NHK大河「べらぼう」では描かれない…投獄された江戸の天才・平賀源内52歳が患った「恐ろしい病の正体」
2025年4月20日(日)9時15分 プレジデント社
「平賀源内肖像」。原著『戯作者考補遺』(弘化二年(1845年)、木村黙老画)の模写。『国史大図鑑 第4巻』(1932年刊)より(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)
「平賀源内肖像」。原著『戯作者考補遺』(弘化二年(1845年)、木村黙老画)の模写。『国史大図鑑 第4巻』(1932年刊)より(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons)
■江戸の天才・平賀源内
古くは万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチや地動説のガリレオ・ガリレイ、新しくは交流を発明したニコラ・テスラやコンピュータの父アラン・チューリング、医学の世界では細菌の発見前に消毒法を提唱したイグナーツ・ゼンメルワイスなど時代に先駆けた天才は必ずしも同時代に受け入れられず、時に非業の最期を遂げることがある。
わが国では江戸中期の万能の天才——発明家、鉱山開発者、本草学者、戯作家、コピーライターの平賀源内がこれに相当するだろう。
源内は享保13年(1728年)讃岐国寒川郡志度浦に、讃岐高松藩の蔵番を務める下級武士、白石茂左衛門の子として生まれた。家伝では平賀家の先祖は武田信玄に滅ぼされた信濃平賀城主、平賀玄信であるという。幼少のころより才覚にあふれ13歳から藩医の元で本草学と儒学を学び、家督を継いだ24歳には非凡な才能を藩主に認められ1年間長崎へ遊学。本草学とオランダ語、医学、油絵などを学んだ。
帰国後に藩職を妹婿に譲って隠居。大坂、京そして江戸で本草学と儒学を学んだ。さらに幕府の有力者である田沼意次の知遇を得て、物産博覧会を開催するに至る。
■源内の命を奪った「病」とは
かねてから、離藩を申し出ていた高松藩からも辞職を許可されるが、「奉公構」の処分となり他の大藩への仕官や幕府直参への道は断たれてしまった。「フリーランス」となった源内は江戸でたびたび物産会を開くほかに戯作や浄瑠璃本の執筆、川越藩の依頼で奥秩父中津川で鉱山の開発中に石綿を発見し「火浣布」として販売した。秋田でも藩主佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行うとともに秋田藩士、小田野直武に蘭画の技法を伝授した。
そして安永5年(1776年)には長崎で手に入れた壊れたオランダ製のエレキテルを修理復元、これを参考に国産エレキテルを制作した。本草学を通じて医学にも興味のあった源内はこれを電気治療に応用しようとするが、実用性には程遠く見世物でしかなかった。
3年後の安永8年(1779年)夏には橋本町の邸に移ったが、大工棟梁2人に秘密文書を盗まれたと酔って勘違いして刀を振り回して殺傷してしまった。切腹しようとして果たせず、11月21日奉行所に自首、投獄されるが取り調べ中の12月18日に破傷風により獄死した。享年52。
平賀源内の興味と活動は和洋東西あらゆる領域にわたるが、興味の赴くままにさまざまなことに手を出し、しばしば途中で放り出すこと、友人も含めてまわりの人々とのトラブル、そして彼の不遇の最期の原因ともなった勘違い刃傷事件など現代ならば発達障害の一つである注意欠如・多動症(ADHD)を疑わせるものがある。
■傷口から侵入して、毒素を産生する
さて、源内が患った破傷風とは、酸素のないところでのみ増殖する偏性嫌気性菌である破傷風菌によって引き起こされる感染症である。破傷風菌は通常の自然環境では土壌のなかに芽胞という増殖力はないが、物理化学的に安定した細菌本体よりも小さな粒子で存在する。そして傷口などから侵入して、創部で発芽・増殖し、毒素を産生するようになる。
顕微鏡で見た破傷風菌(写真=CDC/PD US HHS CDC/Wikimedia Commons)
破傷風菌の産生する神経毒素テタノスパスミンは、細菌のゲノムとは別にプラスミドという独立した遺伝子にあって、破傷風菌の増殖や代謝に伴ってその産物が創傷局所から血液やリンパの流れによって末梢神経の端末に達する。さらに末梢神経から軸索という細い神経線維を伝わって脳や脊髄などの中枢神経に達するのである。
中枢神経では興奮を伝達する経路と、抑制する経路が拮抗してバランスが保たれているが、破傷風毒素は神経結合部であるシナプスにおいて抑制性神経伝達を選択的にブロックする。そうなると、わずかな刺激でも末梢運動神経、脳神経、交感神経神経の活性化が生じて、全身の強直性けいれんや開口障害など破傷風特有の臨床症状を引き起こすのである。
■現代でも、途上国では50%以上の死亡率
