「最後まで免許更新に行くつもりだった」膵臓がんの59歳夫と要介護4老母を同時介護する50代女性の献身

2025年4月26日(土)10時16分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/LightFieldStudios

最愛の家族が突然、病気で要介護状態になった時、どう対処すればいいのか。現在50代前半の女性は20歳の頃から母親のケアをし、仕事と介護を両立させてきた。だが、伴侶の男性ががん闘病の末、亡くなってしまう。その悲しみの中、女性は要介護4の母親の在宅介護を継続。「大切に育ててもらったからこそ、今の私がある」「介護も自分の人生の経験値の一つ」と語る胸の内とは——。(後編/全2回)
前編のあらすじ】四国地方在住の城崎幸乃さん(仮名・50代)の父親は「ザ・昭和の男」。対して母親は芯の強い肝っ玉母さんで、父親の体罰から身を挺して子どもを守った。商業高校卒業後、城崎さんは大手製造業の一般職の事務として働き始め、5歳上のシステムエンジニアの男性と交際が始まった。だが、成人式も終え人生を歩み始めた矢先、42歳の母親は脳梗塞を起こして救急搬送。左半身が動かなくなってしまう。そのことを知った交際相手とは別れることに。その後、介護は30年以上続くことになった——。

■40代での結婚


建築会社で働いていた城崎幸乃さん(仮名、現在50代、四国地方在住)は、2013年1月頃、40歳の時に知人の紹介で、機械設計の仕事をする6歳年上の会社員の男性と知り合い、交際に発展していた。


しかし、城崎さんには20年前に脳梗塞で倒れ半身不随となった母親の介護があり、また、男性も高齢の母親と同居しており、結婚するにはお互いハードルが高い状況だった。


ところが同じ年、男性の母親が心筋梗塞で救急搬送され、病院で亡くなってしまう。それから5年経った2018年。男性が51歳、城崎さんが45歳のときに2人は結婚した。


当時の母親の介護度は要介護4。自分が実家を離れることで、母親の介護度がこれ以上増すことを心配した城崎さんのために、夫は城崎さんの実家の近くに新居を借り、「仕事を辞めて、通いで介護したら?」と提案してくれた。


「若い時なら、父は誰であろうとも結婚に反対していたと思いますが、もう40代だったので反対しませんでした。妹も、私たちが実家の近くに住むことを知っていたので、特に何も言わず祝福してくれました」


結婚後も城崎さんは、毎日朝から晩まで母親のトイレまでの手引き歩行や入浴介助、家事全般を担当。週に何度かは実家に泊まってトイレ介助をして、明け方に夫と暮らす家へ帰るという生活をし始めた。


写真=iStock.com/LightFieldStudios
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■コロナ禍の救急搬送


2020年10月。朝から母親が嘔吐し、足腰が立たない。


城崎さんは「病院に行こう」と促すが、「行きたくない」の一点張り。


しかし午後には、呼びかけても反応が鈍く、話す声がくぐもったようになってきたため救急車を呼び、搬送先の病院で検査を受ける。


結局、原因がわからないままICUに入ることになった。


写真=iStock.com/mr.suphachai praserdumrongchai
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その数日後、「脳幹梗塞」が起こっていることが判明。搬送された病院主治医から、


・四肢麻痺になる
・言語が話せなくなる
・口からの食べ物の摂取は難しくなる

という説明を受けた。


当時はコロナ禍で面会もできない。


そこで搬送された病院の主治医と、看護師である妹が勤務する病院とで連携を取り、搬送された病院から妹の勤める病院へ転院させてもらった。


「さすがに転院時には会わせてもらいましたが、コロナ全盛期であったので面会はできませんでした。妹が勤務のときは早めに仕事へ行って様子を見てくれたり、携帯の動画を撮って見せてくれたりはしてくれました」


口からの食べ物の摂取が難しくなった母親は、入院中、経鼻経管栄養を施されていた。


そして2021年12月。胃ろうを増設。


「母の希望は『延命措置はやめてね』だったんですけれど、意識はあるし、このまま老健施設や療養型の病院へ行くことになると、確実に長くは生きられない。在宅介護をするのなら胃ろうは必須になるので、かなり迷いはありましたが、涙をのんで胃ろうにすることにしました」


2022年2月、退院が決まる。


「もともと、私と母は親友のような関係性で『もし、寝たきりになったら私がちゃんと看るからね』と常々言っていたのです。訪問看護ステーションに相談に行ったり、在宅介護が可能なのかを十分に検討した上で、看取りも想定した在宅介護をすることに決めました」


