「玉ねぎが重くて持てない」から始まった…肝っ玉母さんが42歳で脳梗塞、半身不随で20歳娘の"30年介護"の粛々
2025年4月26日(土)10時15分 プレジデント社
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kaowenhua
この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、主に未婚者や、配偶者と離婚や死別した人などが、兄弟姉妹がいるいないにかかわらず、介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。
■「ザ・昭和の父親」と「肝っ玉母さん」
四国地方在住の城崎幸乃さん(仮名・50代)の両親は、知人の紹介で知り合い、製造業に就いていた父親が28歳、家事手伝いだった母親が22歳の時に結婚。翌年城崎さんが生まれ、3年後に妹が生まれた。
「『ザ・昭和の男』で亭主関白な父は、妻や子どもに対して全てにおいて束縛が強く、やることなすこと常に反対をされました。今では虐待に値すると思いますが、娘であろうと躾の意味では手をあげることも多くありました。その一方で、母は芯の強い肝っ玉母さんで、色んな面で支えてくれる人。父の体罰からいつも身を挺して庇ってくれました。そんな母のおかげか家族仲は良く、休みの日には海水浴や遊園地に連れて行ってくれるなど、当時はごく一般的な家庭だったのではないかなと思います」
父親は36歳の時に試験を受け、地方公務員になった。城崎さんはおっとりした性格に育ったが、負けん気が強いところもあり、小学校に上がると学級委員に立候補したりもした。
「父は何に関しても厳しかったですが、門限や、付き合う友達についても口うるさい人でした。特に、珠算検定がなかなか受からなかったときは『他の子にできて、なぜお前にできない?』とひどく怒られたように思います」
写真=iStock.com/kaowenhua
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友人との付き合いに関しては、片親の子や、家庭環境が良くないと感じた子とは付き合うことを禁止された。
やがて城崎さんが中学生になり、高校受験が迫ってくると、「公立高校へ行け」と繰り返し言われるように。
「父にはことあるごとに『俺の金で学校へ行かせてやってる』と言われていました。それがずっと嫌だったので、早く社会人になれる商業高校に進み、まだ当時はバブルで景気が良かったため、卒業後は大手製造業の一般職の事務として働き始めました」
一人暮らしは父親に許されなかったため、実家から通った。社会人1年目の年に、合コンで出会った5歳上のシステムエンジニアの男性と交際が始まった。
「一度、22時の門限より遅く帰ったときに父が激怒したため、彼は慌てて謝罪に来てくれました。その後、たびたび寄ってくれるようになったので、交際に反対されることはなくなりました。母は一人暮らしの彼にいろいろ食べるものを持たせていて、彼が転勤族だということも知っていたので、『転勤したら、いろいろ送ってあげるわ』と冗談で話していました」
■母親の救急搬送
城崎さんが成人式を迎えた1993年1月下旬。小さな警備会社を経営していた母方の69歳の祖父が自分の会社の前で倒れ、救急搬送された。脳卒中だった。その後、ICUへ1週間ほど入院したが、そのまま亡くなってしまった。
小さいながらも会社経営者だった祖父の葬儀は社葬。長女だった城崎さんの母親には4歳下に弟がいたが、会社を継がなかった。城崎さんにとっての祖母も69歳で健在だったにもかかわらず、葬儀会社との打ち合わせから祖父の会社関係者への連絡、挨拶など、みんな長女の母親任せにしていた。
その約2カ月後の4月のことだった。
夜、城崎さんが仕事から帰宅すると、夕飯にカレーか肉じゃがを作ろうとしていた母親が、
「玉ねぎが重くてうまく持てない。頭も痛い」
と言う。
写真=iStock.com/Anton Deev
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異変を感じた城崎さんは、取り急ぎ母親をかかりつけ医院に連れて行ったが、「血圧が高いので血圧を下げる薬を出しておきますね」と言われ、帰宅。
一旦家に帰ったものの、母親は横になるなり寝入ってしまい、一向に良くなる気配がないどころか、悪くなっているように見える。次第に、呼びかけても反応がなくなり、「昏睡しているのではないか?」と不安に襲われた城崎さんは、救急車を呼んだ。
すると搬送先の病院で、母親は脳梗塞を起こしていたことが判明。そのままICUに入ることに。
「その時の母は、呂律が回らず、左半身が動かなくなっていました。医師には、『心臓が肥大しており、若い割には動脈硬化が進んでいる』と言われました。もともと血圧が高めの家系でしたし、母は自分のことはいつも後回しにして、受診も服薬もちゃんとしていませんでした。祖父の葬儀で忙しくしすぎたせいもあるかもしれません」
母親はまだ42歳。父親は48歳。城崎さんは20歳で妹は高2だった。母親は一命を取り留め、6月頃には一般病棟に移り、リハビリを開始。7月頃には併設のリハビリ病棟に移り、倒れてから約1年後には退院できることになった。
■母親中心の生活に
父親は若い頃から、趣味でウエイトトレーニングをしており、ボランティアのような形でトレーナー的役割の講師もしていた。
「母が倒れた後、『辞めようか?』と言っていたのですが、後日、誰かに電話をしている父が男泣きしてるのを見かけた時に、『ヤバいな。このまま父まで腐ってしまうのか?』と不安に感じたことから、『トレーニングは続けたほうが気落ちした父のためにはいいかもしれない』と思ったんです。また、当時父はまだ48歳で、母が倒れる前に一度、変な女性の影があったんです。そのため、『母が倒れている間に変な虫がつかないためにも、トレーニングは続けたほうがいい』と私は考えて、『辞めなくていいよ』と言ってしまいました」
