Z世代「自由市民」に求められる知の力

2023年5月13日(土)6時0分 JBpress

 今回は、5月20日から東京都美術館で開催する「心のゆらぎ〜美の気づき」展に展示され、来場された方が目の前で実物に接することができる作品の紹介から始めましょう。

 ハチが一匹、飛んでいます。しかし鏡には「ハチの巣」が映っているではないですか!

杉原厚吉「巣に帰る」

「巣に帰る」と名付けられ昨年度の「二科展」に入選もした世界的な3D立体アーチスト、杉原厚吉さんの作品です。

 どうしてこのように手品のようなことができるのか。

 偶然?

 いえ、偶然でできるような仕事ではありません。

 もう一つ、杉原作品をご紹介しましょう。円柱が6本、鏡に映っているようですが、鏡の中を見てみると・・・。

杉原厚吉「変身立体 丸と四角」

 どうしてこのようなことができるのでしょう。

 冷静に考えれば、鏡に映った像と肉眼で見る像、2つの関係を正確に考えて、幾何学的な合成が可能な「正解」を方程式に立て、コンピューターで計算させれば、こうした形の設計図は得られます。

 それを3Dプリンターで出力すれば、このような作品を「作る」ことは、機械にもできる仕事です。

 しかしこうした作品を創案、つまり「創り出す」のは、AI任せでできる話ではない。前回も言及したこの作品はどうでしょう?

杉原厚吉「家族4人」

 このレリーフ、等身大で160センチあります。

 タイトルは「家族4人」と名付けられています。しかし、2人しかいないように見えるけれど・・・。

 少し視点を変えてみると・・・。

 左側から眺めれば「坊やとお父さん」なのに、右側から見れば「女の子とお母さん」!

 確かに家族4人ではないですか!!

 そして、こうした「創意工夫」は、逆立ちしても決して機械学習システムから勝手に出てきたりすることがない。

 どこまで行っても永遠に「人間の知の愉悦の領域」にある発想にほかならない。

 こうした構想立案と、実行完遂の力が「AIが当たり前」の社会を生きるZ世代、α世代以降世代のキャリアを、グローバルにサポートすると考えられているのです。


「リベラルアーツ」のリベラルとは何か?

 1995年、米国政府が喧伝した「IT革命」以降、プログラミングを筆頭に情報労働力の不足が案じられ、米国を発信源に「STEM」教育なる標語が喧伝され始めます。

 STEMとは「切り株」の意で「サイエンス」「テクノロジー」「エンジニアリング」と「マセマティクス」つまり科学と「技術」「技術」1にも技術、2にも技術、3、4がなくてもいいから5に技術、と技術偏重で、それに「数学」がくっついていた。

 システム・エンジニア、SEは理数系ができればよい、そういう労働力を確保しろ〜という資本の短慮を示すもので、実際大したことにはならなかった。

 そうこうするうち、2012年の「グーグル猫」以降「第2次AIブーム」が勃興すると、単に言われたコーディングをすればよい、受け身の「プログラマー」では事足りなくなる。

 そこで、STEMにアートも加えたSTEAM教育「スチーム」(つまり湯気です)というPRが、やはり米国大企業方面から聞こえてきはするのですが・・・。

 この「湯気」教育、いつまで経っても確立された教程など固まらず、旗振り先行で成果に乏しいことを、ミュンヘン工科大学を筆頭に欧州の大学、高等研究機関、そして日本の心ある指導層は眉を顰めざるを得なかった。

 そして2016年、こうした不毛を超えて中身のある次世代人材育成を、として日欧協力で取りまとめられたのが「STREAMs」であることは前回も触れました。

 正確にはミュンヘン工科大学「Facebook」AI倫理研究所の創設と前後して、今の形に取りまとめが行われた。

 ここでいうSTREAMsとは、「S」(自然科学=Science)、「T」(工学技術=Technology) にR(内省対話=Reflection)、「E」(倫理道徳=Ethics)、そして「A」(表現芸術=Arts)、「M」(数理思想=Mathematics)ともう一つ「M」(音楽調和=Music)。

 これら7つを一身具足としたのは(私が職業音楽家であることとは無関係で)古典的な自由7学科の先例を踏襲して「21世紀の自由7学科」としたためです。古典自由7科とは

トリビア=初等文系3学科(文法、修辞、弁証法)と

クァドリヴィウム=応用理系4学科(算術、幾何、天文、音楽)の7つで、米国の浅慮に批判的な欧州らしい品格ある選択です。

 上の7つをまとめて「自由7学科」(リベラル・アーツ)と呼ばれます。

 昨今、若い大学の先生諸君に尋ねても「自由7科」の自由の意味を知らないケースが増えました。

「必修じゃなくて選択科目って意味じゃないっすか〜」と言われた際にはさすがに脱力せざるを得ませんでした。

 その若手教員君・・・私の初期の学生に当たる世代ですから、かなり前に40歳も過ぎているはずなのですが・・・。

 さて「リベラル・アーツ」のリベラル、自由とは「自由市民」の自由を意味するものです。その反対は「不自由」ではなく「隷属」

 もっと言えば「奴隷」「農奴」の意という、シャレにならない現実が垣間見えてきます。


なぜ徴税に「音楽」が必要なのか?

