実名「公表」と「報道」の落差

8月30日(金)6時0分 JBpress

放火された京都アニメーションの第1スタジオに献花に訪れた人(7月26日、写真:つのだよしお/アフロ)

写真を拡大

 7月18日に発生した京都アニメーション放火殺人事件の犠牲者について、京都府警は8月27日、これまで身元が明らかにされていなかった25人分の実名を公表しました。

 これについて、いろいろ議論が取り沙汰されています。大学の情報部署に着任して22年目になる私の観点からは、次の2つがごちゃ混ぜにされているように思われます。

 実名「公表」と実名「報道」です。

 弁護士などが「警察は実名を公表せよ」というのは、捜査が本当に正しいのか、あるいは後々裁判などになったとき、被害者同士が連絡を取れないケースなども一般にはあるので、実名の公表は不可欠という意見からです。

 ここから直ちに、多分多くの人が思い出すのは、2016年7月26日に相模原市で発生した「津久井やまゆり園大量殺傷事件」でしょう。

 この事件では、そもそも警察の発表が「匿名」でなされ、様々な意見が今もって飛び交っている状況です。


相模原障碍者施設大量殺傷事件の場合

「やまゆり園」の事件では、警察は、「家族の意向」などを理由に発表を<匿名>で行うという、極めて例外的な措置をとりました。

 これは、2020年1月8日に始まるとされる、この事件を裁く裁判でも踏襲される可能性が高く、審理の場で犠牲者が匿名という、日本の司法史上でも極めて珍しい事態が発生するものとみられています。

 警察が、犯罪事件の発生後、その捜査によって得られた被害者や犠牲者、あるいは容疑者などの名前を「発表」する背景を考えてみましょう。

 警察は公務員として税金を使って捜査に当たっており、特段の事由、例えば今後の捜査に差しさわりがない限り、きちんと発表する義務がある。

 また、納税者市民は警察の捜査が正しく行われているかチェックする必要がある。そういう観点で、発表されるものと思われます。

 しかし、警察が犠牲者名を「伏せたまま」にするというのと、警察が「公表」した実名を何でもかんでもマスメディアが「実名<報道>」することとの間には、天と地ほどの違いがあります。

 実際、悲惨な事件が起きると、現場に直ちに無遠慮なマスコミ(パパラッチと言った方がいいかもしれません)が入り込み、関係者の事情も心理もおかまいなし、人格を疑うような取材やインタビューがあり、カメラの砲列が容赦なくフラッシュを浴びせかける。

 そっとしておいてほしい、個人情報であるはずの詳細、それは犠牲者の顔でもあるだろうし、様々な事実の断片でもあるでしょう。それが、これでもかとメディアに踊り、かつ、飽きると見向きもしない。

 はっきり言って、最低最悪です。

 各新聞社などは「本社は実名報道原則」と謳っていますが、ちょっと考えていただきたい。

 新聞が今日につながる「実名原則」を打ち立てるのは、一般的に考えて第2次世界大戦後、新憲法になってからで1947年以降のことでしょう。

 すでに72年も前の常識で、実名報道を言っているとすれば、今日のデジタル化したグローバルネットワーク社会の常識と著しく乖離していることを指摘せねばならないと思います。


欧州で強調される「忘れられる権利」

 犯罪被害者の実名が伏せられる分かりやすいケースは「レイプ」でしょう。レイプに限らず、いろいろな事情で名前を出してほしくない刑事事件は様々に存在します。

「やまゆり園」事件の1年後、2017年の秋に神奈川県座間市で発生した連続殺人事件は、その猟奇性や、被害者が希死念慮を抱いていた可能性などから、家族から強い「非公開」の希望が出されました。

 しかし、マスメディアは一切顧慮することなく情報を流しました。

 世間の耳目を集める情報ですから、言ってみれば「営利目的」でプライバシーを犠牲にした典型例でしょう。

 テレビも雑誌も、こぞって被害者の顔写真を掲載、今日のデジタル・ネットメディア上に一度拡散してしまうと、完全に回収することは、ほぼ不可能になります。

「リベンジ・ポルノ」という言葉があります。

 離婚した元の配偶者やかつての交際相手などが、何らかの復讐の意図をもって、元来は公開する意図のない相手の裸体その他の情報、画像、動画その他をネットワーク上に拡散するというもので、一度拡散した情報は完全な回収が困難ですから、とんでもない「私刑」を行っていることになる。

