NHK大河「べらぼう」はこの大転落をどう描くのか…政権トップの座から地位も財産も愛息も失う田沼意次の失意

2025年5月4日(日)9時15分 プレジデント社

2019年4月7日、イギリス・ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催された「オリヴィエ賞2019 with MasterCard」に出席した渡辺謙 - 写真提供=© Fred Duval/SOPA Images via ZUMA Press Wire/共同通信イメージズ

江戸時代後期の老中、田沼意次とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「斬新な経済政策を矢継ぎ早に打ち出す有能な人物だったが、10代将軍家治が亡くなってすぐに、すべての権限を取り上げられてしまった」という——。
写真提供=© Fred Duval/SOPA Images via ZUMA Press Wire/共同通信イメージズ
2019年4月7日、イギリス・ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催された「オリヴィエ賞2019 with MasterCard」に出席した渡辺謙 - 写真提供=© Fred Duval/SOPA Images via ZUMA Press Wire/共同通信イメージズ

■平賀源内、次期将軍、老中筆頭…不審死の黒幕


田沼意次(渡辺謙)は大丈夫なのか、ここで蹴落とされてしまうのか、と感じた視聴者も少なくなかったのではないだろうか。ここ2回ほどの、NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の展開を受けての話である。


まず、第15回「死を呼ぶ手袋」(4月13日放送)では、10代将軍徳川家治(眞島秀和)の嫡男で次期将軍に内定していた家基(奥智哉)が、鷹狩の最中に倒れて急死し、意次が毒を盛ったのではないか、という噂が蔓延した。しかし、意次の「天敵」だった老中筆頭の松平武元は、幸いにも意次を疑っておらず、2人して真犯人を探そう、という話になった矢先に、今度は武元が毒殺されてしまった。


「べらぼう」では、これらの「事件」の背後には、一橋治済(はるさだ)(生田斗真)がいて、すべてはこの人物の陰謀であることが仄めかされた。


そして、陰謀の流れは第16回「さらば源内、見立は蓬莱」(4月20日放送)にもおよんだ。意次に頼まれて家基の「毒殺」の真相をつかんだ平賀源内(安田顕)も、人殺しの罪を着せられて投獄された挙句、獄死してしまった。やはり背後で一橋治済が、将軍の継嗣暗殺の証拠隠滅のために暗躍し、源内を消したという描き方だった。


■田沼意次の全盛期はこれから


家基は本当に毒殺されたのか。一橋治済は本当に家基をはじめとする人たちの死の黒幕なのか。それはわからないし、そのことを証明する史料はない。「べらぼう」で描かれたミステリーは脚本家の創作である。ただ、この一連の死の結果、事態は治済にとって望ましい方向に進んだことだけは間違いない。


そうであるならやはり、意次は大丈夫か、と思えてくる。だが、結論を先にいえば、この時点では意次はなんら責めを負うことはなく、むしろ、ここから先に全盛期を迎える。しかし、しばらく先に訪れる悲劇まで見通すと、結局は意次も、治済の手のひらで踊らされていたにすぎなかった、と思えてくるのである。


じつは、かなり早い時期から、意次と治済は浅からぬ関係にあった。意次の弟の意誠(おきのぶ)は早い時期から一橋家に仕え、意次が大名に取り立てられた翌年の宝暦9年(1759)には家老に昇進。意次が老中になった翌年の安永2年(1774)に死去したが、その子意致(おきむね)は家基が死んだ安永8年(1779)、父と同じく一橋家家老に抜擢された。


■8代将軍吉宗が残したこと


ここで一橋家についても、簡単に説明しておいたほうがいいかもしれない。8代将軍吉宗は将軍家の血筋が維持されるように、御三家に加えて、自分の血を引く3家をもうけた。これは御三卿と呼ばれ、吉宗の三男の宗武にはじまる田安徳川家、同じく四男の宗尹(むねただ)にはじまる一橋徳川家、吉宗の長男で9代将軍家重の次男、重好(しげよし)にはじまる清水徳川家が該当した。


3家は独立した大名ではなく、領地や家臣団はもたなかったが、将軍の親族として高い地位にあった。ただし、御三家をはじめ他家にも養子を提供し、養子先の相続を求められたときは、自家を継ぐことよりも養子先を継ぐことが優先された。


『大日本人名辞典 訂正増補版』(経済雑誌社)をもとに作成

■次期将軍を巡るドロドロ


意次と治済の話に戻る。田安宗武の息子で聡明なことで知られた賢丸(のちの松平定信)に、奥州白河藩への養子話が持ち上がると、治済は将軍家治に働きかけ、さらに意次の協力も仰いで、それを実現すべく執拗に動いた。賢丸が養子になることが決まってから、家督を継いでいた兄の治察(はるあき)が死去したが、決定は覆らなかった。


こうして治済は、将軍職を継ぐうえで、一橋家の強力なライバルとなる田安家を事実上廃除し、それに意次が加担した、ということができる。


続いて、家基が急死してから2年後のこと。将軍家治は継嗣をあらたに選定する必要に迫られ、だれを選ぶか意次にまかせた。そこで治済はふたたび意次の力を借りて、嫡男の豊千代(のちの11代将軍家斉)を将軍の継嗣にすることに成功している。


