戦争理論書"孫子"を実践して逮捕された男

8月13日(月)9時15分 プレジデント社

写真=iStock.com/recep-bg

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人間真理も書かれている『孫子』は、男女の駆け引きにも応用できる。そこでプレジデント誌は、作家の架神恭介先生にお願いし、兵法を使った「職場の女性攻略マニュアル」を物語仕立てで解説していただいた。ご紹介したい。

■45歳バツイチ係長が「孫子」を悪用してしたこと


これは『孫子』により、僕の人生が一変するストーリー……。




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僕の名前は山田たかし。45歳。中堅企業の係長。バツイチ。腹はだらしなくたるみ、毛髪はまばらに薄れ、家と会社を往復する毎日。そんな日々に慣れきっていた。もうドキドキすることなんて何もないと思っていた。そう、あの時までは……。


高音葉奈(たかねはな)さん。入社2年目の新人で、退屈だった僕の日常を劇的に変えた運命の女性。部署をまたいだ飲み会で初めて彼女を見た時、僕の鼓動は脈打ち、顔は恥ずかしい程に真っ赤になった。20代の頃の若かりし血潮が騒ぎ出したんだ。


けれど、高音さんの隣には朗らかに笑いかける男がいた。伊集院ひろし。26歳。一流大卒のイケメン。彼女と同じ部署で社内ではちょっとした有名人だ。若手のホープで、この年で社運を左右するほどのビッグプロジェクトに関わっている。昨年ようやく係長になったばかりの僕とは天と地ほどの差があるエリート超人……。


明るく笑い合う2人の若者を見て、僕は意気消沈して飲み会を途中退出した。高音さんと伊集院が特別な関係にあることは明らかだった。ハハ、お似合いの美男美女だ。


けど、肩を落としながらの帰り道、書店の前を通りかかった時、僕の目に一冊の本が飛び込んできた。『孫子』——。古代中国の兵法書だ。現代でもビジネスシーンにその教えが応用されているという。


何の気なく『孫子』を手に取り、パラパラとページをめくった瞬間。まるで雷が直撃したかのような衝撃が僕を襲った! そして、直感的に悟ったんだ。孫子はただの戦争理論書ではない。これは……恋愛指南書だ! 孫子に書かれているのは人間真理。ゆえにビジネスにも恋愛にも応用可能! 僕はその夜のうちに孫子を読み終え、そこから大切な9つのルールを引き出した。そして、この日から僕の人生は一変したんだ……。


孫子から学んだ1つ目のルール。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」。戦争は国家の命運を左右する重大事だ。ゆえに何となく戦って何となく負けるようではダメダメだ。僕の場合で言えば、いきなりダメ元の告白などしてはいけない。


まずは敵と自分の戦力差を冷静に比較検討すべし。比較して勝機を見出した時にしか戦ってはならない。この分析には幻想や願望を交えてはならず、冷徹な眼差しで事実のみを直視することが大事だ。僕は厳格かつ冷徹なる眼差しで自分と伊集院の戦力差を分析してみた。


……えーっと、まずルックス。伊集院は若く凛々しくハンサムで身体も引き締まっているな。一方で僕はと言えば、中年で生気に欠け、顔もまずく、腹はたるんでいる。いや、だが、これらは言い換えれば、大人の落ち着きがあり、親しみやすい顔つきで、若者にはない受容力を備えた身体と言えるだろう。うむ、総合的に言って互角だな。



■「孫子」の9つのルールで若いクソ社員をとっちめる


学歴は……伊集院は東大卒で僕は三流私大卒だが、まあ昨今は少子化により大学にも入りやすくなっていると聞くし、概ね同程度と考えて良かろう。仕事上の手腕は……伊集院は遣り手とされているが、まだ年が若く失敗していないだけで、そのうち失敗を連発して、僕と同程度の評価に落ち着くはずだ。となると、これも互角。


こうして、僕は願望や幻想を排除した冷徹な眼差しで、自分と相手とのスペックを順次比較検討し、最終的な結論を出した。……いける! 伊集院恐るるに足らず! 百戦危うからず! 僕は孫子を片手に雄々しく立ち上がったのだ!


伊集院のクソから高音さんを略奪できる勝算は十分にあると分かった。だが、迂闊に攻め込んではいけない。孫子のルール、その二。「兵は詭道なり」。戦争はルールなき騙し合い。恋愛も同じだ!


