開店1カ月で4000万円…「フードコートで売上日本一」を達成したラーメン店主の「絶対妥協しない」心意気
2025年4月24日(木)10時15分 プレジデント社
「飯田商店」の開店は11時。暖簾を出すのは店主・飯田将太さんの仕事。 - 写真撮影=合田昌弘
※本稿は、飯田将太『本物とは何か』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
写真撮影=合田昌弘
「飯田商店」の開店は11時。暖簾を出すのは店主・飯田将太さんの仕事。 - 写真撮影=合田昌弘
■断り続けた「ららぽーと沼津への出店」
飯田商店のラーメンを、世界中の人に、もっとたくさんの人に食べてもらいたいと思っている。その力を身につけたい。
きっかけは、沼津のららぽーとへの出店依頼だった。以前から話は来ていたが、ずっと断っていた。というか話を聞くことをしなかった。
でも、何度断っても三井不動産の人がやってくる。帰れ、とはっきりと言ったこともあった。それでも来る。次は無視もした。お客さまとして来たにもかかわらず無視をしたのに、それでもまた来るから、「わかった。話だけは聞くよ」と。
その話に強い誠意を感じた。すべてを自社製でやる。飯田商店の味そのものを提供する。この条件なら考えてもいいと言ったら、これこそが望んでいたことだと、真剣な対応を約束してくれた。実際にその通りだった。
■すべて自社製をめざす
ちょうど、弟子になりたいとか、働きたいという従業員も増えてきていた。やるのは相当大変だなとは思ったが、「もっとたくさんの人に飯田商店のラーメンを食べてもらえたらうれしいし、やってみたい」と、気持ちが変わった。
フードコートに出している有名店の料理は、自分のところではつくらずに、いわば飯田商店風の「似ているもの」を探してきて提供することが大半だ。これは絶対に嫌だった。だから、飯田商店の裏に、セントラルキッチンをつくることから始めた。
製麺機のグレードアップとそのレシピづくり、スープの設備とそのレシピづくりに始まり、完全に密封できる寸胴鍋探しから冷蔵の設備、そして運送トラックの入手、現地での人の採用まで、キリがないような感じだった。
開店は、2019年10月4日。
■フードコート日本一の売り上げを記録
オープンに際して、ららぽーとに出店する各店主の意気込みを書いて出す機会があった。「僕は絶対に既製品は使わない。手づくりでやり抜く。フードコートだからといって一切の妥協はしない。全部手づくりでやらなかったら死にます」と書いたら、「死にますは、いらないです」と言われた(笑)。
銀行さんからも「大丈夫ですか? 月に500万円くらい売れれば御の字ですよね?」と心配もされた。
ところが蓋を開けてみたら、1カ月目の売り上げは4000万円だった。日本のフードコート最高の売り上げを記録した。本店を休むだけでは人が足りないから、姉妹店のにこりも休んで、セントラルキッチンと沼津の店に総動員をかけた。
■元旦には一日で2000杯を提供
スープを炊いて、濾(こ)して、冷やして、分けて、運んで。すぐに戻ってスープを炊き始めて……。麺もずっとつくりっぱなし。寝る時間も満足になかった。移動中の車が鹿とぶつかって壊れたこともあった。
比内地鶏の鶏ガラがもうありませんとも言われたから、いろいろなつながりを使って食材探しもした。
正月には1日に2000杯以上を出すことも経験した。1日の売り上げが200万円。100万円を超えたらすごいと言われるところを倍も売った。わけがわからない1日だった。
こうして、できるということを証明した。手を抜かないでできる。やると決めたらできるんだと。最初の4カ月は月商3500万円を下ることはなかった。
■コロナ禍で通販に進出
沼津の次は、コロナ禍(か)での通販が爆発的な売り上げを記録した。
実は、その直前にお土産用の準備を始めていた。お土産は、中華蕎麦とみ田の富田治さんが以前から取り組んでいて、「将太ちゃん、お土産をやったら結構売れると思うよ」と言ってくれていた。最初は面倒くさいし、性分に合わないと思ってやらなかった。
でも、どれくらい売れるのかと改めて聞いたら「店1軒分くらいは売れるよ」と。確かに、自分もほかの店に行っておいしかったら買って帰りたいという気持ちはある。お客さまも喜んでくれるだろうと思い、資材を仕入れて練習をし、パッケージをつくった。
そうしたら、新型コロナの緊急事態宣言が発令された。すぐにホームページをつくってもらって、鶏出汁の醤油らぁ麺3食入りを売り出した。それが爆発的にヒットした。用意した分だけ、どんどん売れていった。
今度は沼津で採用した人たちを、毎日迎えにいって湯河原に来てもらった。ららぽーとはコロナ禍で店を開けられなかったから、みんなの仕事を確保できてよかった。麺とスープのパックを1日2000個はつくった。飯田商店の店頭にもお土産を買いにくる人が行列をつくった。
