ナポレオンはただの「独裁者」ではなかった…30歳でフランスの頂点に立った男が「地方の声」を重視した理由

2025年5月12日(月)9時15分 プレジデント社

サン=ベルナール峠を越えるボナパルト(画像=ジャック=ルイ・ダヴィッド作/国立マルメゾン城美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

フランス革命後の混乱を収拾し、皇帝となったナポレオンとはどんな人物だったのか。広島大学准教授の藤原翔太さんは「独裁者というイメージが強いかもしれないが、実は地方の世論に敏感で、地方住民の声に絶えず耳を傾ける政治家だった」という——。

※本稿は、藤原翔太『ポピュリスト・ナポレオン 「見えざる独裁者」の統治戦略』(角川新書)の一部を再編集したものです。


サン=ベルナール峠を越えるボナパルト(画像=ジャック=ルイ・ダヴィッド作/国立マルメゾン城美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

■「お飾りの指導者」には満足せず


1799年12月、ナポレオンがフランス統領政府の第一統領に就任した時、彼はまだ30歳、皇帝に即位した時でも35歳にすぎなかった。


若くして国のトップに立ったナポレオンだが、彼は玉座で腕組みしながら、自分よりも年上の経験豊かな大臣や国務参事官らに政治を任せて、報告を聞くのに満足するような人物ではなかった。それどころか、些細な事柄でも可能な限りすべての情報を集めて、専門家の意見を聞きながら必要であれば質問し、最終的には自分で決断する政治家であった。


しかも、相当有能であったようだ。彼が30代前半で作り出した諸制度には、国務参事院、県知事制度、リセ(中等学校)、レジョン・ドヌール勲章、フランス銀行など、現在でもフランス国家の礎となっているものが数多く含まれている。そのうえ、ナポレオンが民法典(いわゆるナポレオン法典)の編纂を主導したことは、よく知られている事実である。


■優秀な側近たちが若造を支えた?


確かに、歴史家の中には、「ナポレオン体制は軍事的勝利を重ね続けなければ、存続し得なかった」として、支配体制の構造そのものに否定的な評価を下す者もいる。だが、ナポレオン時代に作り出された近代的諸制度の多くは現代のフランス国家の骨格をなしており、この事実だけを取り上げても、ナポレオン体制が、軍事的勝利がなければ簡単に崩れ落ちてしまうような「張りぼて」であったとは、考えにくい。


では、なぜ30歳になったばかりの軍隊出身の若造が、激動のフランスにおいて政治を主導し、これら多くの偉業を成し遂げることができたのだろうか。


一点目として、彼は優秀な側近たちに取り囲まれていた。ナポレオンは議会をさほど重視しなかったが、専門家の意見を大事にして、「密室」という条件ではあるが、しっかりと議論することを好んだ。立法作業を担う国務参事院のメンバーには各部門選(え)りすぐりの知性が結集し、ナポレオン主宰のもとでフランスの近代的な諸制度を作り出していった。


ナポレオンの「相談役」を務めた第二統領のカンバセレスは法律の第一級の専門家で、民法典の編纂でも大いに活躍したし、大臣の中には、外務大臣のタレーランや警察大臣のフーシェといった歴史上の傑物もいた。


■自ら「決断する」政治家だった


実際、近年の研究では、近代的な諸制度の設立において、ナポレオンの協力者たちが果たした役割を再評価するのが「トレンド」となっている。


筆者のこれまでの研究もその流れに棹(さお)さすものであった。たとえば、前著『ブリュメール18日 革命家たちの恐怖と欲望』(慶應義塾大学出版会、2024年)では、従来のナポレオン目線からではなく、ナポレオンを担ぎ上げた革命家たちの視点に立ってブリュメール18日のクーデタを再考している。


とはいえ、そのことは当然、ナポレオンの政治能力を否定するものではない。ナポレオンが優秀な専門家を適材適所に配置する能力に優れていたことは確かであるとしても、その点だけを強調してしまえば、彼自身の政治能力を過小評価してしまうことになるだろう。


彼は独自に情報を集め、意見を聞き、最終的に自ら決断する政治家であった。ブリュメール18日のクーデタ後、新憲法の制定過程において、若き将軍ボナパルトが憲法の専門家と誰しもが認めるシィエスから主導権を奪うことができたのも、偶然ではなかった。


Premier Consul Bonaparte(画像=アントワーヌ=ジャン・グロ作/国立マルメゾン城美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

■「小型の皇帝」県知事を任命


ポスト革命期のフランスを統治するために、ナポレオンがまず取り組まなければならなかったのは、各地で生じた政治的分裂を解消し、国民に国家権力を認めさせて、国内平和を再建することであった。その目的で考案されたのが任命制に基づく地方行政制度である。


共和暦8年プリュヴィオーズ28日法(1800年2月17日)によって、県、郡、市町村が地方行政の枠組みとして採用され、県知事、郡長、市町村長が置かれた。県知事と郡長は第一統領(ナポレオン)によって任命された。


