教えを請いたいと願った師は旅立ってしまった…ラーメン日本一「飯田商店」店主の運命を変えた"1分の電話"
2025年4月20日(日)10時15分 プレジデント社
飯田将太さんにとって「おいしい麺とは何か」は永遠のテーマ。 - 写真撮影=合田昌弘
※本稿は、飯田将太『本物とは何か』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
写真撮影=合田昌弘
飯田将太さんにとって「おいしい麺とは何か」は永遠のテーマ。 - 写真撮影=合田昌弘
■お客さまが自分のつくったラーメンを食べていることに感動
僕は、今でも営業中に感動することがある。
目の前にお客さまがいてくれる。ラーメンを食べている。「このラーメンは僕がつくったんだよな、すげえっ」。僕がラーメンつくっているんだ、それをお客さまが食べているんだ、ということに感動している自分がいる。
僕は人に何かつくって食べさせることが本当に好きなんだなとも思う。これは性分だ。だから、従業員のまかないも、昼は今でも僕がほとんどつくっている。ラーメンの試作でも、始めると何時間も続ける。
いま振り返ると、25歳のときに、家業の1億円の借金返済のために、叔父が営むチェーン店「ガキ大将ラーメン湯河原店」の店主となってラーメンの世界に入り苦労したこと、佐野実さんの「らぁ麺」に出会えたことには感謝しかない。
■「支那そばや」佐野実さんに魂が覚醒する
チェーン店の枠組みの中で、自分が満足できるものを出せていないジレンマに苦しんでいたとき、僕は「支那そばや」さんのラーメンに出会うことができた。佐野実さんがつくる麺のおいしさに感動した。これを自分でやりたい。支那そばやさんのようなラーメンをつくれる人間になりたいと思った。
僕は、料理をして人に喜んでもらうことは大好きだけど、支那そばやの佐野実さんが僕に感じさせたことはそんなレベルではなかった。僕の人生を変えてしまった。
じわじわじわっーと、なんと言っていいかわからないけど、魂が覚醒するようなすごい気持ちになった。それは料理の究極だと思う。いい意味で、人を変えてしまう。そういう料理をつくれる人間になりたいと心底思った。
この支那そばやの佐野実さんへの憧れ、尊敬、畏敬、崇(あが)めるような気持ちが、僕をラーメンに本気で向かわせた。だから、とにかく佐野実さんの行動をたどった。
■製麺から始めた
最初は、製麺をやりたいと思い、近所のお蕎麦(そば)屋さんから小さな製麺機を手に入れた。
使い方がわからないから、自家製麺の本を買って読んでいたら、そのうちの1冊の後ろに広告があった。佐野実さんが腕組みをしている写真があって、エヌアールフード、食材卸と書いてある。そこに内モンゴル産かんすいがあった。
かんすいはネットで買っていたので、それが欲しいと思ってすぐに電話をした。そうしたら女性が出て、「はい、佐野です」と。たまたま従業員のお名前が佐野さんなのかなと思ったら、それが奥さまの佐野しおりさんだった。
■「何か聞きたいことがあれば来なさい。教えてあげるから」
「ラーメンを始めて、麺をやりたくて……」と話したら、「あら、そうなの? 今、佐野が隣にいるわよ。変わる?」と。びっくりして「いや、無理です」とお断りしたけど、電話を変わってくださった。
「なんだ。麺をやるのか?」
「はい!」
「ローラーは何寸だ?」
「わからないです。何寸とかあるんですか?」
「そういう感じか。最低でも8寸はないといい中華麺はできないな。小さいローラーだと苦労するだろう、できないことはないけどな。どこの子なんだ?」
「湯河原です」
「湯河原には大西さんがあるな。まあ、がんばって。いつでも何か聞きたいことがあれば来なさい。教えてあげるから」
電話で話したのは1分ほどだったが、僕にとってはすさまじい時間だった。また、しおりさんに電話を変わってもらい、「いつの日か必ず行きます」と約束をして切った。
■3年は自分の力でやると決意
本当はすぐにでも「行きたい」と思った。でも、これから始めると言って連絡をした人間がいきなり聞きにいくのは失礼だと思い直した。僕は、まず自分で3年はやろうと決意した。その上で教わりにいこうと。
その間、佐野実さんのブログで、支那そばやさんの製麺室で、佐野実さんがお弟子さん以外にも製麺を教えているところを見ていた。あの人もこの人も教わったんだ、と。僕も行きたかった。それでも我慢して、毎日のように製麺をした。
さらに旧・飯田商店の軒下でスープの試作も始めた。
