ご成婚30年、写真で振り返るあの日の雅子さま

2023年6月30日(金)6時0分 JBpress

(フォトグラファー:橋本 昇)


ご成婚パレードに合わせるように上がった雨

 1993年6月9日、梅雨空の皇居前通りは多くの人々で埋め尽くされていた。現在の天皇・皇后両陛下のご成婚の日。これからご成婚パレードが始まるのだ。皆、心配そうに空を見上げていた。朝からの雨は止みそうにない。

 取材ポイントには我々に混じって海外から派遣されたカメラマンも大勢いた。海外メディアの日本の皇室への関心は高い。当時の皇太子浩宮殿下とキャリア官僚雅子さんのご成婚は海外メディアのトップニュースだった。

 そもそも日本は海外の人間にとって昔も今も一度は訪れてみたい憧れの国だ。

 というわけで、ご成婚取材でやって来たカメラマンたちもテンションが上がっていた。

 そして待つこと2時間。皇宮警察に先導されたロイヤルカップルのオープンカーが坂下門方向から進んできた。何とそれまでの雨も上がり、あたりには薄日も差している。

「どうかお二人がこちらを向いてくださるように」と念じながらピントを合わせる。緊張の一瞬——。残念‼ 皇太子殿下が向こうに手を振られ、雅子妃だけがフレームに収まった。

 その瞬間、私の隣にいたカメラマンがバランスを崩して脚立から転がり落ちた。


お妃候補

 小和田雅子さんという女性が浩宮のお妃候補として週刊誌やスポーツ紙にスクープされたのは1987年が終わる頃のことだった。突如お妃候補として登場した魅力的な女性に週刊誌各誌の取材は過熱していった。ハーバード大学卒業で外務省勤務という経歴に日本中が沸いたといっても過言ではない。

 しかし、当の雅子さんはオックスフォード大学に留学、さらに追いかけるマスコミに対してお妃候補であることをきっぱりと全否定した。

 その後、雅子さんへの取材はなくなったが、マスコミは次々とお妃候補を見つけてきては取材に押しかけた。週刊誌はお妃内定のスクープ合戦を繰り広げていたのだ。

 そんな中、皇太子浩宮の雅子さんへの思いは変わっていなかった。

 浩宮の意向を受けて宮内庁は動き出す。1992年のことだ。

 1992年2月、宮内庁はまずマスコミ各社に皇太子妃報道自粛の報道協定を申し入れ、隠密に事を運べるようにした。そして雅子さんへの猛烈なアタックを再開した。

 その後の展開は後に報道された通りだ。再会されたお二人は皇太子の熱心なプロポーズによって愛を育まれ、その年の12月にご結婚を決められたという。

 年が明けて1993年の1月6日、この皇太子妃内定をいち早くスクープしたのは日本の報道協定に縛られていないアメリカのワシントンポスト紙だった。ちなみにワシントンポスト紙は外務省に伝手があってのスクープだったというが、それはともかくとして、このスクープの瞬間に報道協定は一気に崩れ、テレビは一斉に放送中の番組を特別番組に切り替えた。

 そしてその日からご成婚の6月9日まで、世田谷区の小和田邸の前は連日報道陣で埋まり、雅子さんの動向はそのファッションと共に逐一ワイドショーなどを賑わしていった。

 その雅子さまフィーバーが最高潮に達したのがあの日のご成婚パレードだった。


変わらぬ仲睦まじさ

 あの日から30年、天皇・皇后両陛下となられた今もお二人は仲睦まじいご夫婦としてお幸せな日々を過ごされている。

 折に触れお二人を取材してきた者として、私はお二人の大ファンだ。

「殿下にお幸せになっていただけるように、そして、私自身もいい人生だったと振り返られるような人生にできるように努力したい……」

 と、ご結婚内定の記者会見で雅子さまはお気持ちを述べられた。

「僕が一生全力でお守りしますから」という陛下のプロポーズの言葉はあまりにも有名だが、その約束を30年守り続け雅子さまの療養生活も支えてこられた陛下と、その愛に応えてこられた雅子さま。

 30年という時を共に歩まれてきたお二人のお姿は、今もあの日のままにお幸せそうだ。

(編集部より:筆者が撮影した多数の写真がJBpress本記事の「フォトギャラリー」でご覧いただけます)

筆者:橋本 昇

JBpress

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