これまでの「ニセモノ天守」とはまったく違う…2025年GWに行きたい「令和によみがえった“復元”名城」ベスト6
2025年4月26日(土)8時15分 プレジデント社
高松城(玉藻公園)の艮櫓、香川県高松市(写真=663highland/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons)
■史実にかなり忠実な令和の復元城
桜の季節の城もいいが、人でごった返してじっくり鑑賞しにくいというデメリットがある。その点、新緑の季節は気候が心地よく、そのうえ緑が壁面に映えた建造物も、石垣や堀の水も美しい。城めぐりにうってつけの季節を迎えて提案したいのは、近年、それも令和になって復元された建造物がある城の訪問である。
かつて城の復元、または復興は、観光のシンボルにすることを優先するあまり、史実を踏まえず拙速に行われることが多かった。しかし、昨今の復元はいずれも、文献や図面、古写真などを調査および解析し、発掘調査を重ねたうえで、伝統工法をもちいて、可能なかぎり史実に忠実な姿を再現するように試みられている。
また、以前は天守なら天守を建てれば終了という一点豪華主義が主流だったが、昨今はひとつの建造物という「点」ではなく、城郭を「面」で復元および整備しようという動きが主流になっている。そのあたりの事情は拙著『お城の値打ち』(新潮新書)にも詳述したが、私は好ましい傾向だと思っている。
猛暑に見舞われる前に、令和の復元の事例を観察してみてはどうだろうか。木造建築は風雨にさらされ、すぐに古色を帯びてくる。しかし、令和の建築はまだ、白木の生々しさを維持している。かつて築かれたばかりの城は、どんな雰囲気を漂わせていたのか。復元されたばかりの建造物は、そんなことも理解させてくれる。
いずれも甲乙つけがたい価値ある復元だが、あえて順位をつけてみた。
高松城(玉藻公園)の艮櫓、香川県高松市(写真=663highland/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons)
■旧国宝の門を80年ぶりに復元
北面は瀬戸内海に接し、波が石垣を洗う日本最大の海城だった高松城(香川県高松市)。天正15年(1587)に豊臣秀吉から讃岐(香川県)一国をあたえられた生駒親正が築城を開始した。寛永19年(1642)には水戸光圀の兄、松平頼重が入封している。城の前面の海は埋められたものの、いまも堀には海水が引き入れられ、タイやボラが泳ぐ。
そこに令和4年(2022)7月、桜御門が復元された。これを第6位としたい。桜の馬場と三の丸を画する位置に建っていたこの櫓門は、生駒時代の建築とされ、藩主御殿の正門として機能していた。昭和19年(1945)には旧国宝に指定されたが、惜しくも翌年の空襲で焼失してしまった。
2022年に復元された高松城桜御門(写真=Yama0904/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
幅12メートル、高さ9メートルで、外壁に下見板が張られたこの門は、図面は残っていなかったが、戦前まで存在したために明瞭な古写真はあった。それに発掘調査の結果を加えて、外観はかなり正確に復元されている。
■福岡市の本気
福岡藩52万石の居城だった福岡城(福岡市中央区)は黒田長政が、関ケ原合戦の翌年から7年をかけて築いた。最盛期には47もの櫓が建ち並び、壮観を呈していたようだ。しかし、明治以降は陸軍歩兵第24連隊駐屯地が置かれ、建造物は消えていった。それでも明治後半までは、まだ多くの櫓などが残っていたが、明治末年から大正にかけて市内の黒田別邸や寺院などに移築されてしまった。
黒田別邸に移され、そこが空襲を受けても焼け残った櫓が昭和36年(1956)、大手門に相当する下之橋門の脇に移築され、伝潮見櫓とされていた。だが、これは古写真を見るかぎり本丸裏門脇の太鼓櫓で、本物の潮見櫓は明治41年(1908)に市内の崇福寺に移築され、仏殿として使われていた。
長らく「潮見櫓」とされてきた櫓。今回新たに復元された「潮見櫓」とは別のもの。(写真=kamoseiro/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)
福岡市は平成2年(1990)にこの仏殿を買い上げて調査し、潮見櫓であったと確定。2重2階で東と南に付櫓がつくという構造が明らかになった。そして、かつて海を見渡す地にあった元来の石垣を発掘し、石が抜け落ちたところは江戸時代の工法で復元。そこに可能なかぎり古材をもちい、失われた部材には新材を使い、令和7年(2025)3月に復元作業が完成した。これを第5位に挙げる。
日本の城の建造物は、明治に払い下げられ、寺などに現存しているものが少なくない。それらを自治体が買い取って、元来の場所に復元する先例に、この潮見櫓がなるといいのだが。
■徳川御三家の城ならではの威容
水戸城(茨城県水戸市)はいわずと知れた徳川御三家の居城だが、褐色粘土質の関東ローム層におおわれ、石材が採れるのが山間部にかぎられる関東平野の地質的特徴もあり、石垣がもちいられない土造りの城だった。だからといって機能が劣っていたとはいえず、本丸と二の丸、二の丸と三の丸をそれぞれ隔てる大堀切など、いまもその規模に驚かされる。