ラーメンをちゃんとつくることのできる場所がほしいと思っていたら、もともと父が水産加工業をしていた旧・飯田商店をラーメン店に改装してくれる人が現れて、飯田商店を開くことができた。そのとき僕が店のために出したお金は2万円だった。ガキ大将ラーメンは、人に任せた。
写真撮影=合田昌弘
「支那そばや」の佐野実さんへの憧れからスタートした飯田さんにとって、製麺はラーメンづくりの命ともいうべきもの。 - 写真撮影=合田昌弘
■とうとう教われなかった…
そして、3年経った日にエヌアールフードの佐野しおりさんに電話をした。
「もしよかったら製麺を教えていただけないでしょうか」と頼んだら、「ちょっと体調が悪くて」と言われた。そのとき、佐野実さんは入退院を繰り返すようになっていたのだ。次も「ごめんなさい、今ちょっと難しいのよ」と言われた。
こうなるとビビってしまって、半年くらいは連絡できなくなる。それでまた電話をしたら「まだちょっと」というのが2〜3回続いて、そして亡くなられてしまった。11年前(2014年4月11日)のことだ。
佐野さんが亡くなられたと聞いたときは、涙が止まらなかった。先がなくなったような気がして、目の前が真っ暗になった。あのときはダメだった。エネルギーが切れたようだった。
しかし、泣きやんだあとに、これは佐野実さんが亡くなって悲しくて泣いているだけではなく、超わがままな自分のための涙だったと思い、反省もした。教われなかったことが悔しいという気持ちが自分の中にあることに気づいたから。
■追いかける立場だから幸せ
佐野さんからはとうとう教わることができなかった。
でも、それで良かったといまは思っている。教わらなかったからこそ、誰よりも佐野実さんのことを調べた。
教わらなかったからこそ、佐野実さんだったらどう考えるのかと、ずっと追求していける。麺の食感や味わいに、常にその答えを求め続けた。教わらなかったからこそ、これでよしという線引きがない。佐野実さんも誰かに習ったわけではなかった。自分は追いかける立場だから幸せだ。
結局、佐野実さんとちゃんとお話ができたのは、最初の電話だけだった。
■怖くて話ができなかった…
実は電話で話した後、飯田商店を開店する前年の2009年の東京ラーメンショーに、佐野JAPANが出店されていて、3時間の行列に僕も並んだことがある。その先に佐野実さんはずっと立っていらした。少しずつ近づいていくと、だんだん怖くなってきた。
鬼か怪獣のように見えた。3時間も並んでいるのに逃げようかなと思うくらいの迫力。ラーメンを受け取って、「いただきます!」と大きい声で言ったら、「おう、礼儀正しいな」と言われた。それ以上は怖いから「失礼します……」と言ってすぐに立ち去った。
食べ終わってから100mくらい離れたところで、ずーっと佐野実さんを見ていた。本当は、自家製麺を始めていると話をしたかったけど、怖くて言いにいけなかった。
■すべての土台は佐野実さんに学んだ
佐野さんに学んだことは甚大だ。
飯田将太『本物とは何か』(プレジデント社)
国産小麦の一等粉を使って自家製麺をする。麺には内モンゴルのかんすいを使う。鶏や豚をはじめ海苔までも食材を厳選する。生揚げ醤油を仕入れて自分で火入れをして使う。メンマを店で調理する。化学調味料(旨み調味料)を使わない。
ラーメンどんぶりを特注する。清潔な服装で仕事をする。店と厨房を徹底的にきれいにする。そして、産地を訪ね生産者さんに会う。
これらのことは、すべて佐野実さんから学んだことだ。いつも佐野実さんのことを考えていたし、いつも佐野実さんのブログを見ていた。
■一番の学びは「覚悟」
でも、もっと大きな学びは「覚悟」だと思っている。ラーメンで生きていく覚悟。ラーメンを一流の料理に高めていくことに挑戦し続ける覚悟。
佐野実さんの著書『佐野実、魂のラーメン道』(竹書房刊)を読んで、一番感じたのは、その覚悟だった。いくらラーメンに対して情熱があっても覚悟が足りなければラーメン店を続けていくことはできないということ。情熱だけでラーメンと飯田商店をやりたいと思っていたときに、それに気づかせてもらった。
それで自問自答した。
俺には覚悟があるのか? 「うん、ある」と。
でも佐野実さんと比べたら100%ではなく、80%かもしれない。それで無理やり100%に引き上げようとした。佐野実さんだけでなく、皆さんがそういう覚悟でやられているのに、その土俵に入っていくなら、こんな今の自分の80%くらいの気持ちではダメだと。
■2010年3月16日に開店
最初からボロボロの店だったけど、ラーメンを始めて7年半。自分の店「らぁ麺屋 飯田商店」ができた。32歳だった。うれしかった。
