愛子さまの結婚が日本の皇室の運命を握っている…専門家が断言「女性宮家創設案に必ず入れるべき規定」
2025年4月29日(火)10時15分 プレジデント社
春の園遊会に出席された天皇、皇后両陛下の長女愛子さま(=2025年4月22日、東京・元赤坂の赤坂御苑[代表撮影]) - 写真=時事通信フォト
※本稿は、島田裕巳『日本人にとって皇室とは何か』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■約70年にわたり摂政となった古代女帝
日本の歴史のなかで、女性が摂政(せっしょう)になった例が1つだけある。第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の皇后である神功(じんぐう)皇后が天皇亡き後、およそ70年間にわたって摂政になったとされている。
神功皇后元年は201年という説があるが、この時代の天皇や皇族となると、実在したかどうかも定かではないし、本書の第一章で述べたように神功皇后は、大正時代までは第15代の天皇とみなされていた。女性が摂政になるのは希有なことでもあるが、天皇不在で男性皇族がいなければ、女性皇族が摂政となり国事行為を果たすしかないのである。
こうしたことを踏まえると、皇位継承の安定化ということでは、男性皇族の確保も重要だが、女性皇族の確保もそれに負けず劣らず重要だということがわかる。
現在女性皇族は11人である。ごく最近まで12人だったが、三笠宮百合子妃が101歳で亡くなったことで、また減った。天皇家には上皇后を含めて雅子皇后と愛子内親王の3人、秋篠宮家に紀子皇嗣(こうし)妃と佳子内親王の2人、常陸宮家に華子妃の1人、三笠宮家に信子妃や彬子・瑶子女王の3人、高円宮家に久子妃と承子女王の2人である。
写真=時事通信フォト
春の園遊会に出席された天皇、皇后両陛下の長女愛子さま(=2025年4月22日、東京・元赤坂の赤坂御苑[代表撮影]) - 写真=時事通信フォト
■旧宮家の男性を養子にする案も難しい
そのうち、独身女性は内親王と女王の5人である。独身の女性皇族は、結婚すれば皇室から離れていく。既婚の女性皇族でもっとも若いのが紀子皇嗣妃で58歳である。最年長は、上皇后の90歳である。これに男性皇族を加えても14人である。天皇と上皇を皇族に含めない場合を除いたとしても、皇室の構成員は16人しかいない。
独身の女性皇族が子どもをもうけるとしたら、結婚して皇室を離れたときである。となると、将来において新たな皇族を生む可能性があるのは、悠仁親王だけということになる。こうしたところから、独身の女性皇族が結婚した後も皇室に残る「女性宮家」の創設が案として浮上してくるわけである。
皇位継承の安定化の議論において、他に出ているのが旧宮家の男性を現在の皇族の養子にするというものである。
旧宮家とは、戦後に日本国憲法と新しい皇室典範が制定された後、皇籍を離脱した11の家のことを指す。ただ、すでに断絶している家が5つあり、もう1つの家も断絶が見込まれている。したがって、該当する旧宮家は5つの家に限定される。しかも、皇籍を離脱してからすでに77年を超える月日が経過している。たとえ養子の道が開かれたとしても、そうした家から皇族の養子になる男性が現れる可能性はほとんど考えられないのではないだろうか。したがって、国会でもその方向は十分に模索されていない。
■「女性宮家」創設にも盲点がある
もちろん、女性宮家が創設されたからといって、安定的な皇位継承が保障されるわけではない。それに、女性皇族と結婚した配偶者や子どもを皇族とするかどうかには、本書でふれたように議論がある。
女性宮家において、配偶者や子どもが皇族にならないのであれば、皇族の数が増えることはない。ただ、数が減らないというだけである。公務はそれで果たせるかもしれないが、皇族が増えない以上、皇位の安定的継承にはまったく結びつかない。皇室をめぐる危機は相当に深刻なのである。
では、女性天皇、女系天皇が実現したとしたらどうなるのだろうか。
愛子内親王が次の天皇に即位できるとする。問題は、その時点で結婚しているかどうかである。結婚していても、女性宮家が創設されていなければすでに民間人になっているわけで、天皇に即位することは難しい。
女性宮家が創設された上で結婚したとしたら、やはり配偶者や子どもを皇族とするかどうかが問題になる。しないということになると、皇族の数は増えないし、何より女系で継承するには、子どもが皇族になっていなければならない。
その点では、女性宮家を創設する際に、少なくとも子どもは皇族とする規定を設けておく必要がある。そうしないと、女性天皇が実現し、女系で皇位を継承しようとしても、それができなくなる。それは本書の第7章でふれた、古代の律令の規定を現代にも適用するということである。
■皇位継承を難しくさせたイデオロギー
男系男子による継承だけではなく、女系女子による継承にまで幅を広げれば、天皇や皇室が存続する可能性は高くなる。ただ、こうした方策については、保守派と言われる人々が強く反対してきた。第6章で述べた「皇統を守る国民連合の会」などがその代表である。
