「政府広報紙」と変わらなくなってしまう。マスコミは対等の立場で国家権力と対峙し、権力のチェック役を担わなければならない。


ところが、財務省の福田淳一事務次官をめぐるセクハラ問題を見ると、そこには主従関係があるように見える。マスコミはネタをもらうために財務省に気に入ってもらおうと何でもする。時にはセクハラ行為も我慢しなくてはいけない、というわけだ。


今回のセクハラ問題は、同一組織内で起きたわけではない。福田氏は財務省内の女性職員ではなく、テレビ朝日の女性記者に対してセクハラ行為を繰り返したとの疑惑を持たれている。


財務省内で男性上司が人事権を盾にして、部下の女性職員にセクハラをしたと仮定しよう。この場合、女性職員は解雇や左遷を恐れてセクハラ行為を我慢することもあるだろうし、内部告発者となって上司と対決することもあるだろう。ここには明らかに主従関係がある。


一方、テレ朝の女性記者は財務省の職員ではない。福田氏によって解雇されることはないし、左遷されることもない。にもかかわらずセクハラ行為を受けるような状況に置かれたのである。


■問題の根っこにある「アクセスジャーナリズム」


理由は単純だ。ネタを取るためである。どのメディアであっても、財務省のトップに食い込み、ネタを取ってくる記者は重宝される。一緒にバーで飲んだり週末にゴルフを楽しんだりする関係を築ければ御の字だ。


問題の根っこにあるのがいわゆる「アクセスジャーナリズム」だ。アクセスジャーナリズムとは、記者が政府高官や企業経営者に気に入られ、特別に情報をリークしてもらう手法だ。「リーク依存型取材」と言い換えてもいいかもしれない。


権力側との「アクセス(接近)」を重視するあまり、ジャーナリズムに欠かせない批判精神を失ってしまう——これがアクセスジャーナリズムの本質である。日本では財務省の記者クラブ「財政研究会」を筆頭に権力側に配置された記者クラブがアクセスジャーナリズムの一大拠点として機能している。ここに主従関係が生まれる土壌がある。


問題は女性記者に対するセクハラ行為に限らない。男性記者に対するパワハラ行為も考えられる。権力側が「主」でマスコミが「従」になる結果、同一組織内で起きる上司・部下と同じような関係が「取材される側」と「取材する側」に生まれるわけだ。



念のために強調しておくと、被害に遭ったテレ朝の女性記者がアクセスジャーナリズムに傾斜していたと言っているわけではない。むしろ逆である。記者クラブから出入り禁止となるリスクを承知のうえで、福田氏のセクハラ行為を告発したのである。アクセスジャーナリズムと決別しようとしたといえる。


アクセスジャーナリズムがはびこると、記者は事実上、政府や企業にコントロールされてしまう。ネタ欲しさのあまり相手に都合が悪いことを一切報じなくなり、政府や企業を持ち上げる「よいしょ報道」を繰り返すようになる。


記者クラブ内では「特オチ」を嫌がる文化が根強い。「特オチ」とは他社が一斉に同じニュースを報じているなかで、一社だけ蚊帳の外に置かれる状況だ。そのためクラブ内ではどのメディアもこぞって権力側にすり寄ろうとする。こうなるともはやジャーナリズムではなく、事実上「政府広報紙」「企業広報紙」に成り下がってしまう。


■テレ朝の対応はピュリツァー賞と正反対


米国にもアクセスジャーナリズムを行う記者はいる。2003年のイラク戦争に絡んでニューヨーク・タイムズのジュディス・ミラー記者が手掛けた「大量破壊兵器」の報道が代表例だ。同記者は「ブッシュ政権の御用記者」のレッテルを貼られ、実質的に業界から追放されている。アクセスジャーナリズムを認めない文化があるからだ。


奇しくも、福田氏辞任のニュースが飛び出す3日前の4月16日に、米国でジャーナリズムの世界で最も栄誉あるピュリツァー賞が発表された。最高格の公益部門受賞作は、権力者によるセクハラ疑惑を暴いた特報だった。


特報を放ったのはニューヨーク・タイムズ紙とニューヨーカー誌。ここにはアクセスジャーナリズムは介在していない。両メディアは内部告発者である被害者側の立場から取材し、権力側の不正を暴いている。


権力側でセクハラ疑惑の矢面に立たされた筆頭格は、米映画界の大物プロデューサーであるハーベイ・ワインスタイン氏だ。ニューヨーク・タイムズとニューヨーカーが同氏のセクハラ行為を暴いたことがきっかけになり、世界的な「#MeToo(私も)」運動が起きている。両メディアとも同氏に嫌われても一向に構わないのである。