そして、三の丸と二の丸のあいだの堀切に架けられた橋の二の丸側に、令和2年(2020)2月、大手門が復元された。戦国期の佐竹氏時代の様式を伝える古風な門で、両袖に石垣がないため1階正面に板壁が長く続く。また、発掘調査で土塁とのあいだは瓦と粘土を交互に積んだ練塀で埋められていたことがわかり、それも再現されている。
再建された水戸城大手門。茨城県水戸市三の丸にある(写真=Miyuki Meinaka/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
古風だが御殿風で格調高く、袖石垣がない櫓門としては最大級で、門の前の大堀切と相まって土の城の威容が伝わる。第4位としよう。
令和3年(2021)には二の丸南西角に、水戸駅前から眺められる二重の角櫓も、天保年間(1831〜45年)の姿で復元された。北側と東側に多門櫓を従え、白漆喰で塗籠られているが、一重目の下部には下見板が張られている。また、多門に接続して北側と東側に再現された土塀は屏風折れを繰り返し、高い土塁のうえに堅固な防御線が敷かれていたのがわかる。
■日本の城の中でも屈指の存在感を放つ門
加賀藩前田家100万石の居城だった金沢城(石川県金沢市)は、天守は関ケ原合戦から間もなく焼失し、その後、天守代用とされた三階櫓も宝暦9年(1759)に焼失後は再建されなかった。とはいえ、その規模も、この城独自の様式で統一された建造物群も、100万石にふさわしいものだった。
城址は戦後、金沢大学のキャンパスになっていたが、平成7年(1995)に大学が移転後は、地道な発掘調査を重ねながら、石垣や堀、建造物の復元整備事業が進められてきた。菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓、橋爪門一の門、同二の門、河北門と復元が進み、令和2年(2020)7月には鼠多門の復元が完成した。これを第3位とする。
夜の金沢城(写真=くろふね/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)
鼠多門は高さ約3メートルの門扉上に高さ約9メートル、幅約22メートルの二重の多門櫓が載る櫓門だ。鉛瓦が葺かれ、平瓦を張った海鼠壁が採用されている点は、金沢城のほかの建造物と意匠が共通するが、一部はこの櫓門だけが異彩を放っている。
海鼠壁の平瓦の継ぎ目にナマコ状に盛り付けてある漆喰が、この櫓だけは白でなく黒色で、また、ほかの櫓や門は隅部に筋鉄が打たれているが、ここには打たれていない。金沢城内ではもちろん、ほかの城の建造物とくらべても、圧倒的な存在感を放っている。門に架かる橋も同時に復元された。耐久性を考えて骨組みに鋼材をもちいつつ、能登産のヒバで木装されている。
■国内最大級の城門の存在感
関ケ原合戦後、島津家久が築城を開始した鹿児島城(鹿児島県鹿児島市)。天守も重層櫓もなく、また高石垣はなくて水堀も狭く、77万石の大大名の居城にしては防備が手薄だった。ただ、江戸時代も薩摩藩だけは各地に武士団が集住する制度が維持され、本城の鹿児島城だけを鉄壁の要害にする必要はなかった、という事情もあっただろう。とはいえ、本丸の正門にあたる御楼門は、櫓門として全国最大級の規模を誇った。
明治6年(1873)12月の火災で焼失した御楼門が復元されたのは、令和2年(2020)3月のこと。平成27年(2015)に官民一体の建設協議会が設立され、発掘調査および古写真の解析等を通じて、文化7年(1810)に板橋から架け替えられて現存する石橋の前に、伝統工法により史実に忠実に復元された。
筆者提供
鹿児島城 - 筆者提供
正面右側に番所が突き出す珍しい形式で、2階には平瓦を張り付けた海鼠壁が採用されている。天守や重層櫓がない分、高さ20メートル、幅も20メートルの巨大な門が、鹿児島城のシンボルとして機能していたのだろう。実際、門の前に建つと、それだけの存在感がある。スケールも評価して第2位とする。
■往時の姿を取り戻しつつある山陰の名城
鳥取城(鳥取県鳥取市)というと、羽柴秀吉による兵糧攻めの印象が強いが、現在の鳥取城は関ケ原合戦後に入封した池田輝政の弟の長吉が、城の中心を山麓に移して大改修したものだ。明治になって建造物は取り壊されたが、昭和30〜40年代という比較的早い時期から、石垣の復元や修復が重ねられてきた。
平成28年(2016)には大手登城路を幕末の姿に蘇らせるための復元工事がはじまった。まず平成30年(2018)9月、内堀に架かる大手の橋だった擬宝珠橋が完成。これは復元された木橋としては日本最長だという。続いて、大手門にあたる中ノ御門の復元工事が開始され、令和3年(2021)春には、明治8年(1875)に解体された表門が完成した。
写真=共同通信社
復元された擬宝珠橋で演武を披露する備州岡山城鉄砲隊=2018年10月8日、鳥取市 - 写真=共同通信社
形式は高麗門だが、枡形虎口の幅いっぱいに構えられ、左右の土塀が門の屋根の高さまで立ち上がった、ユニークな形態をしている。
続いて令和7年(2025)3月には、中ノ御門の枡形を構成するもうひとつの門で、表門と同時に取り壊された渡櫓門が完成した。幅10.6メートル、高さ9.2メートルで、外観は城漆喰の総塗籠。
擬宝珠橋もふくめ、中の門全体の手の込んだ復元ということで第1位にしたい。鳥取城は今後も、大手登城路の太鼓御門、および城のシンボルだった二の丸三階櫓も復元する予定で、幕末の威容が蘇るのを待つ楽しみがある。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)