指示待ち国民はなぜ生まれるのか?

5月8日(水)6時0分 JBpress

国民が、地域や自治に能動的に関わるようになるには、何が必要か。

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(篠原 信:農業研究者)

 4月の統一地方選では、全41道府県の道府県議選で計612人の無投票当選が決まったという。無投票で決まった議員の数は、総定数の26.9%にも上り、4人に1人が、選挙もなしに議員になったことになる。投票率も過去最低で、市長選では47.50%だったという。このため、「民主主義の危機」という記事も出るほどだった。

「民主主義の危機」といえば、2005年にスウェーデンに行ったとき、「前の国政選挙で投票率が90%を割り、民主主義の危機だとずいぶん心配された」という話を聞いたのを思い出した。日本では、2017(平成29)年10月の衆議院議員選挙で53.68%だったから・・・うん、危機が底割れしたら、なんと呼べばよいのだろう?


「自己効力感」が愛着を生む

 私は4年前に、「『指示待ち人間』はなぜ生まれるのか?」という一文をtogetterに投稿したことがある。当時、多くの企業で若者が指示待ち人間で困るという声が高まっていた。経営者の中には、「自分の頭で考えられる人間なんて、一握りなんだよ。ほとんどの人間は自分で考える能力なんてないんだよ」と、ちょっと自暴自棄な悲鳴を上げていた人もいた。

 そんな中、子育ての悩み相談をきっかけに、まとめてみたものが上記の一文だ。多くの人の琴線に触れたらしく、現在、56万件を超える閲覧数となっている。

 それを読めばお分かり頂けるように、「指示待ち人間」になってしまうのは、「自己効力感」を失うからだ。自己効力感とは、自分が関わることで何らかの変化を与えることができた、という「能動感」のことだ。ところが上司があれこれ指示を出してしまうと、指示以外のことをしたときに叱られるものだから、考えることが面倒くさくなって、次第に考えなくなり、指示待ちの姿勢になる。

 しかしこれとは逆に、上司が部下の意見を引き出し、「お! いいね! それ、やってみなよ!」と言ってもらえると、考えることも楽しくなる。自分で考え、自分の手でやり遂げたことは、愛着が湧く。

 たとえば日曜大工の教室で、もし講師が「あ、ここはね、こうした方がいいよ」と先生が作ってしまったら、そのイスに愛着を持つことは難しい。「どうだ、俺の腕前、大したものだろう」と自慢された日には、「講師のクセにセンスがないな」と、あれこれケチをつけたくなる一品となるだろう。

 けれど、講師が手を出さず、ただ見守って、肝心なときにだけそっとアドバイスを添えるけれど、工作はすべて自分自身でやり遂げた一品は、たとえ歪んでいても、愛着の湧く一品となる。釘の打ちそこないもご愛嬌。なぜか。「自己効力感」があるからだ。


自己効力感を失った公的サービス

 そう考えると、今の日本の政治で、国民が「自己効力感」を感じられるだろうか? ほぼ皆無ではないか。日本人が政治に関われるのは、紙に候補者の名前を書くときだけ。一年365日、自分の住む地域で起きていることに能動的に関わり、変化を与えられる機会はほとんどない。

 原因のひとつには、多くの人が「勤め人」になっていることもあるだろう。昔は自営業が多く、地域には小さな店舗がたくさんあって、地域経済と自分の商売は、密接に関係していた。地域そのものが「経済的かたまり」のひとつだった。

 しかし大型店舗の登場で、小さな自営業はどんどん店じまいし、若者が選ぶ仕事は自営業ではなく、どこかの会社への就職。そうなると、「経済的かたまり」は、バラバラに存在する会社だけになり、地域は「経済的かたまり」としては解体されてしまった。

 勤め人は通勤だけでも時間がかかるし、単身赴任もするし、転勤で引越したり。地域は居住空間でしかなくなり、「経済的かたまり」ではなくなった。

 忙しい勤め人に「迷惑をかけない」ようにするためには、政治も役所も、「選挙のとき以外はお手を煩わせないように」という配慮がなされるようになった。昔だったら、道路でネコの死体があったら、地域の人が対応していただろう。今は何kmも離れた場所の役所の人がわざわざ足を運んで、処理している。みんな勤めに出てしまって、地域に人がいないのだから、公務員が全部対応してしまう。

 かくして、多くの国民が何もしなくても、地域の行政が回る仕組みが出来上がっていった。これはこれで、素晴らしいことだ。自分自身でやらなくても、行政がみんなやってくれるのだから。

 だが、この状態では自己効力感を持ちようがない。能動的に働きかけて、住んでいる町に関わることができないのだから。能動感、自己効力感がなければ、「指示待ち人間」と同様、考えるのが面倒くさくなる。人間は、自分が能動的に関われないものには、興味を失うようにできているようだ。

 日本の公的サービスは、国民からのありとあらゆるクレームに対応できるように練られている。逆に言えば、何を言ってもルールどおりにしかことが進まないので、自己効力感を得にくい。国民が政治に関心を持てなくなっているのは、能動的に関わり、何かしらの変化を与えることができる機会を奪われているためではないか。逆に言えば、自己効力感が得られるような社会システムに変えれば、国民は俄然、関心を持つようになるのではないだろうか。

 実は、公務員の人たちが、かなり疲弊し始めている。「市民が自分でやってくれたら助かるんだけど。僕らが出動すると何kmも移動が必要で、人件費がバカにならないし、その負担は結局、市民が負担することになるんだよ。もう少し、自治の力を取り戻してくれたらなあ」という嘆きの声を、何度も聞いたことがある。