続いて孫子のルール、その三。「間諜(スパイ)を用うべし」。戦いのカギは情報だ。相手の状況を熟知しておけば様々な作戦が立てられる。伊集院のようなリア充はフェイスブックでの近況報告を欠かさないので、これをチェックすれば仕事上の現況は概ね掴める。……クッ! 高音さんとのステータスが「交際中」になってやがる。死ねばいいのに。


調査の結果(まさか伊集院の日記を一年も遡って読むことになろうとは)、伊集院は今まさにビッグプロジェクトの佳境にあり、お得意様の接待に使える店を物色中であると分かった。そして、心優しい高音さんは伊集院の力になりたいと思っているようだ。僕はこの点に目を付けた。


知り合いを介して高音さんと伊集院に接触した僕は、「接待に向いたお店を紹介する」と2人に持ちかけた。高音さんは喜び、伊集院のクソは何度も僕に頭を下げて、感謝の意を熱烈に示した。愚かな奴だ。


孫子のルール、その四。「虚を衝くべし」。高音さんと伊集院との食事をセッティングしたが、伊集院の目の前でバカ真面目に高音さんを口説く必要はない。事前に伊集院を排除できればそれに越したことはなく、つまり、陽動作戦だ。


孫子によれば、絶対に座視できない地点を攻撃すれば、敵は救援に行かざるを得ない、その隙を衝くべし、という。なるほどな。


というわけで、僕は伊集院が席を立った隙に、奴のパソコンを強制終了した。画面がプツリと消えて、明日の会議に備えて作り上げられたばかりのプレゼン資料が電子の虚無へと消え去った。トイレから戻った伊集院の悲鳴を背に、僕は高音さんとの約束の店へと向かった。伊集院はこれで徹夜コース決定。朝まで邪魔は入らない。



■若き恋敵を転落させる作戦を敢行するが……


そして、ここで孫子のルール、その五の出番だ。「智者の慮は必ず利害を雑う」。あらゆる事柄には利益となる面と害となる面がある。ゆえに相手に実行を思い留まらせたい時はその害となる面を強調し、逆に実行させたい時は利益となる面を強調するのだ。


僕がすべきことはもちろん、結婚生活の害を高音さんに強調することだ。「数年もすれば粗大ゴミ」「太るしハゲる」「男はまず100%浮気する」など、僕の実体験を元に結婚生活の艱難辛苦を針小棒大に言い募り、「その場の雰囲気に流されたりせず、結婚は慎重に慎重を期して、プロポーズも最低3度は断るべき」「諸葛亮孔明という偉人も3度断ったことで有名」と結んでおいた。よし、これでしばらく結婚は思い留まるだろう。


——そして、翌日。社内はある噂で持ちきりとなっていた。そう、伊集院の浮気疑惑だ。営業部の女の子と二股しているという疑惑が、女子社員の間ですっかり広まっていた。言うまでもなく、これも僕が仕込んだことだ。昨日、清掃のおばちゃんたちにこの噂を吹き込んでおいたのだ。女子社員にはトイレの中で情報交換を行う習性があるので、掃除中のおばちゃんたちの噂話を経由して、この話は瞬く間に社内に広まった。間諜による情報操作ももちろん孫子の教えだ。


「昨日、お店に来なかったのもひょっとして……」


暗く沈んだ顔の高音さんは、きっとこんなことを考えて疑心暗鬼に陥ったことだろう。しめしめ。2人が破局すれば、後は僕が……ウヒヒ、孫子ありがとう!


……だが、2人に破局は訪れなかった。


伊集院は気合の徹夜作業によりプレゼン資料を作り直してプロジェクトを成功させたし、高音さんとの仲も激しいケンカの末にドラマチックな和解を見たようだ。社内での浮気疑惑もいつの間にか消えてなくなり、なんだか2人は以前よりも仲睦まじく、周囲の女子社員たちも歓迎ムードを露わにしている……。


まずい。これはまずいぞ。


伊集院のアホは「その節はお店をご紹介頂き……」などとバカ真面目に感謝の意を伝えに来るし、高音さんの僕の評価もすっかり「親切な上司」で固定され始めている。この「親切な上司」というのは、「良い友達」と同じで、決して恋愛対象には入らないアレだ。まずすぎる。


一体どうすればいいのか。僕は孫子を読み返した。そして、次の一節に出会ったのである。孫子のルール、その六。「兵は拙速を聞くも、未だ巧久をみざるなり」。


戦争というものは続けているだけで一国の経済力を損ない続けるものだ。だから、多少まずい点があっても迅速に切り上げるべきであって、完璧を期して長引かせるなどは愚の骨頂である。



■雪山に出かけて“奇襲”をしかけるも……


恋愛も同じだ。このままダラダラと迂遠な手を使っていては「親切な上司」のまま終わってしまう。多少乱暴な策であっても、ここは一気呵成に勝負をつけにいかねばならない。何か策はないか? 僕は社内カレンダーをめくった。「スキー社員旅行」の文字が見えた。これだ!


