16歳少女は糞尿を塗った顔で性暴力を回避した…汚物まみれの船で海を渡り娼婦になった「からゆきさん」の壮絶
2024年9月4日(水)10時15分 プレジデント社
※本稿は牧野宏美『春を売るひと 「からゆきさん」から現代まで』(晶文社)の一部を再編集したものです。
サイゴン在住のからゆきさん(1910年ごろのポストカード、カラーは着色)(写真=生活情報センター『100年前の日本』より/D-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
■120年前、16歳のときに長崎からシンガポールに密航した女性
春代(仮名)がシンガポールに向かったのは16歳の時だった。生前、録音されたテープには、シンガポールへ行くまでの経緯や、密航した船のなかの様子、娼館での労働環境、娼館を出た後の生活などが島原の方言で詳細に語られている。テープの内容を基に作った『戯曲 珈琲とバナナとウィスキー 〜宮﨑康平、からゆきさんの話を聞く〜』(内嶋善之助作、2019年)や、嶽本新奈氏(お茶の水女子大学ジェンダー研究所特任講師)の学会発表資料「シンガポール・マレーシア半島における日本人女性の経験——ある『からゆきさん』の生涯をてがかりに」(2020年)、上記資料と内嶋さんや嶽本氏への取材などから、以下、春代の言葉を伝える。
〈私の父は神経症でしたから働けんでねえ……〉。
貧しかった。家族は父、母、妹ふたり、弟ひとりの6人。父は神経症〔精神性疾患〕のため働けず、春代は10代前半から奉公に出され、島原の揚屋(あげや)〔遊女を呼んで遊興する店〕で下働きをしていた。
16歳の時に母親が死亡すると、家計を支えるのは春代ただ1人に。揚屋の給金では到底足りない。そんな時、銭湯で見知らぬ高齢女性から、「高い給金が出る。遠いところに行かないか」と誘われ、外国行きを決意する。
■密航船で暴行されないように汚物を顔に塗り、身を守った
春代が斡旋する女銜(ぜげん)と呼ばれる男性たちの手引きで、シンガポールに密航したのは1904年。日露戦争開戦の年だ。
春代は、島原の港から24人の若い女性たちと4人の男性と大型船に乗りこみ、石炭などを積んだ船底部分に身を潜めた。この港が口之津(くちのつ)だ。
春代がやって来た当時の口之津は、三井三池炭鉱(福岡県)の石炭の積み出し港でもあった。
春代らが人目につかぬよう、船に乗りこんだのは真夜中だった。
船底はひどい状況だった。暗闇で便所もなく、汚物は垂れ流し。航海は約1カ月続き、世話役の男性が女性たちに性的暴行を加えることもあったという。春代は自分の体に汚物をつけることで暴行から逃れた、とテープの声は語る。
〈私も狙われたですが、「ここでやられて、たまるか」と思うて、そこら辺にあった汚れを手えで顔にぬすくったとですよ。ウジがわいとったば汚ればですたい。それで、私はやられんやったです〉
不衛生だったため、生理の際には陰部にウジ虫がわいたという。
〈月のもんがあっても、あそこに詰めるもんも、拭くもんもなか。小便も糞もあるもんですか。みんなその辺にするわけです。その臭いの臭くないの、お話にならんですよ。船の底は、地獄ですよ。よおう生きとったと思います〉
あまりに劣悪な環境のため、到着までに命を落とした女性もいたという。
■ムシロをかぶって上陸すると、日本人娼館に連れていかれた
春代たちを乗せた船はようやくシンガポールに到着する。密航のためここでも人目を忍ぶ必要があった。夜まで待って迎えに来た小型船に乗り移り、ムシロをかぶって港に上陸した。
女街に「這って行け」と指示され、ムシロをかぶったまま道を這うように進み、ある建物にたどり着く。そこでは風呂と食事が用意されていて、春代たちは全身「熊」のように真っ黒になった汚れを落とし、バナナなどを食べた。その様子を女郎屋から来た年配の女性たちが見て品定めをし、値段交渉の末、春代たちをそれぞれの女郎屋へ連れて行った。春代が連れて行かれたのは、日本人が経営する女郎屋だった。それはマレー街と呼ばれる、日本人娼館が集まっていた通りにあった。