 で、住民に任せようとしたところ、「それくらいお前らでやれ! 税金でメシ食ってるんだろ!」と叱られたという。「そりゃその通りだからやりますよ。でも少子高齢化で人が減り、公務員も手が回らなくなり始めている。住民の手でやってくれれば大幅にコスト削減、公務員がやるとみんな税負担。どうしたらよいのだろう?」と悩んでいる人の話も聞いた。

 これから、少子高齢化が進行すると、公的サービスを続けたくても続けられない場面が多々現れてくるだろう。そのとき、公務員や政治家に「なんとかしろ!」といっても、その元手となる税金が乏しくなれば、賄いようがなくなる。いよいよ、もう一度自治を取り戻す必要性に迫られているように思う。


自治を取り戻すための2つの方法

 これから申し上げることは、私の思いつき、あくまで「仮説」でしかないが、こうすればよいのではないかということを2つ申し上げたい。

 1つは「能動感、自己効力感を持てる機会を設ける」ことだ。

 地域説明会というものが時折行われるけれども、これらは大概、役所の方で練られた案を説明するだけの「行事」でしかないことが多い。一応説明したよ、話も聞いたよ、というアリバイ作り、ガス抜きでしかないことが多い。これでは自己効力感を持ちようがない。

 そこで、「説明会」ではなく「築論会」を開催してはどうだろう。公務員の方々は「ファシリテーター」となり、あらかじめ案を用意しない。すごく粗い参考案は作ってもよいけれど、築論会に参加した住民の意見が反映される「隙」をたくさん残しておく。ファシリテーターである公務員は、「この素案では、こうした問題が考えられます。どういった改善をすればよいでしょうか?」と問いかけて、あくまで意見は住民から出してもらうようにする。人間、同じ情報が与えられれば、そうそう意見は違わないものだ。情報提供がしっかりしていれば、妥当な意見が出てくるだろう。それは恐らく、公務員の側で考えても同じ答えになるものだ。そこで「なるほど」と肯定的な反応をする。すると市民は自己効力感が得られる。

 公務員があらかじめ全部考えてしまうのと、住民が考え、提案するのとでは、「自己効力感」に大きな違いがある。

 たとえば上司が指示を出してしまったら、部下が実行部隊なのに上司の手柄になってしまうから部下は面白くない。上司はなるべく意見を言わず、部下から意見を引き出したら、その案は部下の手柄になる。部下はますます仕事が楽しくなる。自己効力感があるからだ。

 これと同じように、役所が何もかも先回りして考えてしまうのではなく、あくまで公務員や役所は、住民の意見を促すファシリテーターとなって、住民自身に考えてもらい、住民に自己効力感を感じてもらいやすい形にしてはどうだろう。こうすれば、住民自身が町をよくしていく自己効力感が得られ、愛着のある町になるだろう。

 もう1つは「驚く」ことだ。これは拙著『自分の頭で考えて動く部下の育て方』でも指摘したことだが、人間は、誰かを驚かせるのが大好きな生き物だ。赤ん坊が初めて言葉を話したとき、初めて立ったとき、初めて歩いたとき、両手を叩いて喜び、驚いてくれた原体験があるためだろう。相手がポジティブな意味で驚いてくれると、もっと驚かせてやろう、とほくそ笑む。そして、ますます能動的に活動しようとするものだ。

 私たち住民同士で、あるいは公務員と住民の間で、「え! それやってくれたの! 助かる〜! ありがとう!」と、喜び、驚くと、確実な自己効力感が得られる。次はもっと驚かせよう、喜ばせよう、となるものだ。

 町の美化とか、福祉とか、いろんな活動がある。それを「当たり前」に考えてしまうと、それを担当している人は楽しくなくなる。義務になってしまい、お金でももらわないとやっていられなくなる。

 本来、人のための行動をとるというのは、「有り難い」ことではないだろうか。だから「ありがとう」というのだろう。だから当たり前と考えず、驚き、「ありがとう」と言い合う関係を取り戻したい。そうした社会になれば、社会に関わることに積極的な意味が生まれ、自己効力感を得やすくなる。市民一人ひとりが、社会に関わることの喜びを得やすくなる。


「指示待ち国民」から脱却へ

 日本では、政治家や役所のことを「お上」と呼ぶことがある。封建制度が長く続いたアジアらしい発想だ。だが、昔と違い、日本の国民は認識が高まっている。技術も知識も高い。公務員や政治家が飛び抜けて優秀な人間というわけではないことも知っている。人間としては対等だ、ということが分かってきている。

 ならば、冒頭の「民主主義の危機」という言葉とは裏腹に、本当の民主主義を始める素地がいよいよ整ったという前向きな考え方もできるのではないか。私たち自身の手で町が、国が、よくなっていくという自己効力感が得られれば、驚くほど猛スピードで様相が変わるように思う。

 最後にスウェーデンの話を少し。「私たちは自国独自の通貨をやめてユーロを導入するか、大いに迷い、だからこそ議論に議論を重ねた。その上で、私たちは決めたのだ」という言葉を、政治家でも官僚でもない、普通の「おばちゃん」が話したことに、私は衝撃を受けた。スウェーデンでは、国の方針を決めるのにも、一人ひとりの国民が自己効力感を持つことができていたということだ。

 日本では、国どころか地方の決めごとでも、政治家や公務員が勝手に決めたという感覚が普通だ。あらかじめ先回りして考えてしまうからだ。

 先回りして考えるのをやめ、国民に、住民に問いかけ、意見を促すようにしてはどうだろう。そうすれば、「指示待ち国民」化した日本は、急速に、劇的に変わるように思うのだが、いかがだろうか。自己効力感を持つ国民が多ければ多いほど、その国は活気にあふれることだろう。

筆者:篠原 信

JBpress

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