市町村長の場合は、人口5000人以上の市では、第一統領が県知事の提案に基づいて任命し、人口5000人未満の町村では、県知事が任命した。中でも県知事は大きな権限を持ち、郡長と市町村長を率いて地方統治の任にあたったので、歴史家によって「小型の皇帝」と評されることもある。


しかし、ナポレオンが勅任の県知事を介して、強引に地方政治を行っていたかといえば、必ずしもそうではない。逆に、ナポレオンは地方の世論に敏感で、地方住民の声に絶えず耳を傾ける政治家であった。


■公職者候補のプロフィールを徹底収集


ここで注目したいのが、ナポレオン時代に行政官らが担った大規模な情報収集の業務である。


革命期からナポレオン時代にかけての地方行政文書に目を通してみると、ナポレオン時代になってから突如として、元老院などの議員、地方行政官(県知事、郡長、市町村長)、地方議会議員(県会議員、郡会議員、市町村会議員)、及びそれらすべての候補者に加えて、県選挙人と郡選挙人、さらには県内の名望家の子息などの多岐にわたる一覧表が作成され始めたことに気づかされる。


革命期には、このような表形式の文書はほとんどみられなかったから、ナポレオン時代を境に、大きな変化が生まれたことになる。


公職者の任命制の導入がこの変化をもたらしたことは明らかだ。革命期には、ほとんどすべての公職者が選挙で選ばれていたので、行政当局も選挙で誰が当選したかを記録しておけば十分であった。しかし、ナポレオン時代になると、第一統領や県知事は、選挙で選ばれた候補者や行政官が提案した候補者の中から公職者を任命しなければならなかったので、公職候補者の詳細な情報が必要になったのである。


ナポレオンの情報収集の熱量は凄(すさ)まじく、現職の公職者や正式な公職候補者だけでなく、将来的に候補者になる可能性のある選挙人や、県内の名望家の子息などの情報も徹底的に集められた。


■「妻子を持った男性」が評価された時代


公職候補者の一覧表には、非常に細かい情報が記載された。共通する項目だけでも、名前、現職、年齢、出身地、居住地、結婚の有無、子どもの数、財産、年収、旧体制期と革命期に就任していた公職、政治的意見や地元での影響力などの所見が挙げられる。


現代からみれば、公職候補者の結婚の有無や子どもの数を知ったところで一体何になるのかと不思議に思うかもしれないが、家族制度が社会の基盤をなした当時においては、結婚し、子どもを持つ一家の主人であることが、社会で影響力を振るう公職者に求められる資質の一つとみなされていた。


ナポレオンはこれらの情報をすべて吟味したうえで公職者を任命した。確かに、政治的意見も記載されはしたが、多数ある項目の一つにすぎなかった。実際のところ、新体制を受け入れてさえいればほとんど問題にはならなかったのである。


この点は、ナポレオン体制の崩壊時に、多くの地方行政官が真っ先にブルボン王政の復活に支持を表明したことからも明らかだ。ナポレオンは自身の賛美者を優先的に登用していたわけではなかった。


■フランス全土の情報をどうやって集めたのか


彼は県知事らを介して、将来の公職者に関して、可能な限り多くの情報を収集しようとした。そして、地方の情勢や全体のバランスを考えながら、「適切」な人物を公職者に任命しようと努めた。それゆえ、ナポレオンの情報収集は公職候補者に限らず、地域社会の現状をすべて含み込むものであった。


では、ナポレオンはどのようにしてこれらの情報を集めることができたのだろうか。また、収集した情報を基に、どのような人物が公職者として「適切」であると判断されたのだろうか。ナポレオンは情報ネットワークを利用して、どれだけ地方住民の要望に応えることができたのか。


候補者に関する大規模な調査は、1800年に行われた最初の県知事の任命から開始される。それを主導したのは内務大臣のリュシアン・ボナパルトだ。彼は、各県の政府委員や極秘に派遣された諜報員らを介して集めた情報と、パリに滞在する地方出身の議員らが提供した情報を照らし合わせながら、候補者の一覧表を作成した。


この一覧表には、内務大臣の他に、統領のカンバセレスとルブラン、外務大臣のタレーランとクラルク将軍が独自に提案した候補者が加えられた。各候補者には彼らの所見が記され、最後の欄は、第一統領の最終的な判断が記載されるために空白とされた。


写真=iStock.com/da-kuk
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/da-kuk

■地元との癒着を防ぐ絶妙な差配


ナポレオンは基本的に、内務大臣が提案した候補者の中から県知事を任命した(97人中65人)。県知事の多くは働き盛りの30代から40代で、政治や行政の経験者から選ばれた。一方で、県知事が自身の出身県に配置されることはほとんどなかった。これは、中央政府の代理人である県知事が、県の利害に絡めとられてしまうことを防ぐ目的からだ。