ジェームズ・フランシス・ワレン『阿姑とからゆきさん』によれば、イギリスの植民地のシンガポールでは、移民の増加に伴って1890年代にヨーロッパ、中国系などの娼館が急増。からゆきさんは1905年頃までに増えた。当時109の日本人娼館に633人の娼婦が働いていたとの記録がある。日本人娼館がもっとも集中していたのがマレー街で、109軒のうち32軒が並び、179人の娼婦を抱えていた。マレー街はシンガポールの東岸に位置する通りで、日本人娼館以外にも中国人娼婦の「阿姑」を抱える娼館も多数あった。日本人娼婦は人種によって客を区別せず、料金さえ支払えば、誰でも相手をする用意があったという。
画像=iStock.com/ilbusca
イギリス統治時代のシンガポール(※画像はイメージです) - 画像=iStock.com/ilbusca
■日本人娼館が立ち並ぶ歓楽街で、人種を問わず客を取った女たち
森崎和江『からゆきさん』(1976年)によれば、1909年の「福岡日日新聞」では、現地を訪れた記者がマレー街のからゆきさんの様子をこう描写している。
「家は洋館にして青く塗たる軒端に、123の羅馬(ローマ)字を現はしたる赤きガス燈を懸け、軒の下には椅子あり。異類異形の姿せる妙齢の吾が不幸なる姉妹、之(これ)によりて数百人とも知らず居並び、恥しげもなく往来する行路の人を観て、喃喃(なんなん)として談笑する様、あさましくも憐れなり。衣類は目を驚かす色あざやかに派手なる浴衣をまとひ、ことごとく細帯のみにして、髪は高きヒサシに大なるリボンを掛く」
ガス燈の下に客引きのため集まる色鮮やかな服装の若い女性たち。情景は目に浮かぶが、「恥しげもなく」「あさましく」という表現に記者の視点が垣間見えるようだ。
『サンダカンの墓』(1974年)では、山崎朋子が1973年頃、現地在住の日本人の案内でマレー街の跡地を訪れた様子が描かれている。通りには3階建ての古い建物が並んでおり、案内した日本人によると、日本人娼館に使われた建物の2階、3階には6畳間ほどの広さの部屋があり、トイレや台所は備えておらず、各階に共用のものがあるのみだったという。
夜の通りで華やかに着飾った娼婦たちは、簡素な娼館の部屋で、客を選ばずサービスしていたのだろうか。彼女たちの懸命で健気な姿が伝わってくるようだ。
■春代は多額の借金を背負わされ、「水揚げ」もタダ働きに
春代は女郎屋の主人から衝撃的な「事実」を知らされる。シンガポールに来るまでの旅費や宿泊費、手数料などとして、莫大な額の借金を負わされているというのだ。絶望的な気持ちになり、涙があふれた。
最初の客は現地で商売をする日本人だった。春代には初めての体験だった。「水揚げ」は人気が高く、客は通常より高い料金を払うが、すべて女郎屋が受け取り、春代の取り分はなかったという。
「水揚げ」とは、性行為の経験がない女性が遊廓や女郎屋で初めて客をとることを言う。「処女」は特別で価値が高いものとされ、店にとってはより多くの売り上げが見込めるため重要な位置づけだった。一方で、女性を手荒に扱って傷つけることのないよう、店側は水揚げの客として、経験が豊富な比較的年配の男性を選ぶことが多かったとされる。
これは女性への配慮というより、女性を「商品」とみなし、これから売り出す商品を傷物にされたくない、という店側の意向が働いたとみていいだろう。こうした女性の初体験をありがたがる価値観は現代まで続いており、女性の純潔を第1の価値とする「貞操観念」といった言葉もいまだに残る。
■1回3ドルで働き、「忙しかときは痛かとですよ、あそこが」
春代の客も、年齢は不明だが、妻子や愛人がおり、経済的にも豊かとみられる日本人男性があてられた。その男性は1週間、春代を独占して大金を支払ったという。
〈「借金の分にはならん、タダ働き」と聞いて私はまた泣いたとです〉
春代はそう振り返る。
短時間(ショート)は3ドル、1晩で15ドル。春代は借金を返し、日本に残した家族に送金するため懸命に働いた。アメリカ、イギリス、ロシアなど外国人客の相手もした。春代の肉声テープは、女郎屋での仕事を包み隠さず語る。
