“伝説のランパブ”を創業した女性がふりかえる「下着で接客する店」が爆発的に流行った“低い天井”の秘密とは
2025年5月9日(金)18時0分 文春オンライン
1990年代から夜の街で一大ブームとなったランジェリーパブ、通称・ランパブ。かつて東京都江戸川区西葛西に「伝説のランパブ」と呼ばれた人気店があった。その人気店「ZERO」グループの創業者で、「大ママ」と呼ばれ慕われていたきいこさんに、波乱万丈の人生について聞いた。
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結婚して一度は足を洗ったけれど、40歳で再び水商売を始める決意
きいこさんは鹿児島県生まれ。18歳の時に集団就職で名古屋に出てきた後、大学生だった兄を頼って東京に移り住んだ。そこで夜の仕事に初めて触れたという。
「東京に移り住んだ時は生活が苦しくて、知り合いから誘われたサウナとかのマッサージコンパニオンで働きました。風俗ではないですが限りなくグレーゾーンのお仕事でした。女の子は全部で50人くらいいたんですが、他の子はみんなお金持ちやほかのお店から声がかかって、美人の先輩がマンションを買ってもらったなんて話も聞きました。ところが地方から出てきたばかりの私には一切声がかからない。
もっと良い条件の仕事はないか探すため、寮から仕事先に行く通りに、キャバレー王で有名だった福富太郎さんのお店のスカウトがいると聞いて何度もウロウロしたんですが、やっぱり声をかけてもらえませんでした」

その後、会社受付嬢の仕事をしている中で知り合った会社員の男性と結婚し、3人の子供をもうける。それからは、千葉県に移って主婦をしながら英語学習塾を3軒経営するなどそれなりに裕福な生活だった、しかし40歳になるタイミングで水商売を始める決心をする。
「なぜ水商売だったかと言われれば、やってみたかったからと言うしかないですね。今思えば、若い頃に福富太郎さんのスカウトに声をかけてもらえなかったリベンジみたいな気持ちもあったかもしれません」
江戸川区のスナックが大盛況、店舗を増やしランパブ経営へ
最初の店を出したのは今から31年前のこと。江戸川区船堀にある空き店舗を紹介してもらい、前の店の看板をそのままに小さなスナック「CM」を開いた。
「12坪の広さで20人も入れば満員の店ですが、設備やお酒も居抜きでそのまま残っていたし、なによりオーナーからは『カラオケ代として月に10万円も渡してくれればいいから』と言われ、格安の条件だと感じたので即決しました」
看板を変える資金も惜しかったので、店名も前の店のまま使うことにした。知り合いの寿司屋の大将に「1日10万円の売り上げを目標にしなさい」と言われ、1993年にそれを目指してスタートした 。
ほどなくしてきいこさんの接客は人気になり、その日に来たお客が10人だったら、1人1万円で一晩中飲み放題、20人だったら5000円で飲み放題という来客数に反比例したセット料金が人気を博し、ついにはトイレに行くのも肩がぶつかるくらいの客が毎晩やってくる大盛況となる。
オープンして半年も経たないうちに、同じビルの上のフロアを借りないかという話が持ち上がり、1年後にはさらにその上階の店舗も借りて新しい店を始めることになった。この3軒目の店が、きいこさんの手がける初のランパブ店になる。
「ランパブ? 何それ」「パンティとブラジャーで接客するお店ですよ」
「2階の店は1階と同じようなスナックで『CM2』という名前でした。次に3階で『CM3』をやろうかっていう話になったちょうどその頃、20歳のナルミちゃんっていう子が紹介で働きに来たんです。その子に『あなた、ここに来る前はどんなお店で働いてたの?』って聞くと、『ランパブにいました』って言う。『何、それ?』『パンティとブラジャーで接客するお店ですよ』と、初めてランパブっていう形態があることを知りました。