しかし、全く土地勘がない人物を配置しても効果的な統治は期待できないので、県知事は出身県からほどよく近い距離の地域に派遣された。


とはいえ、実際のところ、県知事の任命には、明確な規則性はほとんどみられなかった。逆説的だが、実はこのこと自体、集められた情報を精査し、各地域の多様な状況を睨みながら、「適切」な人物を選ぼうとするナポレオンの意図をよく示している。


そして、結論を先取りすれば、ナポレオンが「適切」だと判断する最優先の基準は、地方住民と協調関係を築けるかどうかに他ならなかった。この点を、県知事の評価書からみていこう。


■県知事の「通信簿」の内容は…


最初の県知事が任命されると、1801年から、県知事の活動実績を評価するために、国務参事官が諸県に派遣された。その中には、フランスに併合されたばかりの合同諸県も含まれていた。



藤原翔太『ポピュリスト・ナポレオン 「見えざる独裁者」の統治戦略』(角川新書)

国務参事官は県知事の評価書を作成し、それらを取りまとめて政府に報告した。1801年から1809年にかけて、全国の県知事を対象にした5つの評価書が作成されている。


評価書にはアルファベット順で県の名前が記載され、その横の欄に県知事の名前と活動実績に関する所見が記された。評価項目としては、県知事の思慮深さ、教養、社会的地位、行政の能力などが挙げられるが、中でも政府が注目したのは県知事と地方住民の関係性である。


以下では、県知事の評価書を分析したピエール・カリラ=コアンの最新研究を参考にしながら、ナポレオンにとっての理想の県知事像を明らかにしてみたい。


■「権威主義的」な振る舞いは低評価


評価書では、県知事が地方住民から好かれているかどうかが重視された。たとえば、1806年にディール県知事のムシャール・ド・シャバンは、「賢明、公正、謙虚である。彼は県の住民から好かれ、尊敬されている」と肯定的に評価された。


逆に、地方住民との良好な関係を築くのに失敗した県知事には、厳しい評価が下された。1809年の評価書において、オート=ガロンヌ県知事のデムソーは、「経験豊富で教養があり、熱意もあるが、当局にとって有用な関係を住民と保つには、あまりにも怒りっぽい性格である」として批判された。


1801年には、ブーシュ=デュ=ローヌ県知事のドラクロワもまた、「権威主義的で融通のきかない行政」を行っているとして強く非難されている。ナポレオン体制は「権威主義的」であったとよく言われるが、県知事が地方住民に対して「権威主義的」に振る舞うことはむしろご法度だったのである。


写真=iStock.com/JoseIgnacioSoto
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/JoseIgnacioSoto

■住民から愛され、尊敬されることを重視


1806年に作成された一覧表では、県知事の能力が17項目において数字で評価された。各項目がマイナス3からプラス3までの6段階で評価され、マイナス評価は赤色で、プラス評価は黒色で記載される。


17項目は次の通りだ。


A:職務上の義務への献身、B:私生活の品位、C:県内で住民から好かれているか、D:住民からの尊敬、E:思慮深さ、F:性格、G:無私無欲、H:礼儀と愛想の良さ、I:体裁、J:公平な態度、K:能力、L:知識、M:仕事の勤勉さ、N:報告の正確さ、O:上級当局との関係、P:改善への熱意、Q:県内での法律の執行

一覧表では各項目で評点が付けられたが、総合点や平均点は出されなかった。つまり、この評価書は県知事の順位付けを目的としたものではなかった。それ以上に、県知事それぞれの強みと弱みを把握し、諸県の状況に適(かな)った配置がなされているかを確認して、必要ならば、配置換えを検討するための材料として用いられたのである。


一覧表の評価項目をみてみると、職務上の専門能力(KからQの7項目)よりも、県知事の品位や性格、住民との関係といった人格的な側面(BからJの9項目)の方が数としては多い。品位を備えた県知事が、県内で住民から愛され、尊敬されることが、何よりも重視されていたことがわかる。


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藤原 翔太(ふじはら・しょうた)
広島大学大学院人間社会科学研究科准教授
1986年生まれ、島根県出身。トゥールーズ・ジャン・ジョレス大学博士課程修了(フランス政府給費留学)。博士(歴史学)。福岡女子大学国際文理学部准教授などを経て、現職。専門はフランス革命・ナポレオン時代の地方統治構造。2024年、『ブリュメール18日 革命家たちの恐怖と欲望』(慶應義塾大学出版会)で、第24回大佛次郎論壇賞を受賞。他の著書に、『ナポレオン時代の国家と社会 辺境からのまなざし』(刀水書房)、『東アジアから見たフランス革命』(共著、風間書房)、訳書にクリスティーヌ・ル・ボゼック『女性たちのフランス革命』(慶應義塾大学出版会)などがある。
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(広島大学大学院人間社会科学研究科准教授 藤原 翔太)

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