家を残すためなら息子の命すら差し出す…「徳川家康に最も嫌われた戦国武将」のすさまじいサバイバル人生
2025年5月28日(水)18時15分 プレジデント社
上田城(写真=くろふね/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)
上田城(写真=くろふね/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)
■戦国屈指の世渡り上手だった武将
戦国武将のなかでもとりわけ才知に長け、豊臣秀吉や徳川家康をはじめ格上の武将たちと渡り合い、翻弄し、幾多の苦難を潜り抜けた。こうした世渡りが飛びぬけて上手かったため、江戸時代をとおして家を存続させることに成功した。そんな人物が真田昌幸である。
だが、もともとは武将でさえなかった。武田家に仕える真田幸綱の三男なので、家督を継ぐ可能性は低く、早くから武藤という家に養子に出され、足軽30人を従える足軽大将になっていた。だが、2人の兄、信綱と昌輝が天正3年(1575)の長篠合戦で戦死したため、真田家に戻って家督を継承することになった。
真田家は信濃国(長野県)小県郡真田(上田市)が拠点だったが、昌幸は小田原の北条氏の所領だった上野国(群馬県)東部の沼田領(沼田市)に侵攻。ついには沼田領の拠点、沼田城を手に入れている。
天正10年(1582)3月、織田信長と徳川家康の連合軍に攻められて武田氏が滅亡すると、すぐに信長に臣従したが、この判断および変わり身の早さこそ、真田昌幸の生涯において真骨頂だった。
信長が甲斐国(山梨県)に配置した滝川一益の与力になり、沼田城は差し出した昌幸だったが、3カ月後に織田信長が本能寺に斃れると、旧武田領で徳川家康、北条氏政、上杉景勝による領土の争奪戦がはじまった。ここからの昌幸は、まさに変幻自在に立ち回る。
■上杉→北条→徳川という寝返り
滝川一益が北条氏政の嫡男、氏直に敗れた間隙を縫って沼田城を奪還し、上杉が上野国に侵攻してくると上杉に臣従した。ところが、すぐに北条氏直に降伏し、わずか2カ月余りのちには徳川家康と連絡をとり、北条を裏切って徳川に寝返っている。どうやら、寝返りの基準は、沼田城を守りたいという点にあったようだが、ともかく、相手を翻弄する変わり身は鮮やかである。
次の逸話からも、昌幸の沼田へのこだわりがうかがい知れる。天正10年(1582)10月末、家康は北条と和睦を締結し、(1)家康の次女の督姫が北条氏直に嫁ぐこと、(2)北条氏の勢力下にあった甲斐国都留郡、信濃国佐久郡と、徳川臣下である真田氏の領土である上野国沼田領および吾妻領が交換されること、が決められた。
つまり、甲斐と信濃は徳川、上野は北条、というようにすっきり分けようとしたのだ。ところが、昌幸は、沼田領も吾妻領も自分が切り取ったものだと強く主張し、家康の求めを拒んだ。その結果、沼田城は北条氏からたびたび攻撃されることになったが、昌幸は耐え抜いている。
真田昌幸(武藤喜兵衛)像 真田幸正氏(1876〜1917)所蔵(写真=東京大学史料編纂所データベース/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
その後、翌天正11年(1583)、昌幸は家康の命で、越後国(新潟県)の上杉氏に対する防衛線として、信濃川に面した断崖上に上田城(長野県上田市)を築城した。むろん、家康は築城に際して支援したのだが、これが家康にとっての仇になる。
■2000の兵力で7000の敵に勝利
天正12年(1584)3月、小牧・長久手の戦いが起き、家康が秀吉と対決して沼田方面へ注意を払う余裕がなくなると、昌幸は沼田と吾妻をみずからの所領としてあらためて確保した。これに北条氏が激怒し、和睦の条件を守るように家康に迫ったので、秀吉と和睦した家康は天正13年(1585)4月、甲府に軍を進め、昌幸に沼田を引き渡すように求めた。
家康は沼田の代わりに、信濃国の伊那(伊那市)をあたえると提案したのだが、昌幸はあらためて拒否。家康から離反し、次男の信繁(幸村)を人質に出して上杉景勝に臣従してしまった。
