中高年引きこもり殺人事件を起こさない教育制度

6月12日(水)6時8分 JBpress

男が子どもを含む19人を刺した川崎市の事件現場(2019年5月28日撮影)。(c)Behrouz MEHRI / AFP〔AFPBB News〕

 我々人間はもちろんだが、動物などを含め、生きとし生きる物がすべからく我が身程大切なものがないとするのは当たり前の理(ことわり)だ。

 日本では古来、自分が大切であるのと同様に他の生き物(家畜から虫でさえ)もそれぞれが自分を大切に思うのは当たり前であることを前提として労わりや慈悲の気持ちを大切にして来た伝統文化がある。

 これが、日本の社会を比較的平穏な歴史として紡いで来た理由の一つだ。

 しかし、最近国内を賑わしている中高年引き込みりによるおぞましいニュースには「お互いを労わる」概念からは考えられないほど残虐な事件が散見されるようになった。

 日本民族が心穏やかな社会を形作ってきた「お互いを労わる」伝統文化が最近になっていったいどうして失われつつあるのだろうか?

日本社会の歪み

 人それぞれ考え方の違うのは当然だが、私は最近の日本社会に歪みをもたらしている原因の一つは、行き過ぎた「上下関係の撤廃」などの不自然なまでに歪な平等の推奨とそれを推進した結果だと思っている。

 「お互いを労わる慈悲の」伝統文化に反するではないか、との反論する向きがあるかもしれないが、能力も役割も全く異なる人間を全て画一的に扱うこと自体に無理がある。

 例えば親と子、先生と生徒、上級生と下級生、上司と部下、男と女などを見ると経験・能力・役割がそれぞれ異なっており、上級者は下級者に教育・指導するのは当たり前だ。

 また、男と女にはそれぞれが全く異なる能力・役割が有るのも当たり前だと思う。ただし、そのお互いがそれぞれの人格を尊重し、他人を労わる気持ちが不可欠であると言う前提に立っての話である。

 日本の社会ではごく当然のようにそのルールは今現在も一般的には守られていると思うが、最近はそれを「古く悪しき伝統」と一刀両断に決めつけて拒絶反応を示す人も少なからず存在する。

 社会全体にその影響が拡散して日本古来の良き伝統文化が希薄化していることによって、特異な事件が発生するようになったように思う。

 特に2000年代初頭、「ゆとり教育」なる教育が先進国の流行としていわゆる知識人と言われる方々が推進し、一時取り入れたことがあった。

 その結果、教育上の劣化が顕在化し、さすがにこればかりは危険とみて撤回された経緯があるものの、今でもその後遺症としての深手は計り知れない。

歪(ひずみ)を復元する一提言

 その後遺症から脱却するための一つとして、若者を先の大戦まで行われていた旧制高等学校のような学生による完全な自治で運営させる全寮制を復活させてはどうかと提案したい。

 一部私立学校では行われているが、国公立大学でも親元から離れた若者同士が起居を共にし、掃除洗濯等身の回りの自活をする一方、上級生・同級生・下級生の混在した若い同世代の多くの人と意見を交わし、自分たちで規則を創成し、そのルールを守って生活することは学生個人の人生にとって万金に値する。

 なぜそのような寮生活が優れているかを入寮当初から順次高学年になっていく過程を辿りながら考えてみよう。

 まず、入寮当初をイメージしてみると、多くの学生にとって学生寮での生活は生まれて初めて親元を離れた世界に入っていくことから、不安に苛まれる場合が多い。

 しかし、多くの同級生が同じ環境に置かれているわけで、当初予想していた不安も実生活に入って見ると思いの外緩和される。

 入寮当初の新入生にとっては、僅かな年齢の差しかない上級生が寮生活にも慣れ堂々としているようにもみえる。

 上級生が手本となり早くそのような人間になりたいと自分では気づかないうちに小さな努力が積み重ねられるきっかけになる。

 そして、1年が経過していざ上級生になれば、新入生を迎えたことで、無意識に立派な上級生としての態度を取ろうとして引き続き日夜の努力を継続しなければならない。

 寮の先輩としてのプライドを常時保つ必要に迫られる。この上級生に課せられる向上心には目に見えない(強制力の様な)自発性が求められる。

 こうして、感性豊かな青春の時期に同世代の仲間たちでお互いを鍛え合う教育システムが構築される。

 このようなシステムは自分たちから遠い世界の理想論ではなく、毎日目の前で展開するよう々な事象を見聞し・体験し・同級生や上級生との相談や議論を重ね・試行錯誤する実践から学べることに意味がある。

