国産ロケットH3に宿る「ロケットの父」糸川英夫氏の哲学、その原点となった「母の教え」とは

2024年6月17日(月)5時55分 JBpress

 2024年2月、宇宙航空研究開発機構(JAXA)は国産ロケット「H3」の打ち上げに成功した。日本の宇宙開発を担うJAXAのルーツを遡ると、かつて東京大学にあった糸川英夫氏の研究室にたどり着く。その糸川氏を長年間近で見続けてきたのが、2024年2月に著書『国産ロケットの父 糸川英夫のイノベーション』(日経BP)を出版した田中猪夫氏だ。「国産ロケットの父」と称される糸川氏のイノベーションの源泉について、田中氏に聞いた。(前編/全2回)

■【前編】国産ロケットH3に宿る「ロケットの父」糸川英夫氏の哲学、その原点となった「母の教え」とは(今回)
■【後編】マスコミからの厳しい批判を鎮静化、「国産ロケットの父」糸川英夫氏が生んだ“突拍子もない発想”
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JAXAにも受け継がれた「専門家を束ねるための理論」

──田中さんは著書『国産ロケットの父 糸川英夫のイノベーション』に登場する「組織工学研究会」で事務局運営を務めていたとのことですが、糸川英夫氏との出会いはどのようなものだったのでしょうか。


田中猪夫氏(以下敬称略) 糸川氏との出会いは、糸川氏が創設した「組織工学研究会」のメンバーに紹介を受けたことがきっかけです。私は研究会の活動に興味を持ち、事務局員として10年間、糸川氏と共に活動してきました。

 糸川氏というと、戦前は「戦闘機」、戦後は「国産ロケット」を開発したイノベーターとして知られていますが、ロケット研究から身を引いた後には、創造型組織を研究の対象にしました。

 ロケットという一つの大きなシステムを構築するためには、専門の異なるさまざまな領域の人が互いに協力しなければなりません。しかし、それぞれの分野が全く違うため、話をまとめることは困難を極めます。そこで、専門家を束ねるために重要な役割を果たすのが「システム工学」です。

 いくつものロケット開発のプロジェクトに取り組んだ糸川氏は、このシステム工学の分野では日本のトップクラスの人物でした。そのDNA(ミーム)は、今のJAXAにも脈々と受け継がれています。

──田中さんはどのようなキャリアを歩まれてきたのでしょうか。

田中 私は大学を中退後にIT企業を創業し、約10年経営していました。糸川氏の組織工学研究会に入会したのはその頃です。その後、イスラエルとビジネスをはじめ、現地企業の日本進出に携わり、次にデジタルマーケティングやグローバルリスクマネジメントの領域に携わりました。振り返ると、10年ごとに仕事を変えています。

 どのような仕事においても、自分が描いたキャリア通りに進むことは稀なことです。私も仕事で成果を出していたものの、買収などによって何度もどん底に突き落とされました。

 しかし、どの仕事に就いても一定の成果を出し続けることができたのは、糸川氏が提唱する「システム工学」が私のバックボーンにあり、状況に合わせてすぐに方向転換できたからです。


国産ロケットの父から学ぶべきは「ポータブルスキル」

——糸川氏が提唱する「システム工学」はどのような理論なのでしょうか。

田中 システム工学の内容は多岐にわたりますが、理論ではなく「ポータブルスキル」(業種や職種が変わっても持ち運びができるスキル)と捉えると分かりやすいでしょう。

 例えば、世界中で活躍しているユダヤ人は、「創造力」というポータブルスキルを活用してあらゆる環境に適応しています。糸川氏も同様に、システム工学をポータブルスキルとして活用し、戦闘機や脳波記憶装置、麻酔深度計、バイオリン、ロケットの開発など、あらゆる分野でトップまで登り詰めました。

 一例として、ロケットのような複雑性の高いプロダクトを必要最小限のシンプルな形にしてアプローチする「ゴールの法則」があります。これは、確実に動く「単純なシステム」から「複雑なシステム」に変遷させてしていく方法で、未知の領域でも複雑なプロダクトやシステムを開発する上で役立ちます。

 本書では、糸川氏の提唱する様々な理論について、事例を交えながら解説しています。

——「ゴールの法則」については、糸川氏が中心となって開発し、日本のロケット開発の起点となった全長23cmの「ペンシルロケット」が連想されます。そもそも糸川氏が「国産ロケットの父」と呼ばれるのは、どのような理由からでしょうか。

田中 糸川氏自身は人工衛星を打ち上げていないことが、その理由といえるかもしれません。糸川氏は1967年に航空宇宙研究所のあった東京大学を退官しており、その3年後、糸川氏の弟子にあたるメンバーが人工衛星「おおすみ」の打ち上げを成功させています。つまり、糸川氏自身が人口衛星を打ち上げなかったからこそ後進が育ち、大きな成果を上げられたということです。

 さらに、その弟子の弟子にあたる川口淳一郎氏(現・JAXA宇宙科学研究所 シニアフェロー)や國中均氏(現・JAXA宇宙科学研究所長)が、2003年に小惑星探査機「はやぶさ」を成功させています。

 はやぶさは長い苦難の末、小惑星「イトカワ(ITOKAWA)」に着陸してサンプルを取得した後、2010年6月に無事帰還しました。世界初の地球・小惑星間の往復飛行の達成であり、世界初のサンプルリターンの成功例として広く報道されています。

 小惑星「イトカワ」の命名にもドラマがありました。元々は米マサチューセッツ工科大学の小惑星研究チームに命名権があったのですが、かつて糸川氏が所属した東京大学宇宙航空研究所(現・JAXA)の後輩たちが権利を譲り受け、「イトカワ」と命名したのです。