さすがに堪忍袋の緒が切れた家康は、昌幸を攻めて真田領を制圧することを決意。鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら7000の軍勢で上田城を攻めさせ、別動隊を沼田城にも侵攻させた。ところが、昌幸はわずか2000の兵力で翻弄し、徳川軍に1300もの死傷者を出させるほど大勝している(第一次上田合戦)。
結局、昌幸はこの勝利をもって、信濃国の独立した大名として認められるようになったのだから、変幻自在に変わり身を繰り返した者勝ち、ということになる。
■家康が秀吉に臣従した背景
天正13年(1585)、昌幸は上杉景勝に従属したまま豊臣秀吉に臣従した。それに際し、上杉方に人質に出ていた次男の信繁は、今度は秀吉の人質として大坂に移った。
翌天正14年(1586)には、ついに家康が秀吉に臣従したが、これにも昌幸の影響が無視できない。家康はこの時点で昌幸だけでなく、同じ信濃国の国衆の小笠原貞慶にも離反されていた。おそらくは、真田氏に離反された挙句、第一次上田合戦で敗北した家康には頼れない、と判断されたのだ。こうした影響で、自身の領国内に動揺が広がった家康としては、秀吉に頼るしかなくなった、という面がある。
その前に、家康は再度、昌幸を攻めるべく、天正14年7月に甲府に出陣したが、秀吉の調停を受けて中止。秀吉は家康が大坂に上った際、昌幸を家康の与力大名にするよう命じた。
変化が目まぐるしくて、ついていくのが大変だと思う。要は、真田昌幸は、沼田領と吾妻領に執着して、徳川と北条の求めに一歩も譲らず、上杉景勝や秀吉と結んで、自分の主張を貫きとおした、ということだ。
■沼田への強いこだわり
昌幸の沼田へのこだわりは、思わぬ結果にもつながっている。秀吉の北条攻めを誘発したのだ。天正17年(1589)、秀吉は真田氏が押さえる沼田領と吾妻領に関し、沼田城をふくむ3分の2は北条氏にあたえるという裁定を下した。これを受けて、その年の暮れに北条氏政が大坂に上るはずだった。
だが、3分の1を昌幸のもとに残したのが仇になった。10月末、北条氏の家臣で沼田城代の猪俣邦憲が、真田方の名胡桃城(群馬県みなかみ町)を攻め落としてしまった。秀吉は激怒して北条氏の征伐を決意し、翌天正18年(1590)の小田原攻めと北条氏の滅亡、家康の関東移封につながったのである。
時代は下って、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦とその後の状況にも、昌幸は大きな影響をあたえている。徳川の主力部隊を率いた家康の嫡男、秀忠が遅参して、関ヶ原の本戦に間に合わなかったことはよく知られるが、原因は、西軍にくみした昌幸の上田城を攻め、予想外に手間取ったことだった(第二次上田合戦)。
結果として、家康は自分の軍勢ではなく、秀吉恩顧の武将たちと一緒に戦うしかなくなった。このため、戦後は東軍にくみした豊臣系大名たちに、西軍から没収した630万石の8割にあたる520万石を加増するほかなく、日本の3分の2を外様大名が領有することになった。
■家を存続させるための究極の選択
こうして力をもった旧豊臣系大名たちが大坂城にいる秀吉の遺児、秀頼を担いだら大変だ、ということで大坂の陣が起きたのだから、その前提も昌幸がつくったことになる。
しかし、歴史に大きな影響をあたえただけではない。真田の家を存続させる術(すべ)にも、おおいに長けていた。
関ヶ原合戦では、昌幸と次男の信繁は西軍についたが、長男の信幸(のちの信之)は東軍にくみした。信幸は徳川四天王の本田忠勝の娘を正室に迎えていたので東軍に、昌幸は石田光成と縁戚関係にあったので西軍に、と分かれたのだが、その背後には周到な計算があった。東軍と西軍のどちらかが勝って真田家が存続できるように、あえて父子が決別する道を選んだのである。
昌幸と信繁は、関ヶ原合戦の戦後処理で、いったんは死罪が下されたが、信幸と舅の本田忠勝の助命嘆願を受け、高野山への蟄居となった。それから10年余りで昌幸は死去し、信繁は大坂夏の陣で散った。しかし、信幸は信濃国上田藩、続いて同松代藩の初代藩主となり、真田家は明治維新を迎えるまで大名として存続することになった。
撮影=プレジデントオンライン編集部
松代城跡(長野市)にある真田信之の像 - 撮影=プレジデントオンライン編集部
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)