一方、高2だった妹は、丁度進路を決める時期だったため、母親の脳梗塞を機に看護学校へ進むことを決断。その後は家事や母親のことは全て城崎さんに任せて遊んでいた。
「当時は介護保険制度もなく、父は現役で働いていて、妹はまだ高校生。私も働いていましたが、ちょうど体調を崩して会社を休んでいるところでした。なので、『母を誰がみるのか?』という話になった時、自ずと私がみることになったのです」
写真=iStock.com/Salah Uddin
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母親の入院中は、朝5時に起きて父親や妹のお弁当と朝ごはんを作り、洗濯などをして、母親の面会へ。昼に帰宅すると、夕飯の支度をしてから、また面会に行った。
「父はお茶一つ入れたことがない人でしたが、私もほとんどしたことがありません。そんな私が家事全般をすることになり、本当に大変でしたが、できないながらも一生懸命にこなしてきた記憶があります。父と妹が私に全面協力とか、これまでの約33年、正直一度もなかったですね」
慣れない生活が続いたせいで、母親が倒れてから1カ月後には疲労から体調を崩し、病院で点滴を打ってもらったこともあった。
「心配をかけるので母には明るく接するように努め、半年後には会社を辞めることにしたのですが、そのことも黙っていました。あまりに面会に通いすぎて、『仕事は?』と呂律の回らない口調で聞かれましたが、誤魔化すのに必死でした」
さらに、交際していたSEの男性に「お母さんが倒れて、左半身が動かなくなったんだ」と話したところ、顔色が変わった。
その数カ月後、男性に転勤の話が持ち上がると、2人は別れることを決断。退院して家に戻ってきた母親は、自分の身の回りのことも1人ではできなかった。服を着る時も、トイレに行く時も、城崎さんのサポートが必要だった。
もともと勝ち気な性格の母親だったが、1人では何もできない自分が情けないと感じていたのか、突然号泣し始めることもあった。その上、城崎さんが仕事を辞めたことと彼氏と別れたことを話すと、母親は「自分のせいだ」と激しく自分を責め、慟哭した。
■自分探し
半身麻痺の母親が日常生活に慣れるのは、思いの外時間がかかった。
「当時は今みたいにスーパーでたくさんの種類のお総菜が買えませんでしたし、コンビニ弁当もありません。介護タクシーもなかった時代です。何でも家族がやって当たり前でした」
家族の中でも、とりわけ城崎さんだけが母親に向き合っていた。
「母は『手も足も引っ張ってしまってごめん』と申し訳なさそうに言いましたが、父は『長女がやって当たり前』だと思ってるのではないでしょうか。看護学校を出て、准看護師として働き始めていた妹からは、『家事と介護してて結婚もできないお姉ちゃんみたいにはなりたくない』なんて言われ、取っ組み合いの喧嘩になりました」
それでも退院してから2年目には、母親は自分の身の回りのことや簡単な家事はできるようになっていた。
新卒で就いた仕事を約2年半で辞めてしまい、自分の将来が不安でたまらなかった城崎さんは、早朝のコンビニでパートをしたり、生花を習ったりし始めた。その後、不動産屋で働き、25歳くらいの頃からは、建築会社で働きながら、夜は専門学校に通い始めた。
母親の介護をすることで、家の中や外のバリアフリーが気になった城崎さんは、「建築を学ぼう!」と閃いたのだ。
「父は自分に負担がかかることを心配して、『働かんでもいいのに』と言いましたが、私にとっては将来に対する不安があまりにも大きすぎました。大手の会社にちょっと勤めてたからと言って、何ができる? って考えたとき、意外と何にもできません。若いだけが特権でした。そう考えたら友達たちのように遊ぶことも、結婚することも気軽にできません。『私これからどうしようか』という焦りに襲われ、自分探しに明け暮れました」
専門学校を卒業した城崎さんは、二級建築士の資格を取得し、建築会社で働き続けた。
■坂道を転がり落ちるように
介護保険法が2000年に制定されたが、母親(62歳)が初めて介護認定を受けたのは2015年頃。結果は要支援2だった。
母親は料理や入浴は1人でできなかったが、そのほかは自立した生活が安定して送れるようになっていた。ただ、時々大きく血圧が上がったり体調を崩したりすることがあり、油断はできなかった。
2016年7月。母親は早朝にトイレに行こうとして段差につまづいてバランスを崩し、尻餅をついてしまう。
母親が痛がり、起き上がれないほどだったため、すぐに救急車を呼んだが、搬送先の病院では「骨折していない」と言われて帰宅。
しかし母親の痛みは一向に治らない。そのため妹が勤めている病院を受診したところ、圧迫骨折が判明。約1カ月の入院となった。
その年の10月、城崎さん一家は新居に引っ越した。城崎さんが43歳の時だ。それまで暮らしていた家は築30年で古く、玄関の前に階段があり、家の中も段差だらけだったからだ。
「将来、母が車椅子になった時に厳しいのではないかと考えて、自分が勤めていた建築会社で一から建てました。ローンは姉妹で組んでいますが、メインを妹にして逃げられないようにしました」
妹は30歳になる手前で一度結婚して家を出ていたが、8年ほどで離婚したにもかかわらず、その後も1人で悠々自適に暮らしていた。妹贔屓な父親は、妹の離婚後、食料などの援助をしていた。
そこで城崎さんは、家を建てる話を持ちかけ、再び家族4人の生活に戻らせたのだ。
さらに同じ年、母親の通院時に、父親が運転する車で途中、事故に遭い、母親は軽いムチウチになってしまう。
母親(63歳)は坂道を転がり落ちるように身体機能が衰えていった。(以下、後編へ続く)
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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)