翻ってテレ朝の対応は180度違った。社内に被害者である女性記者がいたうえ、本人が報道を望んでいたにもかかわらず、報道機関として福田氏のセクハラ行為を暴こうとしなかった。それを暴かずに何をしていたのだろうか。財務省の機嫌を損ねて特オチという恥をかかされるのを避けたかったのではないか。


■エゴスクープを「本物のスクープ」と思い込む


例えば、財務省の記者クラブで働く記者にとって絶対に回避しなければならない特オチの一つは日銀総裁人事だ。2月に黒田東彦総裁の続投が決まるまで、クラブ加盟の各メディアは財務省幹部を対象にアクセスジャーナリズムを全面展開していたことだろう。


だが、そもそもこのような取材合戦をしていること自体が問題だ。日銀総裁人事は重要だが、それを一日でも早く報じることで世の中が良くなるわけではないからだ。


米ニューヨーク大学(NYU)教授のジェイ・ローゼン氏によれば、日銀総裁人事の速報は「エゴスクープ」に相当し、本物の特ダネではない。エゴスクープは「放っておいてもいずれ明らかになるニュース」をすっぱ抜く点に特徴がある(厳密には日銀総裁人事は「トレーダーズスクープ」だが、その違いは追って別稿で解説しよう)。


日本語にすれば「自己満スクープ」だ。典型例は「政府は黒田日銀総裁を続投させる方針を固めた」のほか「東京地検特捜部はあすにもC氏の逮捕に踏み切る」や「A社とB社は週内にも経営統合で合意する」といった記事だ。これらは記者の努力がなくてもいずれ公になるという点で共通する。


ローゼン氏は「エゴスクープを放って喜んでいる記者は、報道界という狭い内輪の世界で競争しているにすぎない。公益とはまったく関係ない世界に身を置き、自己満足しているだけだ」と手厳しい。同氏の基準では「エゴスクープの価値はゼロ」だ。


にもかかわらず、日本にはエゴスクープこそ「本物のスクープ」と思い込んでいるマスコミ幹部は多い。エゴスクープが新聞協会賞を受賞することもある。



エゴスクープの弊害は大きい。第1に、記者がブラック労働を強いられる。発表されたり、他社に抜かれたりしないようにするため、昼夜問わず血のにじむような取材合戦に放り込まれる。特オチ回避は至上命令なのだ。


第2に、アクセスジャーナリズムと紙一重だ。というか、アクセスジャーナリズムを受け入れなければエゴスクープはまずものにできない。こうなるとマスコミが権力側と癒着しかねず、記者のブラック労働よりも深刻な問題となる。


■記者へのセクハラ・パワハラをなくす決定打


財務省側の視点で考えてみよう。日銀総裁人事のリーク先を考えるとき、財務省の良き理解者であり、常に財務省の意向に沿った報道を手掛けているメディアを選ぶだろう。一方、内部告発者を情報源にして財務省の不正を暴こうとしているようなメディアは出入り禁止にしたいはずだ。


財務省の良き理解者かどうかではなく、セクハラ行為を受け入れるかどうかでリーク先を決めるケースもあるようだ。今回のセクハラ問題をスクープした「週刊新潮」(4月26日号)が入手した音源によれば、福田氏が情報の見返りに女性記者にセクハラ行為を迫っているとも受け取れる会話が紹介されている。


アクセスジャーナリズムから脱却するには、マスコミ業界全体としてエゴスクープと決別し、本物のスクープを目指せばいい。エゴスクープを新聞協会賞から排除するのは第一歩だ。そうすれば自然にアクセスジャーナリズムへの依存度を下げることができる。


本物のスクープとは、「放っておいてもいずれ明らかになるニュース」ではなく「記者の努力がなければ永遠に埋もれしまうニュース」である。記者が独自にニュースを発掘する調査報道と同義と考えていい。直近では、朝日新聞が放った「森友文書改ざん」のスクープが代表例だ。


このような報道であれば、マスコミと権力側の間に主従関係は発生しない。マスコミはエゴスクープを追い求めないから、権力側にすり寄る必要はなくなる。権力側からのリークに頼る報道はしなくていいのだから、記者に対するセクハラやパワハラが発生する余地もなくなる。この機会に各社には報道のあり方を考え直してほしい。


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牧野 洋(まきの・よう)

ジャーナリスト

1960年生まれ。慶応大学経済学部卒業、米コロンビア大学大学院ジャーナリズムスクール修了。1983年、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員や編集委員を歴任し、2007年に独立。早稲田大学大学院ジャーナリズムスクール非常勤講師、ファクトチェック・イニシアティブ(FIJ)理事。著書に『米ハフィントン・ポストの衝撃』『共謀者たち』(河野太郎との共著)『官報複合体』『不思議の国のM&A』『最強の投資家バフェット』など。

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(ジャーナリスト 牧野 洋 写真=時事通信フォト)

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