「なぜ平賀源内は"非常の死"を遂げねばならなかったのか」親友・杉田玄白が私財を投じ源内のためにしたこと

2025年4月20日(日)8時15分 プレジデント社

「杉田玄白像」(写真=早稲田大学図書館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

1779年に獄中で非業の死を遂げたマルチクリエーターの元祖・平賀源内。作家の濱田浩一郎さんは「大河ドラマでも描かれたように、平賀源内は『解体新書』の杉田玄白と交流があった。小浜藩医という立場のある玄白は、科学者として自由に活動する源内をうらやましく思っていたのではないか」という——。

■大河ドラマ「べらぼう」に高名な蘭学者・杉田玄白が登場


大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)において平賀源内は安田顕さんが演じており、初回から存在感のある演技で話題を集めています。そして同ドラマ第15話「死を呼ぶ手袋」では杉田玄白(演・山中聡)が初登場しました。


「杉田玄白像」(写真=早稲田大学図書館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

「困ったことに、エレキテルについてはイカサマじゃないとも言い切れないですからねぇ」
「(エレキテルが万病に効くというのは)源内さんがひねり出した売り文句ですよ。ちょいと大きく出すぎたかもしれませんねぇ……」


そう言ってため息をつき、近ごろ奇行が目立つ源内を心配していた玄白。


玄白は江戸時代後期の蘭方医・蘭学者であり、前野良沢らとオランダの外科医書『ターヘル・アナトミア』を翻訳、安永3年(1774)に『解体新書』として刊行したことでよく知られた人物です。実はこの2人、諸書において「親友」とか「最も深い交りがあった」と記されるほど仲が良かったのでした。


■マルチな活動家・源内、コツコツ努力する秀才・玄白


玄白は源内のことを「非常の人」と評しました。ここで言う非常とは日常的でないことを指します。確かに源内は日常的な平凡人ではなく、その言動は一般人の常識を超えていました。源内に付けることができる肩書は「本草学者、地質学者、蘭学者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家」など多岐にわたりますが、そのことを見ただけでも源内の常人には真似できない精力的な活動を窺うことができるでしょう。


源内はアクティブ、玄白は真面目でコツコツタイプの蘭学者と言ったイメージが強いと思われますが、2人はどのようなところで惹かれ合ったのでしょうか。その点に付いて記す前に玄白の前半生を簡単に見ておきましょう。


玄白が生まれたのは享保18年(1733)のことでした。源内の生まれ年は享保13年(1728)のことですので、源内の方が5歳年上ということになります。源内の生誕地は讃岐国(現在の香川県)ですが、玄白は江戸の牛込矢来(現在の東京都新宿区)に生を受けました。父は杉田甫仙、若狭国(福井県西部)小浜藩の藩医でした。牛込矢来には小浜藩の下屋敷がありましたが、そこで玄白は生まれたのです。


生まれたばかりの玄白に悲劇が起こるのですが、それは母の死でした。母は難産のため、出産後に絶命してしまったのです。


■玄白は小浜藩の藩医の息子として江戸に生まれた


青年期の玄白は徳川幕府の医官(奥医師)西玄哲に医学を学び、宝暦3年(1753)には小浜藩主・酒井忠用に五人扶持で召し抱えられることになります。明和4年(1767)には藩主の侍医にまで出世しますが、それまでに玄白は外科の領域に大いなる関心を示していました。1754年、山脇東洋が京都にて人体解剖に成功したことに発奮したとされます。


さて、玄白と源内がいつどこで出会ったのか、明確なことは分かっていません。宝暦6年(1756)、讃岐国から江戸に出た源内はそれ以降、頻繁に物産会(諸国の薬種や産物を展示した博覧会)を主催することになるのですが、物産会で2人は出会ったのではないかと推測されています。


■源内と玄白は気が合い、オランダからの舶来品を一緒に見物


交流を深めた2人は、明和2年(1765)、本石町(現在の日本橋室町)の薬種屋、旅宿・長崎屋を訪れました(蘭学者・中川淳庵も同行していました)。そこに居たのはオランダ語通詞(通訳)吉雄幸左衛門です。幸左衛門はオランダ商館長の江戸参府に同行し、長崎屋に止宿していたのでした。その席で幸左衛門が披露したのはオランダ製のタルモメイト(温度計)なる「奇器」であり、幸左衛門はこの奇器を考え出すのにオランダ人でも何十年もかかったと語ります。


ところが源内は温度計の構造が分かっていたために「これしきのものを作り出すのは容易である」と豪語するのでした。源内はこの3年後には温度計の一種「寒暖計」を作っていますので、前述の言葉は嘘ではなかったのです(源内はオランダ語の読解能力はほとんどなかったようです)。大河ドラマに出てきた「量程器」(歩数を計る小型の機械)も、源内が改良して作ったとされています。


中丸精十郎画「平賀源内肖像」1886年(写真=早稲田大学図書館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ちなみに先ほどの源内の言葉に深く頷いたのは玄白と淳庵、幸左衛門のみだったとの逸話が残っています。それだけこの3人は源内の才能を信じていたのでしょう。玄白の晩年の著作に有名な『蘭学事始』(1815年成立。蘭学草創の当時を回顧した手記)がありますが、その中に源内も登場してきます。その中で源内は「浪人者」で「業(なりわい)は本草家」(本草学者=薬物などの自然物を分類・研究する学者)と記されています。前述のように源内は文芸・殖産事業など、さまざまなことに手を出していきますが、本当に極めたかったのは本草学とも言われています。