歴史的には紀元前5世紀、ギリシアの医祖ヒポクラテスの時代から知られていたが、1884年ドイツのアルトゥール・ニコライアーが菌を発見、7年後にコッホのもとに留学していた北里柴三郎が菌の純粋培養(嫌気培養)と血清療法の開発に成功した。傷口が汚染されやすい戦争外傷では、たとえ軽症であっても破傷風による二次的死亡が少なくないことから第二次大戦中に開発された破傷風ワクチン(破傷風毒素を精製・無毒化したトキソイド)が各国の兵士に普及した。
現在では破傷風毒素とジフテリア毒素、百日咳菌(不活化ワクチンと成分ワクチンがある)の三種混合ワクチンが世界中で広く接種されている。それでもわが国で年間100例程度の報告がある。ワクチンの効果は永続性がないので、特に途上国への旅行者や農作業など土壌汚染のリスクのある人は繰り返し接種を受ける必要がある。もちろん、田んぼや河川などに素足で入るべきでないというのは言うまでもない。
破傷風の場合は感染局所で産生された細菌毒素が中枢神経に到達して発症するので創部の外科的治療や抗菌薬に加えて抗血清が今でも有用な治療法となる。幸いなことに現代のわが国では適切な治療もあって死亡率は10%以下であるが、途上国では50%以上に達する。さらに途上国では新生児が出産時に感染して死亡することも多いので、清潔な場所での出産に加えて母体へのワクチン接種も行われている。
■源内の死をめぐるミステリー
では、源内はどこで破傷風に感染したのだろうか。一つは刀傷事件のときに自分自身をも傷つけて創部に感染した破傷風菌が中枢神経に至った可能性。次に入牢後取り調べ中に受傷した可能性の二つがある。
刃傷沙汰を起こしたのが安永8年(1779年)11月20日、奉行所に自首して投獄されたのが翌21日である。破傷風で亡くなったとされるのが12月18日であるから約1カ月。破傷風の潜伏期間は通常3〜21日(平均14日)とされているので、発症後1週間から10日で死に至ったとすれば一応矛盾はしない。
かつては、牢獄で獄卒や牢名主などによる暴行を受けてその傷から感染したという説が唱えられていたが、浪人とはいえ仮にも武士身分で、天下の権力者である田沼意次のお気に入りとあれば、武士や僧侶を収容する牢屋である揚屋に収容されたはずで、土間で拷問や暴行を受けたとは考えにくい。
ただ、受傷と発症の経緯が何であったとしても町奉行所としては源内が江戸の有名人であり、老中田沼の関係者で事件の背景もよくわからないだけに彼の病死は事件を有耶無耶にするには好都合だったかもしれない。その結果、反田沼派による暗殺説、自殺説、さらに牢から救出され、田沼意次の領内で医師として余生を過ごしたなどさまざまな説が提唱されてきた。
■親友だった杉田玄白が墓碑に刻んだ言葉
浅草総泉寺にある源内の墓から、郷里志度の自性院常楽寺に分骨するために改葬した時に遺骨が発見されたので、生存説は無理があると思われる。彼の52歳の死はあまりに早く、もう少し長生きしてほしかったという同時代や後世の人々の願いが生存説になったのであろう。
親友だった蘭方医、杉田玄白は「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常(ああ、非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや)」という墓碑を刻んでいる。
写真提供=共同通信社
国史跡に指定されている「平賀源内墓」=2025年1月20日、東京都台東区 - 写真提供=共同通信社
身分を問わない人材登用に加えて、流通交易を重んじる重商主義、蝦夷地の開発や、蘭学をはじめとする西洋文化の移入に熱心な田沼意次のブレーンの一人だった源内の早すぎる死は、江戸中期に経済や文化が発達していた時期だけに惜しまれる。わが国への欧米からの産業革命の本格的な移入は明治になってからであるが、新しいもの好きの源内が長く生きていればもう100年早まったかもしれない。
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早川 智(はやかわ・さとし)
日本大学総合科学研究所 教授
1958年岐阜県関市生まれ。83年日本大学医学部卒業、87年同大大学院修了。同大医学部助手、助教授、教授を歴任し、2024年4月より現職。専攻は、産婦人科感染症、感染免疫、粘膜免疫、医学史。日本産婦人科感染症学会理事長、日本臨床免疫学会監事、日本生殖免疫学会名誉会員。著書に『ミューズの病跡学I 音楽家編』『ミューズの病跡学II 美術家編』『源頼朝の歯周病 歴史を変えた偉人たちの疾患』(診断と治療社)、『戦国武将を診る』(朝日新聞出版)などがある。
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(日本大学総合科学研究所 教授 早川 智)