〈忙しかときは痛かとですよ、あそこが。それで這うて廊下と階段を行くとですよ。あれが女郎の地獄ですよ。男の棹(さお)は替わっても、ツボはひとつでしょ。もうやっちゃですたいなあ〔ひどいですね〕。私は忘れられん。瓶に入った油ばですね……バスリンというたですかね。ベタベタするとをつけるとです。数の多かときは、汁気がなくなるけんですねえ〉
〈そんなんとを、49〔人〕したよ。わたしゃ、1日ひと晩のうちに。いっペん、そういうことのあった。昼の午前中、9時から。晩のちょつと3時ごろまでな。もうね、泣くにや泣く〉
客が多いときは朝から未明まで、1日49人の相手をした。痛みは、ワセリンを塗ってしのいだ。春代のいう「バスリン」は、ワセリンのことを指す。
〈いくら子どもでン、元気のよか若か娘でン、あそこが「痛か、痛か!」ちゅうてね、感じが変になって、もう説明もできん。ほんなごて、情けなか。いやらしゅうて、今も忘れられん。おそろしゅうて……〉
■梅毒予防のため、ひとり終わるたび局部を洗浄するという重労働
苦痛に追い打ちをかけたのは、性病対策のための洗浄だった。
性病は主に梅毒を指す。
梅毒は日本には16世紀に伝わったとされ、明治期に娼婦への性病検診が行われるようになった。第2次世界大戦後は治療に有効とされるペニシリンの普及で感染者数は減少したが、近年では、2011年頃から増加傾向にある。
当時、性病の蔓延を防ぐため、娼婦はひとりの客の相手が終わるごとに、膣内を消毒洗浄するよう指示された。疲れた体をひきずるように部屋から洗い場のある階まで毎回階段を上り下りすることは重い負担だった。嶽本氏によると、この洗浄が原因で不妊になった女性もいるという。
〈いっぺん、1人ひとり、1人ひとり、階段でしょう。そりやもう立派な階段ですよ。それが上りくんだりで、おまけに熱いお湯に、な。衛生が正しかけん向こうは〔娼館は衛生がすべてだから〕。やかましかっですもん〉
■客と娼館のために性病検査を受け「馬のような」扱いをされた
娼館が、娼婦に毎回の洗浄を求めたのは、週に1度、医師によって行われる性病検診に引っかからないようにするためだった。娼婦はひとり1冊、日記帳のような帳面を渡され、月経周期やいつ客を取ったかなどを細かく記録させられた。医師は検診で問題がない場合はそれにサインし、客も安全であることの証明として帳面を見せるよう求めていた。
牧野宏美『春を売るひと 「からゆきさん」から現代まで』(晶文社)
〈1週間にいっぺん、検査ですけん。な、そして、ちょうどこう、日記帳みたいなっとば、1人ひとりに渡してあっとです。医者が1週間にいっぺん検査すっとに必要の帳面がね。ちょうど日記帳、こまんかブックが1丁渡してあっとですよ。それ〔帳面〕がものをいうとですたい、女郎にはな。客が威張って出せって言う。〔帳面を見て〕「はい」って言うてから、オーライって言うてから、……馬んことやらす〉
前掲『阿姑とからゆきさん』によると、性病検診は、軍人や船乗り、クーリー〔“苦力”中国人労働者〕らが性病にかかり、蔓延することを防ぐことが目的だった。性病が蔓延すれば軍人や労働者は働けなくなるため、軍や社会が機能不全に陥る恐れがあるからだ。このため性病は検診によって厳重に管理され、娼婦が性病にかかっているとわかると、娼館が営業停止になるなどペナルティを受けたとされる。
検査の負担やペナルティなど、犠牲を強いられるのは常に女性の側だった。
【参考記事】毎日新聞 「1日で49人の相手を…」 過酷な労働、波乱の人生赤裸々に 「からゆきさん」肉声テープ発見
※後編に続く
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牧野 宏美(まきの・ひろみ)
毎日新聞記者
2001年、毎日新聞に入社。広島支局、社会部などを経て現在はデジタル編集本部デジタル報道部長。広島支局時代から、原爆被爆者の方たちからの証言など太平洋戦争に関する取材を続けるほか、社会部では事件や裁判の取材にも携わった。毎日新聞取材班としての共著に『SNS暴力 なぜ人は匿名の刃をふるうのか』(2020年、毎日新聞出版)がある。
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(毎日新聞記者 牧野 宏美)