成功を収めた経営者が、陥りがちなワナ

7月14日(土)10時45分 プレジデント社

SCREENホールディングス 社長 垣内永次

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■「やりたいことを、やってやろう」


会社を一気に大きくしたい、あれもこれも手がけたい、すべてを自前で揃えたい——それなりの成功を収めた経営者が、陥りがちな罠で、つまずいた例は数多い。半導体基板の洗浄装置で圧倒的な世界シェアを持ち、高機能のパソコンとプリンターによる卓上出版でも先端をいくSCREENホールディングスの垣内流は、その3つの罠と、真逆の道を歩んできた。




SCREENホールディングス 社長 垣内永次

1995年4月に米国駐在から帰国し、2000年7月に2度目の米国勤務に就くまでの5年余り。京都市の本社で、新設した調達部と、その役割を引き継いだマーケティング部で、その第一歩を記した。40代前半のときだ。


上司の役員と相談してやったのが、世界で競争相手だったイスラエル企業の、最先端カラースキャナーの輸入販売。自社のブランド名にして売ることができるOEM方式にするため、イスラエルへ飛び、交渉を重ねて実現した。


だが、明治元年の印刷業の創業以来、OEMで売った例はない。しかも、スキャナーは主力製品だ。技術者は「お前は、何をやっているのか。勝手にやれ」と怒った。営業部隊も「何で、競争相手の製品を、売らないといけないのか」と騒いだ。でも、お客のニーズがそこにあり、自社に適した製品はない。だから、「お客は喜ぶぞ。その後で、もっといいものをつくればいい」と説得する。売り出すと大ヒット。それから、自社でも同様の製品をつくり始めた。


屋台骨に育った半導体製造装置でも同じだが、システムの全部を自社でつくろうとせず、必ず必要となる付加価値の高いものを手がけ、あとは他社製品と組み合わせればいい。それが、欧米市場で激戦を経験した垣内流の結論だ。日本企業に根強い自前主義と、一線を画す。


米アップル製のパソコン「マッキントッシュ」(マック)を使った卓上出版でも、米国発の技術革新に後れをとり、対応した装置ができていなかった。だから、ライバルのカナダ企業の製品を、OEMで持ってくる。


自前主義と早々と決別したのには、やりたいことをやる、小さくても人と違うことをやりたいとの気構えが、背中を押す。


調達部の前に3カ月だけ海外営業部で欧米課長をしたが、その前はオランダの子会社に1年半と米国の子会社に5年半。オランダで地域に馴染み、やりたいことが出てきたとき、京都の役員から電話が入り、「明日か明後日の飛行機に乗り、米国へいけ。向こうの会社で、いろいろやってくれ」と言われた。



89年9月、シカゴに本社を置く大日本スクリーンアメリカの米国西部地区担当の副社長として、カリフォルニアの販売拠点へ赴く。営業地域はハワイを含めた15州で、5、6人の営業担当と10人ほどの営業技術者のほか、サンフランシスコなど数カ所に自宅を事務所にする営業マンもいた。半年後、近くにあったエンジニアリング子会社の社長も兼務する。こちらは日本から装置の半製品を輸入し、組み立てて売っていたが、装置は時代の波に乗り遅れ、もう閉めるとの結論が、ほぼ出ていた。


翌年夏、出張で帰国した際にエンジニアリング会社をつくった副社長に「どうしますか」と尋ねると、「もうちょっと存続させたい。好きなようにやっていい」と返ってきた。「好きなようにやっていい」は歓迎で、「他人と同じことをやるのは嫌だ。日本ではやれないことをやろう」と思い、マックに対応した応用ソフトの開発会社に衣替えすることに決める。


開発チームのリーダーは、ヘッドハンティング会社に探してもらい、ボストンへ飛んで面接した。5つ年下の男性で、技術的な水準はわからなかったが、「新天地でチームを率いて新しいことをやりたい」との考え方が、自分と似ていた。


2年程度の開発期間を見込んだが、マックと自社製品をつなぐソフトが、2年足らずで完成する。「好きなようにやっていい」と言った副社長を京都から招き、パッケージ箱のデザインを3種類みせて、「どれがいいでしょうか」と選んでもらう。自分で言うのも妙だが、ちょっと感動的な場面だった。


■学んだロシア語で、「ソ連市場」を開拓


ソフトは米国のお客よりも、卓上出版の普及が遅れていた日本で喜ばれ、すごく売れた。やりたいことをやる、という垣内流に合った推移だが、やはり特異な経験だ。これを見届けて、販売会社の仕事に専念する。


「自適其適」(自ら其の適を適とす)——人は本心に適ったことを、自らに適したものとして追求すべきだとの意味で、中国の古典『荘子』にある言葉だ。他人の評価に引きずられることなく、自適を目指せと説き、OEMでもソフトの開発でもやりたいことを貫いた垣内流は、この教えと重なる。


1954年4月、和歌山県金屋町(現・有田川町)に生まれる。父は郵便局で働きながら、母とミカン畑も手がける兼業農家で、兄と妹の5人家族。中学時代は昼は野球部、夜は天文学部で、指導教師がいて伝統的に流星を観測していた。県立耐久高校から、他人があまりやっていない分野で力をつけたいと思い、天理大学外国語学部(現・国際学部)のロシア語学科へ。「自適其適」が始まっていた。


就職でも、ロシア語を活かそうと、シベリアの木材を輸入していた北海道の会社に入る。東京・木場の出張所に勤め、ソ連(現・ロシア)で丸太の検品と買い付けをした。ところが、木材不況が続き、会社が撤退を決めたので転職を決断。81年4月に、ソ連進出を模索していた大日本スクリーン製造(現・SCREENホールディングス)へ転じた。海外営業部に新設された共産圏担当の営業4課で、ソ連などの市場開拓を担当する。



当時のソ連は、印刷物や複製物に厳しい規制がかかっていたから、政府系や共産党系の限られたお客の実情を知る機会も、少ない。いまから思えば初歩的な開拓手法だが、自分でロシア語に翻訳したカタログで展示会を開き、集めた名刺をもとに、日本から資料を送るなどした。


そんな仕事を約6年やり、欧州担当を経てオランダの子会社の社長になる。米国へ転じ、帰国して調達部とマーケティング部の課長、部長を歴任後、2度目の米国勤務になる。この間、コンピューターで処理した画像情報をレーザーで印刷板に直接焼き付ける出力機で、日米の競争相手と協業を実現させる。


2014年4月に社長就任。秋には持ち株会社制へ移行し、その社長にも就く。社長になっても、やりたいことを、やりたい。でも、世界の技術革新の潮流に遅れては、それも無理。だから、すぐに2つのチームをつくり、内外の技術動向と経営環境の変化に関する情報の収集、分析をさせる。


かつて、雪の降るモスクワの街を、お客の話を聞くために重い鞄を持って回った。オランダの子会社の社長になっても、お客から情報を得ることに力を入れた。そういう積み重ねで、競争相手とも率直に話ができるようになり、40代初めに初のOEMを実現させた。いつも「教えを乞う」の姿勢できたからこそ「自適其適」も可能だった。


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SCREENホールディングス 社長 垣内永次(かきうち・えいじ)

1954年、和歌山県生まれ。78年天理大学外国語学部(現・国際学部)卒業後、岩倉組(現・イワクラ)入社。81年大日本スクリーン製造(現・SCREENホールディングス)入社。2005年執行役員、メディアテクノロジーカンパニー社長、11年取締役、14年4月より現職。

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(SCREENホールディングス 社長 垣内 永次 書き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)

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