——「国産ロケットの父」と呼ばれる理由には、引退後にも宇宙開発の現場に影響を及ぼしていることが関係しているのですね。

田中 そうですね。糸川氏が人工衛星を打ち上げずに東大を退官したことは、結果的にその後のさまざまな成果につながりました。

 また、JAXAが新しいことに挑戦する人材を輩出し続けている要因も「DNA(ミーム)は伝承され、糸川氏が不在だったこと」にあるといえるかもしれません。糸川氏が宇宙開発から引退したことによって、弟子たちが多くの成長機会を得ることができたのだと思います。


短期間でイノベーションを生む「人生24時間法」

——ペンシルロケットは1955年の誕生後、わずか数年で高度200kmを超えて電離層に到達したことで世間を驚かせました。短期間でイノベーションを実現した背景には何があったのでしょうか。

田中 そこには糸川氏が提唱する「人生24時間法」が関係しています。糸川氏は目標を決めると、そこに到達するまでの階段を設計するのです。

 例えば、ロケット開発のプロジェクトでは、ペンシルロケットに始まり、ベビーロケット、カッパロケット、ミューロケットという段階がありました。実は、これらはロケット開発を始めた当初から具体的に描かれていたものなのです。

 この他にも、糸川氏が定年後に始めたクラシックバレエの例があります。当時、「東大のロケット博士が62歳でバレエ学校に入学した」とマスコミに騒がれましたが、糸川氏は「帝国劇場の公演に出る」という途方もないゴールを掲げ、黙々と学校に通いました。

 バレエでは片足を高く上げる必要があるため、股関節を柔らかくしなければなりません。ここでは毎日積み重ねた新聞に足を置き、一日ずつ新聞紙を増やして高くすることで、最終的には完全に足が上がるようになりました。結果として、帝国劇場での公演に出演することができました。

 少しずつしか足が上がらないため、他人からは努力していないように見えるかもしれません。しかし、「目標に到達するための最短距離」を考えた数ミリの階段を設計し、毎日10分程度でも続ければ、いつかはその分野のプロになれる、というのが糸川氏の人生の知恵なのです。


糸川氏が戦後にジェットエンジンを開発しなかった理由

——糸川氏は戦時中、戦闘機を開発していましたが、戦後は航空機に使われるジェットエンジンの開発は行わず、ロケットの研究に着手されました。糸川氏がロケットを選んだ背景には何があったのでしょうか。
田中 既に欧米に存在するジェットエンジンの開発に抵抗があったからです。糸川氏のこうした思考を、本書では「反逆の精神」と呼んでいます。

 例えば、零戦(零式艦上戦闘機)を開発した堀越二郎氏は、ドイツの大学で生まれた「プラントルの翼理論」(翼を楕円形に近似する理論)を零戦に実装しました。東京大学でも標準翼理論として教えられ、世界中がプラントルの翼理論を採用する中、糸川氏は「反逆の精神」を発揮して新たな理論に挑戦し、「一直線の翼」を設計しました。この翼は九七式や隼、鍾馗(しょうき)といった戦闘機に採用されています。
 そして戦争が終わり、1951年のサンフランシスコ平和条約の締結後、日本国内でも再び飛行機が開発できるようになりました。ここで糸川氏が考えたのは「飛行機は他の人でも開発できる」「前例がないからこそ、ロケット開発に挑戦しよう」という発想でした。
 もう一つ、ジェットエンジンではなくロケットの開発に進んだ理由として、糸川氏が抱いていたものに「社会的責任(=使命感)」があります。当時の日本国内で航空機の開発に携わっていた人たちは、プラントルの翼理論の採用にあるように、学校で学んでいない未知の領域には行けない、と考えた糸川氏は「日本が世界に後れを取らないためには、自分がロケットを開発するしかない」と決意したと思われます。
 この社会的使命感は、糸川氏の少年時代に培われたものです。糸川氏が小学生の頃、勉強をサボっていたところ「3軒隣の五郎君は耳が不自由で身体が弱いんだから、勉強を教えてあげなさい」「あの子が勉強を聞きに来たときに、あなたが教えてあげられなかったら、かわいそうでしょ」と母親に諭されたことで、勉強に打ち込むようになりました。

 そして、母の教えをきっかけに、糸川少年は成績を伸ばし、家に訪ねてくる友人の五郎君に勉強を教えるようになったといいます。母の言葉が「自分しかできないから、自分がやるしかない」という社会的使命感を育み、糸川氏を動かし続けていたわけです。
——反逆の精神や社会的使命感が糸川氏のイノベーションを生んでいたのですね。

田中 H3ロケットが誕生する以前、H1ロケットに使われているエンジンは米国のライセンスを受けて作られていました。つまり、元は米国製でした。これでは零戦と同じで、海外の技術を活用している分、そこから生まれるイノベーションにも限界が生じます。

 一方、自分たちで考え、新たに生み出した技術やアイデアは成長し続けます。事実、糸川氏は新たに生み出した分野で数多くのイノベーションを連発しました。たくさんの失敗を重ね、全て自分たちの頭の中で理解できているからこそ、イノベーションを生み出し続けられるのだと思います。

【後編に続く】マスコミからの厳しい批判を鎮静化、「国産ロケットの父」糸川英夫氏が生んだ“突拍子もない発想”

■【前編】国産ロケットH3に宿る「ロケットの父」糸川英夫氏の哲学、その原点となった「母の教え」とは(今回)
■【後編】マスコミからの厳しい批判を鎮静化、「国産ロケットの父」糸川英夫氏が生んだ“突拍子もない発想”
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筆者:三上 佳大

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