僕はラーメンの試作に没頭していたので、大した準備はできなかった。とにかく支那そばやさんが使っているどんぶりをエヌアールフードから10個だけ買ってのスタートだった。
「らぁ麺屋 飯田商店」のテーマは「水と鶏」を掲げた。いま振り返ってみて正確にいえば「水と鶏と醤油」だ。
水とは、逆浸透膜システムの、ほぼ純水に近いものでスープをとる、ということ。逆浸透膜を通した水は、スッキリとクリアな味のスープをつくることができる。素材の味をよく引き出すことができる。しかし、味に厚みがなくなるので、スープとしては物足りなく感じる難しさがある。
お金がないから、家庭用の機械を月賦で買った。逆浸透膜システムの水は、支那そばやの佐野実さんを手本にしたものだ。それはいまでも続けている。
■試作に試作を重ねた
鶏とは、比内地鶏のガラのこと。豚の骨を使わない、かつお節や煮干しなどを加えない、ましてや化学調味料などを使わない。お金がないから比内地鶏のガラ以外の贅沢はできなかった。使うのは鶏ガラと鶏油だけ。これで十分な旨みを出すことには本当に苦心した。
しかし、だからこそ試作に試作を重ねていく面白さがあった。
鶏ガラの旨みをいかに、きれいに引き出すか。これを積み重ねていくことができた。豚などを使わずに鶏だけでおいしいラーメンスープをつくる、という自らへの課題は9年も続けることになった。
醤油は、「しょうゆらぁ麺」の醤油だれに使う醤油のこと。生き揚げ醤油という、醤油蔵で醸造した搾りたてのものを醤油蔵から仕入れた。これも佐野実さんが使っていたものだ。いまは8種をブレンドしているが、当初は3種だった。
■ほしい小麦粉は譲ってもらえなかった
麺は、春よ恋という銘柄の国産小麦粉を主に、国産の中力粉を加えて麺をつくった。
本当は、「はるゆたか」という、僕が支那そばやさんで食べて感動した麺に使っていた小麦粉を使いたかったが、最初は譲ってもらえなかった。
スーパーはるゆたかという、当時、佐野実さんゆかりの江別製粉さんが開発した小麦粉を、喉から手が出るほど欲しかったが、さすがにそれを使うのは僭越(せんえつ)で失礼だと思い直した。
結局、北海道の違う製粉所さんが譲ってくれた、春よ恋のストレートから始めた。ストレートとは、いわゆる地粉と言われるものと同じの、真っ白ではなく少し黒みがかった挽き方をしたもの。強い風味と穀物感のある粉だった。
写真撮影=合田昌弘
「いつか佐野実さんにたどり着きたい」と語る飯田さん。 - 写真撮影=合田昌弘
■飯田将太の「原動力」とは?
最初の僕の製麺機は、ローラーが4寸と中華麺をつくるには小さかった。だから生地をのす力が弱く、コシのある麺にならない。製麺については本だけが頼りだったから、水分量についての勘違いなどもあって、当時の麺は、とても柔らかなものだった。
煮麺(にゅうめん)みたいだと言われた。でも、これがよくスープをすくうので、一つのラーメンとして成り立っていたと思う。
麺と小麦粉については、結局、佐野実さんにも誰にも教わることがなかったから、佐野実さんの麺のおいしさの理由が真から納得できるまでに5年を要した。
いつか佐野実さんにたどり着きたい、いつか佐野実さんに食べていただけるようなラーメンをつくれるようになりたい。これが僕の原動力だった。
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飯田 将太(いいだ・しょうた)
「飯田商店」店主
1977年10月、神奈川県真鶴町に生まれる。明海大学経済学部卒業後、日本料理の道へ進む。25歳のときに、家業に1億円の借金があることを母親から告げられ、返済のために2002年11月「ガキ大将ラーメン湯河原店」を始める。2008年7月、「支那そばや」のラーメンに衝撃を受け、この道を究めることを決意。2010年3月16日「らぁ麺屋 飯田商店」開店。1日の客数ゼロからスタートし、客数300人にまで大躍進する。2017年から、東京ラーメン・オブ・ザ・イヤーTRY大賞総合1位を4連覇。殿堂入りを果たす。2019年には一時休業をしてラーメンを一新。2021年から、食べログ「全国ラーメン・つけ麺TOP20」1位を継続中。2025年3月16日、開店15周年を迎え、店名を「飯田商店」に変える。著書に『本物とは何か』(プレジデント社)がある。
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(「飯田商店」店主 飯田 将太)