 つまり「自由民」とは「農奴」から搾取して「自由な生活」を送る「貴族」や「高位聖職者」の意。さらに露骨に言えば「徴税官吏」を意味しており、

文法・・・中央からの租税取り立ての文書を正しく理解し

修辞・・・それを分かりやすく大衆に伝えるメディアの力

弁証法・・・不平不満が出た時、相手を説得し、裁判に勝つ雄弁術

 が徴税吏に求められる能力だった、という当たり前のお話。では以下はどうでしょう?

算術・・・は税金の計算ができないと仕方ないですね。

幾何・・・は、耕地面積を測って税額を算出するから必須。

 では「天文」と「音楽」は、どうして税金の取り立てに役立つのか?

天文・・・は、つまり暦を理解する力であって、「幾何」が空間を支配するとすれば、実は「天文」は暦を通じて時間を支配する能力

 では「音楽」は?

 ここでいう音楽は「宗教音楽」西欧中世カトリック教会が唯一認めた「ローマ式典礼」で式文が歌える能力を指し、税吏が実は「坊さん」だったことが分かります。

 では、なぜ税金に「ローマ式典礼」の歌が歌えることが必要なのか?

 それは教会の「聖務日課」が人生のすべてをカバーしており、結婚した、赤ちゃんが生まれた、成人した、病気になった、亡くなって葬式を挙げねばならなくなった・・・というすべてと「キリスト教の典礼」が結びついており、そこで歌う賛美歌、式典の方法も決まっていたからです。

 つまり、「聖職者」として住民の誕生から死亡まで、成人や健康、疾病も把握する「戸籍台帳」を管理する「徴税台帳の管理に基づく人間の支配」を意味していたわけです「音楽」は。

 この「カトリック方式」、目新しく思ったかもしれませんが、日本にやって来たのは1500年代と古く、最初にこれを取り上げたのは織田信長、大成したのは徳川家康の幕府にほかなりません。

 そんなこと聞いたことない?

 いえいえ、江戸時代の日本では、戸籍に相当する人頭税の基本台帳は「寺社奉行」支配で、惣村ごとの人別帳は、お寺の「過去帳」がしっかり管理していました。

 イエズス会を通じて織豊政権が輸入した「戸籍」収税システムの基本にほかなりません。

「五公五民」など、江戸時代の徴税システムも、実は16世紀のグローバリゼーションを通じてもたらされた、カール大帝以来の「カトリックの統治技法」であった・・・。

 というようなことは、STEMだSTEAMだといったモノカルチュア的な教育では切り捨てられてしまいます。

 それでは人は育たない。もっとしなやかで、自在な教育が必要です。


Z世代が「自由」を謳歌するために

 さて、こうした中世カトリックや江戸時代の収奪と同様の状況を、あえて生々しく21世紀のZ世代〜α世代(私が教室で毎週つき合う学生諸君の世代)に、どう説明しているのか。

 駒場や本郷の教室で私が話すアウトラインでご紹介しましょう。

 身近な表現を取るなら「市民」を「正規雇用社員」程度に思うと、ちょうどよいかもしれません。

 もちろん今日の日本に「奴隷制」は存在しない。

 でも、非正規雇用などで収入が安定しなかったり、所得の厳しい世帯ははっきり存在するわけで、そのような階層分化そのものを、私は由々しいものだと思っています。

 社会の多様性が十分確保された2020年代の日本には、人との競争で追いつけ、追い越せと「相対評価」を競うのは無意味であると、私はあらゆる学生に(東大生はもちろん、芸大生にも)1の1として教えます。

 ライバルがいるとしたら、それはただ一つ、自分の内側の死角や勘違い、あるいは慢心、怠惰の気持ちなどである。それが最大の敵だと思えと教えています。

 これは大正生まれで、生きていれば100歳になる私自身の両親から叩き込まれた基本で、同じことを今現在、私自身が教えているのです。

 AIが標準装備の21世紀第3ディケード(2020年代)、先ほど触れたSTREAMsがキャリアを助けるとは、文系とか理系とかは関係ありません。

 自然科学が分かっていた方が、世界は理解しやすいでしょう。

 工学技術が分かっていた方が、時代の先を読んで仕事しやすいでしょう。

 熟慮が足らず、対話ができない人は、いろいろ不便を抱え込むことが案じられるし、

 倫理道徳は、それを自分自身で判断できる人が新しい時代のルールメーカーに適しています。

 芸術表現が必須とは、自分でホームページが作れたり、ユーチューブを発信できる人と、そうでない人を比べれば分かることがあるでしょう。そして、

 数理思想があることで、人は様々な思考対象を客観化し、論理的に同値な形で容易に変形することができます。

 音楽調和、ラテン語でいうところの「ムージカー」つまりミューズの女神たちの諸学芸の調和を身に着けることで、「サステナブル」安定的でありながら「デベロップメント」発展していくという、実は語義矛盾である「SDGs」みたいな時代の趨勢も活用可能になる。

 などというわけです。「切り株」や「湯気」で、人から指示された範囲でソースコードを打つだけの教育では、以下のような作品を発想することはできません。

杉原厚吉「魚のレントゲン写真」

 では、どのようにすればよいのか?

 実はそのカギになるのは「ゆとり教育」期の理想と、「ゆとり」の時代には存在しなかったAI、人口知能の活用なのですが、それについては回を改めましょう。

 STEMやSTEAMのラインナップには存在しない「魚のレントゲン写真」のような機知つまりウイット、熟慮とその結果として新しい発想を得ることで、AI社会の新しい世代に、自由を謳歌する力を、身に着けてもらいたい。

 そう、私たち学生生徒を指導する側の立場の者は、心から願っているのです。

筆者:伊東 乾

JBpress

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