孫子の書かれた時代、兵士の多くは徴募された農民であって、彼らは隙あらば軍隊から逃げ出して、おうちに帰ろうとしたという。そういう士気劣悪な軍隊をやる気にさせるために、孫子は軍隊を敵地の真っ只中にこっそりと連れて行くことを推奨した。いつの間にか危険地帯に連れて来られた兵たちは、諦めて全力で戦うしかなくなる。そうして無理矢理にでも士気を高めるのが用兵の極意だという。孫子のルール、その七、「兵を往く所なきに投ずべし」。


ゆえに、これを現代の恋愛に応用すれば、こうなる。


「ごめん、遭難した」


3メートル先も見渡せない真っ白な猛吹雪の中、僕は背後に付いてきた高音さん他数名の若手社員に向かってそう告げた。彼らはアホみたいにポカンと口を開けていたが、ややあって、高音さんが恐る恐る尋ねてきた。


「え? 山田係長は昔スキーヤーで……山のことならなんでも知り尽くしてるから、任せろって……」

「うん。スキーヤーだったけど、それはそれとして迷った」

「え……」

「こうなった以上、一致団結して、避難小屋を目指すしかない!」

「……」


呆然としていた面々の顔が、次第に決意の色に染められていく。死にものぐるいで生還する覚悟を決めたのだ。よし、孫子の教え通り! このイベントを機に僕たちの仲はぐっと深まることだろう、わははは!


「あれ? そういえば伊集院さんは……」


高音さんがキョロキョロと辺りを見回した。


「さあ。途中で帰ったんじゃないかな」


伊集院のアホは先程崖下に蹴り落としておいた。あいつまで一緒に結束を固めやがったら意味がないからな。


よし……。



■なぜ45歳係長は逮捕されてしまったのか


ここで僕は改めて、吹雪の荒れ狂う真っ白な世界を直視した。ここまでは計画通りだ。次は……何とか生還しないとな。ここ、マジでどこなんだろう。ちょっと遠くまで来すぎちゃったか。うう、寒い。なんだか眠くなってきちゃったぞ。


信じ難いことだが……あの兵略を成功させた後も、僕と高音さんの仲は一ミリも進展しなかった。というか、むしろ僕を見る眼差しに軽蔑の色が混じり始めた。雪中行軍の最中、いの一番に失神してしまったせいだろうか。


おまけに崖下に蹴り落とした伊集院が単身で生還しやがった。なんて奴だ。ゴキブリ並みの生命力だ。今は都内の病院に入院しており、高音さんは毎日のようにお見舞いに行っている。


伊集院の入院は長引いており、このままならクビもありうる。それ自体は大変めでたいことだが、困ったことに高音さんが、「私も一緒に辞める」「退院したら一緒にパパの会社を手伝いましょう」などと提案しているらしい。高音さんの実家はちょっとした会社を経営しているのだ。おいおい、名実ともに家族ぐるみの付き合いってか。困ったな。


なぜ高音さんはそれほどまで伊集院に入れ込んでいるのか。浮気疑惑、会社をクビ、全身複雑骨折、ここまで重なってなお伊集院を愛し続けるなど尋常なことではない。奴はどんな卑怯な手で高音さんの心を奪ったのか。


調べてみると、すぐに答えが分かった。仕事上のミスをして落ち込んでいた高音さんを、伊集院のアホタレが優しく慰めた。それがきっかけだったのだ。ぬう、なんと卑怯な。弱っているところを狙うなどと。……いや、だが、これは孫子のルール、その八。「鋭気を避けて、その惰帰を撃つ」だ。敵が万全の状態の時に真正面から攻めるのは馬鹿だ。相手が弱り、動揺している時にこそ攻めるべきなのだ。


なるほど、伊集院の奴も孫子を応用してやがったか。これは絶対に負けられないな。ということは、僕も高音さんを弱らせれば良いわけだ。


何かないか? 僕は孫子をめくった。高音さんを弱らせる最適な戦術を探して……。そして! 僕はその答えを孫子に見出したのだ!


「そんな! 燃えてる! パパの……パパの会社が燃えてる!」


轟々と燃え上がる社屋の前で、高音さんが愕然として両膝を付いた。高音父の会社は紅蓮の炎に包まれ、消防車、救急車が甲高いサイレン音を辺りに響かせていた。


その光景を陰で見つめながら僕はニヤリと笑った。孫子のルール、その九。「火攻めを用うべし」。孫子の「火攻篇」には火攻めの方法やタイミングなどの教えが書かれているのだ。


うわははは、これで伊集院の再就職先は灰燼(かいじん)に帰した。高音さんも絶望のドン底に落ちた。これで高音さんは僕のものだ! 全ては孫子の教え通り! ありがとう、孫子! うわははは、うわーっはははは!


翌日、山田たかしは放火容疑により逮捕された。現在、余罪を追及中である。孫子を実践したはずなのに何が悪かったのか。最後に山田が読み逃していた孫子の一節を挙げておこう。孫子のルール、その十。「利に非ざれば動かず」。作戦を成功させても、そこから確実な利益を引き出せなければ事実上の失敗である。むしろ圧倒的優位なルックスなどを背景に、奇策を弄せず、山田の土俵に一度も上がろうとしなかった伊集院こそ、「戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」(戦わずに勝つのが最善の策)であり、孫子の真の実践者であったのだ。


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架神恭介(かがみ・きょうすけ)

作家

1980年、広島県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。『戦闘破壊学園ダンゲロス』で小説家デビュー。『完全教祖マニュアル』『よいこの君主論』など著書多数。

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(作家 架神 恭介 写真=iStock.com)

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