 極めて居心地の良い親元の家庭における生活とはかなり違っているが、この年代で学ばなければならい集団生活の中で強烈な刺激を受けて一人で実家や下宿先で過ごすよりも格段に多くの情報量に晒されることは、その後の人生に大きな糧となるはずだ。

数値的な理解

 これまで、言葉で縷々説明してきたが、これを数値的に記述すると以下のようになる。

 古来「努力は天才を生む」とか「人は重荷を負って長い道を行くがごとし」あるいは「大富は命により、小富は勤による」などの格言がある。

 これを数的に置き換えてみる。

 この(図1)は概念的に人の能力向上成果を図式化したものであり、初期値を1(100%)としてある人が自分の努力を1%余分にする場合と3%余分にする場合、能力向上の成果はいずれも、指数関数的に向上する。

 生身の人間の行動にこの数式をそのまま適用できるとは思わないが、現実的にも理論的にも理解が容易になると考えて表記したものである。

 例えば一人で努力していてももちろん向上はするが、同年輩の若者の寮生活で毎日揉まれると、結果としてより多くの努力(プラス1%⇒プラス3%)をすることになり人としての実力が指数関数的に身に着いていく。

 (y)を達成した実力とすると

y=〖(1.01)〗^x・・・+1%頑張る場合・・・(1)

x=2の場合y=1.02、 x=16の場合y=1.17、 x=128の場合y=3.50

y=〖(1.03)〗^x・・・+3%頑張る場合・・・(2)

x=2の場合y=1.06、 x=16の場合y=1.60、 x=128の場合y=44.0

 この数式の(x)を例えば(月数)と仮定すると毎月1%余分に頑張る人は約10年後には3.5倍になる。

 しかし、3%余分に頑張ると10年後にはこの計算上では44倍になる。

 若い頃机を並べて同じようなレベルの同僚だったと思う人が10年後、20年後に別人のように成長していることに驚くのは現実的にも見られるが、この計算式でそれが裏づけられるはずだ。

 もちろん3%以上の努力もいいが、私自身、学生時代に電気工学の授業で、「電動モーターを長時間持続的に運転する場合、約3%の回転過負荷で発熱と放熱が均衡し、モーターが焼損することなく結果として最大出力が得られるが、10%もの過負荷になると瞬く間に焼損する」と習った。

 この原理は人間が努力する場合にも適用でき、過度な負荷は長続きせず脱落してしまう危険性が高く、3%ほどが適度ではないだろうか。

 持続可能なプラス3%の努力で頑張り続けることができるとすれば、この図式に示したように、努力は天才を生むとの格言通り、天才的な能力を発揮する人材が輩出される期待値が高まる。

可愛い子には旅をさせよ!

 格言にあるように、現在の日本社会で「我が子に旅をさせる」ことは非常に少ない。

 何よりも子供もさることながら、親、特に母親の子離れができず、不必要とも思えるほどの細かい指図をして、子供から自分で考え行動する活力を奪っている可能性がある。

 結果として元々能力の高いはずの若者をスポイルしてしまう場合がある。

 それが時として家庭に不幸をもたらし、ひいては社会問題にまで発展してしまうことさえ散見されるようになった。

 そして、今後少子高齢化が一層進むとされる日本では子供の過保護化が加速され、ますますひ弱な日本人が多くなって国家の繁栄どころではなくなってしまう心配さえある。

 今後も日本が物心両面の繁栄を末永く継続するため喫緊の課題は速やかに「可愛い子には旅をさせよ」式の若者教育を導入し、実行に移さなければならない。

 国家の栄枯盛衰は多くの優れた人材育てるか否かにかかっている。「玉磨かざれば光りなし」である。将来の日本のため、そして幸せな日本人家族のため、若者をしっかり磨いて有能な人材に育てよう。

筆者:篠田 芳明

JBpress

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