■本格的な在宅介護がスタート


城崎さんの母親の退院が決まると、夫は言った。「君の実家に戻ってお母さんと一緒に住もう」


「夫は私の通い介護が大変になることを見越して提案してくれたのでしょう。父や妹はあてにならないので、私もいずれは実家に戻らないといけないと考えていました」


城崎さん夫婦は母親の退院前に、実家への引っ越しを済ませた。


退院した当初、母親は首もすわっておらず、意思疎通も厳しかった。しかし意識はハッキリしており、指で文字を書くことで、言いたいことは把握できた。


「最初に母が倒れた時は介助で、そこから介護になっていったものの、私は介護職でもないど素人なので、オムツ替えから四苦八苦しました。四肢麻痺なのでエアマットを入れて体位変換はしているものの、オムツ替えでも体位変換はするので、腕がすっかりたくましくなりました」


城崎さんは朝6時頃起き、夫と朝食を摂った後、母親の酸素濃度、体温、血圧などのバイタルチェックをしてオムツ替えをしてから、胃ろうの胃残の有無をシリンジで確認。胃残がなければ水分と半固形の栄養を注入し、その間にホットタオルで顔を拭き、保湿クリームを塗って、髪をといて口腔ケアをする。


「日によって違いますが、訪看さんは週に2回、訪問入浴さんも週に2回、訪問リハは理学が1回、作業が1回、言語聴覚の先生のリハが1回と、ほぼ毎日誰か来ています。月単位では、訪問医が月2回、訪問歯科も月2回あります」


昼間は掃除や洗濯、父親の食事の支度などをこなしたあと、夜も胃ろうに栄養を注入し、口腔ケアをして、母親が就寝する9時頃オムツ替えをする。在宅介護が始まってからは、夜は妹と交代で母親の横で寝るようにしている。


「コロナになる前はときどき、妹が休みの週末に夫と出かけたりしていましたが、コロナ禍になってからは怖くて外出できませんでした。夫も私も人混みも渋滞も嫌いなので、休日は家でのんびり過ごしていました」


■結婚4年目のがん宣告


2022年5月。56歳の夫が「胃のあたりに違和感があるなぁ」と言う。


城崎さんは「病院に行ったら?」と勧めたが、夫は「行かなあかん?」と渋る。違和感の原因を白黒はっきりさせたかった城崎さんは、かかりつけ医のところへ夫を無理矢理行かせた。


しかしかかりつけ医では詳しい検査ができなかったため、紹介状を書いてもらい、近くの総合病院へ。その後、念のためPET検査を受けることになり、大学病院で検査を受け、2022年8月、「膵臓がん」と診断。術前の抗がん剤治療が始まった。


写真=iStock.com/Rasi Bhadramani
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Rasi Bhadramani

「総合病院での検査途中に夫がコロナに感染して、私にうつり、母にもうつってしまいました。私と夫はホテル療養になり、母は保健所からお迎えがあって入院。恐ろしくバタバタしました」


術前の抗がん剤治療に入った夫は、治療中も仕事を続けた。その間、城崎さんはがんの闘病ブログを読み漁ったが、夫は一切情報を集めようとはしなかった。


「がんが確定してからは、夫は『泣いても笑っても治療をするしかない……』そんな感じでした。私は『場所が場所だけに腹をくくらないとあかんな……』と落胆しました」


夫は12月に手術を受け、年内に退院。2023年早々から2度目のコロナに感染し、治癒後に術後の抗がん剤治療に入った。治療は半年間続き、夫は副作用に苦しみ、一気に体重が落ちた。


城崎さんは食事に気を配ったが、夫はだんだん食が細くなり、2月頃には栄養剤を処方してもらうように。


術後の治療中は、夫は出勤したり休んだりしていたが、6月に通勤途中で気分が悪くなり、自分で救急車を呼んで大学病院へ搬送される。


城崎さんは、母親のことを妹に任せ、慌てて大学病院へ行くと、医師から「肺に転移している」と聞かされた。抗がん剤を変更することになる。


そして9月。また新たに転移が見つかり、放射線治療が始まる。この頃から痛みがキツくなり、夫は医療用麻薬が処方されるようになった。


「いつか動けなくなるかもしれないと思い、『どこか行きたいところへ行こう』と言って、2人で北海道へ行ってきました。夫は看取りについて話す『人生会議』は嫌がったし、いつか死ぬとわかっていても、恐怖感が強かったようでした。家族の話をしたり、夫が好きなYouTubeの町中華の話をしたり、普通の他愛のない会話をしていました」