このようにたびたび力を貸してもらった以上、治済も田沼家に報いる必要があったのだろう。天明元年(1781)閏5月、豊千代が家治の継嗣として江戸城西の丸に入城。年末には名を家斉とあらためると、前述のように一橋家の家老になっていた意次の甥の意致は、次期将軍の御側御用取次見習に抜擢される。さらに、翌天明2年4月には、「見習」が取れて正式な御側御用取次になった。これは家斉が将軍になったとき、側近の筆頭になることを意味した。


おそらく意次も一橋治済のことを、尊重すべき、それどころか、恩を売っておかなければまずい存在として認識していたのだろう。だが、治済にとっては、意次は追い落とせるものなら追い落としたい存在だったのだと思われる。その理由は後述する。


■息子の突然の死


地位が引き上げられたのは甥だけではない。意次の嫡男、意知(おきとも)も順調に出世した。まだ家督も継いでいないというのに、豊千代が将軍継嗣になった天明元年12月、江戸城内で武家の典礼が円滑に進むように務める奏者番(そうじゃばん)に抜擢された。


これは優秀な若手が経験する役で、その翌々年の天明3年(1783)11月には、早くも老中に次ぐ要職である若年寄になった。さらには父とともに江戸城本丸御殿の、将軍が起居し日常の政務を執る中奥への出入りを許された。事実上の側用人で、田沼父子がそろって側用人を務めるという異例の状況になったのである。


しかし、意次の権勢も、父子で要職を占めていることも、周囲の怨嗟の声を呼んだ。天明4年(1784)3月24日、若年寄になって4カ月ほどの意知は江戸城内で、将軍の身辺警護を務める武士の一人、佐野善左衛門に斬りかかられ、逃げたものの再度斬られ、2日後の死去してしまった。


それでも翌天明5年、意次には1万石が加増され、5万7000石の大名になったが、そうやって最後まで意次を厚遇した将軍家治が死去すると、途端に意次は老中を罷免されてしまう。


■誰が老中を罷免したのか


徳川家の公式記録『徳川実記』では、家治が死去したのは天明6年(1786)9月7日とされているが、将軍の死はしばらく臥せられることが多い。意次は家治が危篤と聞いて8月26日に駆けつけるが、入室を阻まれたうえ、老中に引退願を書かされ、翌27日に罷免になっている。


これを家治に拒まれたと解釈する向きもあるが、家治がそれまで熱く信頼していた意次を急に疎んじる理由がない。じつは、この時点ではすでに家治は死んでいて、家治を囲んでいた御三家および御三卿が意次を廃除し、罷免したのだとみる研究者は多い。


その際に主導権を発揮したのが、次期将軍の父として、御三家御三卿のなかで強い力を誇っていた一橋治済であったことはいうまでもない。


徳川治済の肖像(写真=『改訂版 一橋徳川家名品図録』、茨城県立歴史館、2011/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

たしかに、治済は田沼家の者を重臣としてかかえ、自分が権勢をふるえる政治的状況をつくり出すために、意次の力を借りてきた。しかし、利用できる部分は利用するにせよ、邪魔な存在であるには違いなかった。


■所領も財産もすべて奪われた


家治は御三卿にあまりよい感情をもっていなかったと思われる。将軍吉宗の後継には、長男の家重ではなく、聡明な次男の(田安)宗武を選ぶべきだという声は強く、吉宗も迷ったといわれる。結局、吉宗は長幼の序を重んじて長男の家重を選んだが、その後も老中の松平乗邑(のりさと)は、家重を廃嫡して宗武を次期将軍にすべきだと主張したという。


それを知っていればこそ、家重の息子の家治は、宗武の息子の賢丸(松平定信)を白河に出し、意次もそれに賛成したのではないだろうか。そうだとすれば家治や意次は、一橋家に対しても警戒感をいだいていた可能性がある(実際、家重に替えて宗武を吉宗の継嗣にしようという動きを受け、宗武が登城禁止処分を受けた際には、宗尹も同罪とみなされた)。


また、家治の嫡男の家基が急死したため、治済は嫡男の家斉を家治の継嗣にすることに成功したが、とはいえ、家治もまだ50歳未満であり、いまからでも男子が生まれれば、家斉は廃嫡されただろう。


そういう点で、家治は治済にとって「邪魔」な存在であり、家治から一心同体のごとき信頼を得ている意次も、同様に「邪魔」だったに違いない。


そんな家治が死んでくれた。となれば、家治のもとで権勢をふるって妬まれていた意次を追い落とすのは簡単である。老中職を解かれたのち、同年閏10月には家治によって加増された2万石と江戸の上屋敷、大坂の蔵屋敷を没収され、翌天明7年(1787)には蟄居を命じられたうえ、残りの所領も召し上げられた。


その後、治済は14歳で将軍になった家斉の実父として、事実上の大御所となり、思いのままに国政を牛耳った。


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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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