こうして、本店やイベントだけでなく、自分たちがつくったラーメンを、たくさんの人に食べていただけるようになった。
写真撮影=合田昌弘
飯田商店の「つけめん」はお蕎麦屋さんへの挑戦状だ——と語る飯田さん。 - 写真撮影=合田昌弘
■イギリスでラーメンをつくる
2024年はイギリスに赴(おもむ)き、自分でラーメンをつくって、現地の人たちに食べてもらうことができた。
「世界中のどこに行ってもラーメンをつくれるようになること」が、新たな自分のテーマだったから、オファーを喜んで受けた。6月18日に日本を発ってイギリスへ。翌月の7月2日にはスペインに向かった。
イギリスは、王立のウィンザー競馬場で開催される、ロイヤルウィンザーカップというエリザベス女王が生前に一番大事にしていたPOLOのイベントで、300食分のラーメンを振る舞うという内容だった。
弟子3人と、「飯田商店」から独立して開業している渡邊大介と5人で向かうことになった。
■スープは現地で作ることを決意
6月23日が本番だった。正式に話があってから3週間後に出発という慌ただしさだったが、急いで準備を始めた。
スープは日本でつくって冷凍便で送ればいいと言ってくれた。しかし、本来は豚や鶏の畜肉系は絶対に持ち込めない。いろいろ考えて、それはやめた。違反は違反だから。真っ当な道で成功しないと意味がない。
そこで決意して「スープは持っていきません」と伝えた。ただし、麺、醤油だれは植物系だからOKだったので、自分でつくったものを持っていった。麺は、製麺機でつくって瞬間冷凍して、キャリーバッグの中に保冷シートを張り、保冷剤をたくさん入れて運ぶことにした。
すると、渡航前にまた別の話が舞い込んできた。「モシマンズ」というエリザベス女王が愛していた会員制の貴族レストランのシェフが、そのイベントの前日に飯田商店とコラボレーションをしたいという話だった。ロイヤルウィンザーカップを訪れるVIP客のディナーにラーメンを出したいというのだ。
最初は、前日だからとても無理だと思ったが、僕がOKすれば、モシマンズの仕入れが使えると考えた。ロンドンで有数のレストランの仕入れが適当なはずはない、いい食材を使える。
自分たちで市場に行って食材を一から探すつもりだったから、こんなありがたい話はない。だから、やることにした。
■アパートメントのキッチンで試作
モシマンズはレストランだけでなく、テイクアウトやケータリングなども経営していた。だからキッチンが広い。その一角を僕らが独占できた。
しかも、豚が最高だった。純血のデュロック。このゲンコツがすごかった。肉のおいしさはまぁまぁだったが、ふだん僕が使っている豚のゲンコツよりも1.5倍は味が濃い。
鶏も新鮮だった。軟水も300ℓを頼んだら用意してくれた。もともとは、厨房付きのアパートメントを借りてもらっていたので、そこで準備をするつもりだったから、実にラッキーだった。
いきなり本番というわけにはいかないから、アパートメントのキッチンで試作をした。イギリスの豚や鶏を市場で買い漁って、まずは肉の旨みだけをみる。今度は丸鶏をさばいて、ガラだけで炊いてスープをイメージする。
ネギはポロネギしかなくて最初は戸惑ったが、それが意外においしい。ちょっとニンニクの香りがあって、九条ねぎの根元に近い味がした。貝類もいろいろ食べてみた。とにかくイギリスの食材を知ることに努めた。
■VIPが激賞した「飯田商店」のラーメン
モシマンズでは大成功だった。お客さまは、ベントレー社のベントレーさん、ノーベル賞で知られるノーベルさんなど、VIPが36人だった。食事中にお客さまが僕を呼ぶ。シェフを呼べ、と。
5階にある最上階のVIPルームに何往復もした。皆さんが「アメイジング!」と、喜んでくれた。イギリスでもラーメンが愛されるということが、よくわかった。
厨房の皆さんにもラーメンを振る舞った。ゲストが食べたものと同じ醤油ラーメンを全員につくった。「気になるだろ。食べようぜ」と言って。その時間が一番よかった。彼らが一番わかってくれる。
「モシマンズの仕入れだから同じ豚だけど、俺たちがやったってこうはできない。どうやってやるんだ?」
同じ厨房で戦う料理人同士だからこそ、互いに感動できる。僕らはやっぱり厨房が一番だ。
そもそも渡航の目的だったロイヤルウィンザーカップ当日も好評だった。何人のロイヤルファミリーが食べてくれたかはわからないが、皆さん「アメイジング!」と言って、とても楽しそうだった。
競馬場には、風が吹くと火が消えてしまうような設備しかなかったから、ここで一から仕込みをしていたらどうなっていたか、考えたら背筋が寒くなった。
■ラーメンの無限の可能性
2024年はイギリス以外にスペインにも行ったし、また、北里研究所病院糖尿病センター長の山田悟先生が提唱する「ロカボ」のラーメンづくりにも取り組み始めた。