■平賀源内がオランダ商館で見せた「地頭の良さ」


そうした事情を考えると、親友の玄白に「業は本草家」と書いてもらったことに泉下の源内は大いに喜んだことでしょう。玄白は源内を「生得て理にさとく敏才にして、よく時の人気にかなひし生れなりき」(生まれつき物を理解するのが速く、才能があり、時代の気風にかなった性質であった)と『蘭学事始』で評価しています。これまた黄泉の源内が聞いたら泣いて喜んだことでしょう。玄白は源内の才能あふれるところを大いに評価していたのでした。


源内の理解力や知恵にまつわる逸話も同書には記されています。ある年、オランダのカピタン(商館長)カランスが江戸にやって来るのですが、その宿舎には人が集まり酒宴が開かれました。玄白や源内もその場にいたのですが、カランスは急に袋を取り出して「この袋の口を開けてみてください。開けた人にこの袋を差し上げましょう」と言うではありませんか。


その袋の口は「智惠の輪」になっており、簡単に開けることはできなかったのです。列座の者にその袋が回されていきますが、誰も開くことはできません。ついに末座の源内のところに袋が回ってきます。源内は袋を手に取りしばらく考え込んでいましたが、たちまちその袋の口を開いたのです。居並んだ客だけでなく、カランスも源内の「才の敏捷(びんしょう)なるに感じ」たのでした。このことがあってから源内とカランスは大変仲良くなったとのこと。


■源内は玄白編纂の「解体新書」に蘭画の弟子を推薦した


「才の敏捷」な源内でしたが、そうであるがゆえにさまざまな事業に手を出し、失敗も経験しています。秩父地方の中津川村における鉱山事業の挫折もその1つです。中津川鉄山が休山したのは安永3年(1774)のことでしたが、同年に刊行されたのが解剖学書『解体新書』でした。『解体新書』には多くの挿図が描かれていますが、挿図を描いたのが小田野直武という20代の秋田藩士です。そして直武が蘭画の技法を学んだのが、西洋式の絵画にも長けていた源内だったのです。源内は弟子の直武を玄白に紹介し、彼が図を描くことになるのでした。源内は『解体新書』の完成に間接的にではありますが寄与していたのです。


適塾所蔵『解体新書』(写真=Babi Hijau/PD-self/Wikimedia Commons

源内と玄白、両者は次第に明暗が分かれていきますが、源内は安永8年(1779)、殺人事件を起こしてしまい、入牢。その年12月に獄死します。


■源内は51歳の時に殺傷事件を起こし、投獄死してしまう


哀れな最期を遂げた友人の死を玄白は悲しみました。天明期を代表する文人で蔦屋重三郎とも交流があった大田南畝は源内の「友」杉田玄白が「私財」をもって源内の「墓碑」を建てたことを書いています。


玄白は墓碑銘を記していますが、そこにはあの有名な「ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや」との一文があるのです。源内の「非常」の死を悼む気持ちが伝わってきますが、その振る舞いや好みが尋常でなかったことがスッと胸に入ってくる名文であります。


「嗟非常人 好非常事 行是非常 何非常死 」
(読み)ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや
(大意)ああ、何と変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常だったのか。


杉田玄白による平賀源内墓碑銘文「處士鳩渓墓碑銘」。『戯作者考補遺』(弘化二年(1845)、木村黙老著)より(写真=国立国会図書館デジタルコレクション/PD-Japan/Wikimedia Commons

■私財を投じ源内の墓を建てた玄白のせつない胸の内


ちなみに玄白は源内による殺人を「狂病」(精神に錯乱を起こす病)のためと書いています。狂病のために人を殺し、獄に下るとしているのです。さらに玄白は、源内は獄死人であったので、死体は家族に引き渡されず、その親族(源内の甥や姪)に衣服や履き物が与えられ、浅草の総泉寺に葬られたと書いています。


平賀源内の墓と石碑、1930年頃、東京(写真=anonymous/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

しかし、それは「世間体をつくろった言」(城福勇『平賀源内の研究』創元社、1976年)であって実際には源内の遺体は引き渡されたようです。昭和3年(1928)の総泉寺の源内墓所修築の折に、礎石下の土中から「彼の遺骨と推定するよりほかはない骨つぼが発見」(前掲書)されたことがその証拠になったと言えるでしょう。玄白は源内墓碑銘に源内の人となりを「磊落不羈(らいらくふき)」(度量が広く、小事にこだわらず。何ものにも拘束されず、思い通りに振る舞う)と書きました。奔放に飛び回る「浪人者」源内を「藩医」の玄白は羨望のまなざしで見ていたのかもしれません。


主要参考引用文献一覧
・城福勇『平賀源内の研究』(創元社、1976年)
・藤本十四秋「解体新書と、付図を描いた小田野直武」(『川崎医療短期大学紀要』29号、2009)
・呉座勇一「平賀源内と杉田玄白の明暗はどこで分かれたか」(『アゴラ』2025年3月9日)。


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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
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(作家 濱田 浩一郎)

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