 ストーカー事件などがきっかけとなり、わが国では2014年に「リベンジポルノ防止法」が制定され、今日では、明確な犯罪行為と認定されています。

「ポルノ」までいかなくても、様々な「さらし」と呼ばれる行為がネットワーク上には存在します。

 それらの多くは、個人の情報を本人の意に反して不特定多数に対して公開=さらしものにするもので、行き過ぎたものは当然「個人情報保護法」などによって取り締まりの対象になります。

 こうした傾向の原点は2012年1月にEUで確立された「忘れられる権利」にあります。

「Right to be forgotten」忘れ去られることの権利とは、インターネット上に挙げられた個人情報などを本人がサーバ管理者などに求めて消去させることができる権利で「EU一般データ保護規則」に盛り込まれてから、全世界に普及していきました。

 しかし、マスメディアが不特定多数に向けて公開し、世界の随所でそのコピーや過去ログが記録されてしまうなら、あらゆるサーバにクレームをつけて完全に消去させるというのは、現実問題としては不可能でしょう。

 その情報が本当に必要な人には、後々まで警察発表の実名などにアクセスできるようにしながら、興味本位ののぞき見的なユーザには、一定以上の匿名化によってプライバシーを守るような配慮が、もっときめ細やかになされるべきではないか。

 そう思わずにはいられません。


実名報道さえすれば、それでいいのか?

 話を今回の京都アニメーション放火殺人事件に戻しましょう。

 警察は、事件から2週間が経過した8月2日、まず犠牲者のうち、葬儀などが済んだ10人について、実名の発表に踏み切りました。

 その時点で死亡者はすでに35人に上っていましたが、7月27日に入院先の病院で亡くなった35人目の男性を含め、DNA鑑定が必要な状態で、いまだ身元が特定されていない状態であったとされています。

 これはつまり、DNA鑑定で身元を確かめないと、取り違える可能性があるほど、損傷の状態が激しかったということで、言語に絶すると言わねばなりません。

 そういう大変な状態であった、残り25人の身元が確定し、遺体が家族に引き渡され、葬儀が行われ・・・という経緯があり、第1陣に遅れること25日、3週間以上が経過して、ようやく全員の名前が警察から公表された。

 「公表された」だけで済ませてしまっていいのでしょうか?

 例えば男性と女性の数はどのようであったか。その年齢層はどのように分布しているか・・・。

 全員の性別と享年が分かれば、そこから直ちに上のようなことは検討することができます。実際本稿を書き始める前の時点で、私自身、そうした簡単な分析を行って見ました。これについては続稿で言及しようかと思っています。

 多くの読者は、実名が出た、あるいは匿名のままだ、そうか、そうなんだ・・・といったところで記事を読むことはやめてしまい、次の記事に目を転じてしまうかもしれません。

 私は「実名公開」は必須不可欠、「実名報道」は大きく節度をもって、という考え方ですので、単に名前と年齢を並べるだけでよしとしているマスコミの浅薄な考え方には、非常に強く疑問を感じざるを得ません。

 社会告知という意味で、仮に一度報道することがあったとしても、それ以降いつまでも引きずるべきではなく、必要に応じて「忘れられる権利」の行使も可能な、メディア環境を整えていく必要があるでしょう。

 京都アニメーション放火殺人事件については、「実名」が全くなくとも、公開情報から、いくつか深く私たちが考えるべき「ファクト」が見えてきます。

 そうした「賢慮」こそ、マスコミがもし本来の「社会の木鐸」としての機能をもつというのであれば、大切に考えるべきではないだろうか?

 そう問わずにはいられないのです。

(つづく)

筆者:伊東 乾

JBpress

「実名報道」をもっと詳しく

このトピックスにコメントする

「実名報道」のニュース

トピックス

BIGLOBE
トップへ