それでピンときて、『そうなんだ。じゃあアナタ、私がこのビルにお店を借りたら、他に働いてくれる女の子を何人か連れてくることができる?』『はいっ!』『じゃあ借りてあげる。アンタ、ママやりな』という感じで初めてのランパブをオープンすることになりました。ナルミちゃんは他に3人の女の子をちゃんと連れてきてくれましたよ」
こうしてオープンしたランパブ『CM3』は瞬く間にスナック以上の大盛況となった。時代的にはバブルがハジけた後だったが、夜の繁華街は最後の祭りを刹那的に楽しもうとするような一種、異様な空気が漂っていた。
「値段はスナックの倍の1万円に決めたのですが、それでも次から次にお客さんが入ってきて、狭い店内は週末の原宿の竹下通りみたいになってました」
「OLクラブ」「パジャマクラブ」…5店舗ともお客さんが途絶えず
船堀で最初のスナックを始めてから3年が経つ頃には、3店舗すべてに客が入りきらなくなるほどの大盛況となった。そこで3店まとめて大きなハコに移転しようと考え、あちこち探した末に西葛西の店舗を見つけ、最初のスナックだけは人に任せて残し、それ以外の女の子たちはすべて新店舗に移ることを決めた。
「新しい店の店名は『ルージュ』。CM2と3の女の子を全部ごっちゃまぜにしたので、普通の洋服の子とランジェリーの子が一緒に働いていました。ここもすぐ軌道に乗ったので、そこから勢いに乗ってどんどん新しい店舗を作っていったんです」
それから3年ほどの間に、亀戸に「ランジェリーパブH」をオープンし、西葛西にはOLスタイルで接客する「OLクラブ」と、女の子がパジャマ姿で接客する「パジャマクラブ」も出店する。
きいこさんが経営する5店舗はいずれもお客さんが途絶えず、さらに大バコの店舗を探しているときに、 近所でパチンコ屋が潰れて3フロアが空いたビルを見つけて移転を即決する。
「目立たない場所ではあったんですが、これを機に店名を『ZERO』にして、これ以降は新しくやるお店も全部『ZERO』で統一するようにしました。1階と2階はクラブ、3階がランジェリーパブになりました」
この3階フロアのランパブ店が、後に東京の夜の街での「伝説」となっていく。
「伝説のランパブ」移動するたびランジェリーのお尻や太ももが目の前を…
「ビルの3階フロアが、なぜか天井が低い作りになっていて、普通なら飲み屋さんなんかできるような作りではなかったんです。でも、ものは考えようで、それならいっそ床に座ってもらえばいいやと考えてお座敷の店にしちゃったんです。ランパブでお座敷は全国的にも珍しかったと思いますが、これが大当たり。
お座敷に腰を下ろして1時間も飲めば、もう帰りたくなくなるじゃないですか。しかもお客さんは低いフロアに座っていますから、女の子が立って移動するたびランジェリーのお尻や太ももが目の前を行き来する。普通なら失礼でもこの店ではサービスですからお客さんは大喜びでした。それとパジャマクラブでも評判がよかったのでこの店でもインテリアで一組の布団を敷いてありました。お客さんも妄想を膨らませて楽しんでいたみたいです」
「一番盛り上がっていたのは1990年代の半ばから後半でしょうか。私の経営していたどのお店にも外に長い行列ができて、毎晩店に入りきれないほどのお客様が来てくれました。広告費をほとんどかけなくても口コミでお店の評判を聞いて、わざわざ都心からタクシーを飛ばして遊びに来るようなお客さんもたくさんいて、普段は六本木や新宿みたいな大きな繁華街で飲んでいる遊びなれた人たちが、『あの店に行こうぜ』って来てくれたんです。
そのうちに噂が広まって、沖縄や東北地方など日本全国からもお客さんが来るようになって、そのまま毎年通ってくれるようになった方もたくさんいました」
お客さんが集まるのは「女の子たちが楽しみながら働けていたから」
これだけ人気を集めた理由はどこにあるのか。