2023年からは、鎌倉にあるNPO法人アルペなんみんセンターで、難民の方々にラーメンを振る舞うこともさせていただいている。ウクライナ、ミャンマー、ナイジェリアなど約10カ国の方が生活をしている施設だ。
紛争地域や飢餓に見舞われている場所に出向いて、ラーメンを食べたことがない方々に、本気でつくったラーメンを食べてもらえるようになりたい、とも思っている。どんな表情をしてくれるだろう、喜んでもらえたらうれしい、という素朴な気持ちからだ。
国内でも、これまで老人ホームには行っているが、親御さんのいないお子さんたちの施設などもある。こういうところにキッチンカーで伺って、ラーメンを食べてもらいたい。
極端なことを言えば、本店の営業は年に3カ月くらいにして、残りは、日本や世界でラーメンを振る舞う活動と勉強にあてる。そういうことがちゃんとできる力を身につけたい。
写真撮影=合田昌弘
地元・湯河原の豆乳を使った冷やし麺は夏の名物になっている。 - 写真撮影=合田昌弘
■店名変更を決意
その意味では、今後は東京のど真ん中でも勝負をする必要があると考えている。「飯田商店」のブランドをもっと強くしていかないと、困っている方々や寂しい思いをされている方々にラーメンを食べていただくこともできないからだ。
そのために、店名から「らぁ麺」を取る。店名を「飯田商店」にすることを決断した。
2010年に飯田商店を開店した際の店名は「らぁ麺屋 飯田商店」だった。次に「屋」はいらないなと思って「らぁ麺 飯田商店」にした。次は「らぁ麺」も取る。
それでも通用するようなレベルにならなくては、次のステップはない。飯田商店が生まれた湯河原をベースに、本物のラーメンをいかに広く伝えていけるか。もっとたくさんの方々にいかに喜んでいただけるようになれるか。
次の課題は明確だ。
■屋台のラーメンにも挑戦したい
その一方で、自分たちで屋台を引いて、ラーメンを食べていただくこともしたい。きれいな店で食べるのもいいけれど、大空の下ですするラーメンもうまいもの。気取らないのもラーメンの魅力の一つ。
屋台で出すラーメンは最先端のものでなくていい。ちぢれた細麺のすっきりしたスープ。鶏はブロイラーで豚の骨は輸入品でもいい。でも、飯田商店のエッセンスは入っている、ちゃんとしたラーメン。
ラーメン屋の原点は屋台にある。原点を肌で知らずしてラーメンを語ってはいけないと思っている。
■現在の「飯田商店」はただの通過点
ラーメンが日本の国民食と言われるようになって久しい。ミシュランにも取り上げられるようにはなった。味も技法も発展した。しかし、僕はラーメンを日本の文化としてもっと重いものにしたい。
飯田将太『本物とは何か』(プレジデント社)
おいしいラーメンを出す店はたくさんできた。しかし、その中で、ラーメンのど真ん中をやっている人は案外少ない。ラーメンのスープの基本は鶏ガラと豚の骨だ。そして麺を自分でつくる。
ラーメンには、先達が築いてくれた仕事があり、食材の構成がある。100年の積み重ねがある。どの先輩が店に来ても「おう、飯田! がんばってるな」と言われたい。
皆さんがやってきてくれた積み重ねがあって今がある。そこに敬意を払い、全部を背負うくらいの覚悟だ。日本のラーメン文化を、寿司や蕎麦などと同様の、確かなものにしていく。これは佐野実さんの遺志だとも思う。
ラーメンの横への広がりは、寿司や蕎麦と変わらないかもしれない。しかし、高さが足りない。飯田商店が、過去から未来への一つの架け橋になって、ラーメンの伝統をつくり、さらに発展させていくことに貢献したい。
現在の「飯田商店」は到達点ではなく通過点に過ぎない。開店してから15年。ラーメンをどうしたら少しでもおいしくすることができるか、常に考えてきた。これは終生、変わらない。
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飯田 将太(いいだ・しょうた)
「飯田商店」店主
1977年10月、神奈川県真鶴町に生まれる。明海大学経済学部卒業後、日本料理の道へ進む。25歳のときに、家業に1億円の借金があることを母親から告げられ、返済のために2002年11月「ガキ大将ラーメン湯河原店」を始める。2008年7月、「支那そばや」のラーメンに衝撃を受け、この道を究めることを決意。2010年3月16日「らぁ麺屋 飯田商店」開店。1日の客数ゼロからスタートし、客数300人にまで大躍進する。2017年から、東京ラーメン・オブ・ザ・イヤーTRY大賞総合1位を4連覇。殿堂入りを果たす。2019年には一時休業をしてラーメンを一新。2021年から、食べログ「全国ラーメン・つけ麺TOP20」1位を継続中。2025年3月16日、開店15周年を迎え、店名を「飯田商店」に変える。著書に『本物とは何か』(プレジデント社)がある。
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(「飯田商店」店主 飯田 将太)