しかし結局のところ、男系男子での継承にこだわるこうした保守派の主張が、天皇や皇室の存続を危うくしてきたのではないだろうか。
それには、これまでの歴史が深くかかわっている。とくに日本の近代社会は、天皇という存在を国家の根幹と位置づけながら、万世一系というイデオロギーを強く打ち出したがゆえに、皇位継承をどんどんと難しいものにしてきたのである。
大日本帝国憲法において、第1条では「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と、天皇は統治者と位置づけられた。第3条では「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と、その神聖性が強調されていた。第4条においては「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と、天皇は明確に元首とされていた。
ただし、天皇の統治権は、憲法の条文によるとされており、そこには一定の制限が加えられていた。それがより明確なのは第5条で、「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」と、天皇の立法権が議会との協賛の上に行われるものであることが定められていた。
大日本帝国憲法(明治22年2月11日)(画像=国立公文書館デジタルアーカイブ/PD-Japan-exempt/Wikimedia Commons)
■伊藤博文が強調した皇室の神聖性
大日本帝国憲法で、冒頭に天皇のことが規定され、その神聖性が強調されたのは、憲法を制定する作業に携わり、ヨーロッパにまで出向いて、その地の憲法について研究した伊藤博文の考えがあったからである。
憲法の草案が確定されると、1888(明治21)年4月27日、天皇に伊藤からそれが捧呈(ほうてい)された。草案は、まず枢密院で審議されるが、同年6月18日に最初の会議がもたれるにあたって、伊藤は憲法起草の大意について説明を行っている。
その際に伊藤は、「欧州ニ於テハ(略)宗教ナル者アリテ之カ機軸ヲ為シ」ているのに対して、「我国ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ、一モ国家ノ機軸タルヘキモノナシ」と述べ、「我国ニ在テ機軸トスヘキハ、独リ皇室アルノミ」と、欧米の宗教、つまりはキリスト教に匹敵する皇室の意義を強調していた。このことが実際の憲法に盛り込まれたのである。
伊藤博文(画像=『歴代首相等写真』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
その際に重要なのは、明治に時代が変わった翌1869年に、華族の制度が誕生していたことである。
明治より前には、京都の朝廷には「公卿(くぎょう)」、あるいは「公家(くげ)」と呼ばれる特権階級がいて、政務に当たっていた。一方、徳川政権は各地に所領を持つ大名を擁していた。明治時代になると、かつての大名は「諸候(しょこう)」と呼ばれるようになる。
■華族が「皇室の藩屏」と呼ばれたワケ
華族は、公卿と諸候からなるもので、その数は制度が発足した時点で427家に及んだ。
その後、各地の重要な神社の神職、皇族や公卿のうち藤原氏嫡流(ちゃくりゅう)の五摂家(ごせっけ)と姻戚関係を持つ真宗(浄土真宗)各派の法主、宗主、管長、さらには公家出身で奈良の興福寺の塔頭の住職をしていて明治に入って還俗した者、あるいは南朝の末裔(まつえい)、各藩の下級武士ではあったものの明治維新で勲功のあった者、琉球王家などが華族に加えられ、その数は増えていった。
島田裕巳『日本人にとって皇室とは何か』(プレジデント社)
華族には、家憲や世襲財産の制定、貴族院議員になることなどの特権が与えられたが、そのなかには、皇族・王公族との通婚ということが含まれていた。
これは、江戸時代までの伝統を引き継ぐもので、天皇の正式な配偶者である中宮や皇后になることができたのは、皇族を除くと五摂家出身の女性だけだった。これは、天皇家の側からすれば、皇后などの供給源が確保されていることを意味した。
華族は、そうした役割を果たすことから「皇室の藩屏(はんぺい)」と呼ばれた。天皇に多くの側室がいるのは当たり前のことだったが、側室になった女性たちも、公卿や華族の家の出身者だった。側室の供給という面でも、華族は重要な役割を果たしたのである。
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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家
放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。
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(宗教学者、作家 島田 裕巳)