「やっぱりお店の女の子たちが、自分たちも楽しみながら働けていたことが一番じゃないでしょうか。これまで1000人以上の女の子を雇いましたが基本的にどのお店も少数精鋭でやってきました。女の子は数をたくさん揃えればいいわけじゃなく、ちゃんと接客ができなければお客さんは来てくれません。
よく面接で女の子たちに言っていたのは、何でもいいから何かしなさいということ。ある女の子はずっとカラオケを歌って店を盛り上げていましたけど、もちろん自分が楽しむんじゃなくてお客さんとの会話でリクエストをもらって楽しませるんです。その子に新しい店を任せたことがあるんですが、1曲100円のカラオケ代をためて、カラオケ機材の費用の100万円をあっという間に返しちゃいましたからね」
もうひとつの特徴は1時間5000円の「明朗会計」だ。ビールも飲み放題だし高いボトルを入れるような営業もしなかったという。こうしたスタイルが、客が安心して飲める店として支持を集めていったのかもしれない。
常連客・大相撲の剣晃関が「ママ、エッチしようよ」って
客や従業員など人の縁にも恵まれた。30年以上にわたる水商売で出会った客の中にはちょっと変わった常連客の名前もあった。
「お店を始めた最初の頃、大相撲の剣晃関がそれこそ毎晩のように飲みに来てくれてました。それからは毎晩、私が車で送っていくことにしました。ただ、私が乗っていたのは普通の軽自動車だったので、剣晃関を助手席に乗せると車がグンと沈み込んでもう壊れちゃうかと思ってドキドキしましたね」
当時、剣晃は横綱・曙関の太刀持ちをやっており、土俵では「角界のならず者」と呼ばれるキャラクターだったが、普段はとても穏やかで、店ではママと艶っぽい冗談を交わすようなこともあったという。
「剣晃関が明日は小錦関と対戦するっていう夜、怖い怖いって震えながら飲んでいて、『ママ、エッチしようよ』って言ってきたことがありました。もちろん冗談ですがノリで『じゃあ、勝ったらそういうことしようか』って返したんですけど、剣晃関は『でもな、ママ、実は勝ったら女なんかほしくないんだ』なんて言って笑っていましたね」
ヤクザ屋さんもたくさん飲みに来たけれど
とはいえすべてが順風満帆だったわけではない。夜の街にはトラブルがつきものだ。ましてきいこさんは何の後ろ盾もなく水商売を始めている。1992年に暴対法が、2011年には東京都の暴排条例が施行されるなど、夜の街から反社会勢力が締め出されつつあったが、それでも反社会勢力との関係は神経を使うものだった。
「西葛西に進出した頃から、ヤクザ屋さんもたくさん飲みに来ましたが、お客さんとして以外に付き合ったことはありません。私は九州生まれで正義感の強い両親に育てられて怖いもの知らずでしたから、そんな性格が伝わっていたのかもしれません。最初の頃はチンピラに『店の前に糞尿まき散らすぞ!』なんて脅されたこともありましたが、『どうぞご自由に。でも今のセリフは録音しましたから葛西署に届けておきますね』なんて言い返してました」
波乱万丈の水商売はビジネスとして大成功となった。2010年代に入って以降も客足が途絶えることはなく、グループ店の経営は順調だった。それでも2020年、きいこさんはすべての店を閉めて水商売の世界から身を引く決断をした。
「やっぱりコロナが大きかったんです。夜の店は大ダメージを受けてどうしようもなくなって、緊急事態宣言が出る前の2020年の3月25日に閉めました。自分も70歳近い年ですし、命の方が大事ですからね。未練はなくて今は全部がいい思い出です。来てくれたお客さんや働いてくれた女の子たちに感謝しています。
ただ、コロナが落ち着いた最近は、昔のお客様から『またZEROのような店を開けてよ』という要望が多いの......私もまだ元気だから、一緒に組んで面白い店をしようという方がいたら、ご連絡欲しいわね」と再度の挑戦にやる気を見せる元気な大ママは健在だった。
(清談社)