その後、再び抗がん剤を変更したが、腫瘍マーカーの数値も下がらず、抗がん剤の効き目も薄かった。そのため、「緩和ケア」について説明がある。


「すでに私は母を介護していましたし、在宅で私が2人看るのは難しいので、緩和ケア病院を選択しました」


2024年11月。夫は緩和ケア病院に入院。


「母の介護をしている私がなかなか面会に行けないことは、夫も理解してくれていました。私は夜か週末に面会に行き、妹の職場が近かったため、妹も時々寄って、様子を見てきてくれました」


2025年2月。午前中、城崎さんが面会に行く車の中で、病院から連絡があった。「呼吸が荒くなってきている」と言う。城崎さんが到着すると、夫は下顎呼吸(下顎を上下に動かして口をパクパクさせるようなあえぎ呼吸)になっていた。その日は夫の兄夫婦が面会に来てくれていた。


「年を越せるかどうかと思っていましたが、2月の誕生日を迎えてから亡くなりました。最後まで夫は、運転免許の更新に行くつもりでいました。妹は間に合いませんでしたが、せめてお兄さん夫婦には会えて良かったと思いました」


夫は59歳で亡くなった。


■介護は1人で抱え込んではいけない


夫を亡くしたばかりの城崎さんは、グリーフケアをしながら、今日も母親の介護を続けている。


ウエイトトレーニングを続けてきた父親は、2022年1月、78歳の時に散歩中に転倒して頭をパックリ切って帰宅し、妹が病院へ連れて行った。その後、同じ年の夏にも自宅の庭で転倒して頭を切り、城崎さんが救急車を呼んだ。


「父は言うことを聞かないので放置しています。しっかり者の母は段取り良く物事を進めてきた人なので、寝たきりになった今でも、私の家事のやり方にイライラされてケンカになることもあります。しかし、そんなことよりつらいのは、介護で孤独に陥ることでした」


介護のことを人に話したところで「大変だね」「私には無理だわ」と言われる程度で、あまり理解は得られなかった。城崎さんは、自分だけが世の中から取り残されているような気持ちになり、将来が不安だった。


「就職活動をしても、介護でできたブランクを快く思わない企業も少なくありませんでした。母が自分の身の回りのことや簡単な家事ができるようになった頃、私は20代半ばで、『働きたいのに働けない』というジレンマに苦悩し、介護のことを話すと、『施設や病院に入れないの?』と必ず聞かれることもキツかったです」


それでも、母親には「大切に育ててもらったからこそ、今の私がある」と考える城崎さんは、「介護も自分の人生の経験値の一つ」だと思って向き合っている。


「在宅介護は大変ですが、寝たきりであっても、母の表情はかなり変わってきたように感じています。『在宅は難しい』と言われたり、『話せない母とどうやって意思疎通しよう?』と悩んだりすることもありましたが、きっと在宅介護だったから、今の状態にまで回復できたように思います」


とはいえ、城崎さんは家族の中で誰よりも損な役回りを押し付けられている感が否めない。他の家族を恨んだことはないのだろうか。


「もちろん、若い頃は『なんで私ばかりがこんな目に?』と爆発した時期もありました。母のことも、父のことも、妹のことも、母方の親戚のことも、誰も助けてくれないことを恨んだこともありました。でも、『自分が腐らないようにしよう』という意識を強く持ち、『きっといつか抜け出せる時が来る』と信じて、それまでにやりたいことを見つけようと必死でした」


筆者はダブルケアやシングル介護など、これまで100人近い介護をする人に取材をしてきたが、家族や親族の中で、たった1人に介護の負担が集中するのは、身体的にも精神的にもその人の能力が高く、やりこなせてしまうからだと考えられる。


しかし、たった1人に介護の負担が集中するのは、健全な家族とは言い難い。もちろん、本人が心からやりたくてやっているならいいが、孤独感や将来への不安感を抱えながら介護することが、果たして“心からやりたくてやっている”と言えるだろうか。


城崎さんが1人で背負っている荷物を、父親や妹が3等分してくれていたら、孤独感や将来への不安感は軽減していたはずだ。


「もし時間ができたら、自分のためだけに使いたいです。旅行にも行きたいですが、とりあえずゆっくり寝たいです。正直私はもう、母以外の家族はいりません。母のことは最期までみるつもりですが、父は要介護3になったら特養に入れます。夫を亡くしてから、『家族中心』から、『自分中心』の考え方にシフトして行かなければなあと思っています。将来的には本当の意味での『おひとりさま』になりたいです」


20歳の頃から30年以上も家族のために尽くしてきた城崎さん。まだまだ50代前半。そろそろ少しくらい自分勝手に生きても許されるのではないだろうか。


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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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