いま松山城を見られるのは奇跡に等しい…ドラマ「坂の上の雲」では描かれない明治政府の城郭に対する無関心

2024年9月8日(日)18時15分 プレジデント社

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」公式ページより

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なぜ現存する天守は12しかないのか。歴史評論家の香原斗志さんは「明治政府は、『城=陸軍の軍用財産』としか見ていなかった。それにそぐわない城は廃城となり、取り壊されていった」という——。

■「坂の上の雲」の舞台・松山城が辿った数奇な運命


近代国家として歩みはじめ、日露戦争に勝つまでの明治日本を描いた司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』。それをNHKが映像化し、2009年11月から11年12月まで足かけ3年にわたって放送されたスペシャルドラマ「坂の上の雲」が再放送される。


NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」公式ページより

ドラマの中心人物は秋山真之(本木雅弘)、秋山好古(阿部寛)、正岡子規(香川照之)の3人。それぞれ慶応4年(1868)、安政6年(1859)、慶応3年(1867)に、伊予国(愛媛県)の松山藩士の家に生まれ、秋山兄弟は軍人として、正岡は文学者として歩んだ。


そして秋山真之は、のちに連合艦隊先任参謀として、日露戦争における日本海海戦での勝利に貢献する。


ところで、3人が生まれたころ、戦争のための施設といえば城だった。実際、「広辞苑」で「城」を引くと、真っ先に「敵を防ぐために築いた軍事的構造物」と書かれている。だが、明治政府が軍事力の強化を目指す中で、城の意味も価値もあり方も大きく変貌した。


3人が生まれた家の原点である松山藩の居城で、四国を代表する城でもある松山城(松山市)を中心に、九州を代表する城としての熊本城(熊本市中央区)も交えて、明治を迎えた日本において、城がどのように変貌したのかを見ていきたい。


■取り壊し願いを出された天下の名城


従来の城は、それまでの藩を廃して県を置き、薩長を中心とした政府を中央集権的な統一権力にした明治4年(1871)の廃藩置県によって価値を失った。だが、2年さかのぼる明治2年(1869)、大名が治めていた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還させた版籍奉還を機に、城の維持が困難になる大名が現れていた。


大名の領土で、それを治める統治機構でもあり、一定の政治的および経済的独立性をたもっていた藩は、版籍奉還によってたんなる地方の統治組織になった。また、大名であった藩主は、政府の地方官である知藩事となった。結果、領土の防衛と統治のための施設である城は、存在意義を失った。


それだけではない。藩は領土から得られる独自の財源を失ったため、城の維持管理に多額の費用を投じることが困難になった。このため、城の取り壊しを願い出る藩も現れた。それも天下の名城と謳われた名古屋城(名古屋市中区)と熊本城で、知藩事が取り壊しを願い出たのは象徴的であった。


名古屋城はこの記事では割愛するとして、熊本城に関しては、明治3年(1870)に細川護久が知藩事に就任後、「熊本城ヲ廃堕シ以テ臣民一心ノ徴ヲ致シ且以テ無用ヲ省キ実備ヲ尽サン」という願書が太政官に提出されたのである。


しかも、この願書は許可されたのだが、結局、熊本城が「廃堕」されなかったのは、廃藩置県後に状況が変わったからだった。


■「廃城」となった松山城


廃藩置県によって、各地で城郭を維持していた組織が消滅すると、維持管理する主体を失った城は荒廃していくしかなくなった。各地の城はいったん、兵部省陸軍部(改組後は陸軍省)の管轄下に置かれたが、当時、事実上の城である陣屋や要害を加えると、城は全国に300以上もあったから、陸軍省には到底管理しきれない。


そこで明治6年(1873)1月14日、明治政府は俗にいう「廃城令」を発した。それは2つの太政官達(太政官が交付した法令)のことを指した。すなわち、陸軍省に向けて発せられた「全国ノ城郭陣屋等存廃ヲ定メ存置ノ地所建物木石等陸軍省ニ管轄セシム」と、大蔵省に向けて発せられた「全国ノ城郭陣屋等存廃ヲ定メ廃止ノ地所建物木石等大蔵省ニ処分セシム」だった。


要するに、全国の城を陸軍の軍用財産として残す「存城」と、普通財産として大蔵省に処分させる「廃城」に分け、両省に通達したのである。


このとき「存城」とされた城は、領土を統治する機能は失いながら、軍事施設としては継続して使われることになったが、「存」という語は従来の施設を保存するという意味ではなかった。陸軍に必要なら、改変しても破壊しても構わなかった。一方、「廃城」となった城の多くは、建造物が次々と払い下げられ、堀は埋められ、石垣や土塁は撤去され、城地は次第に市街化していくケースが多かった。


ちなみに、熊本城は存城となったが、松山城は、江戸時代の景観が良好に残っている現況からは信じがたいが、廃城となってしまった。


■西南政争に耐えた熊本城


軍事的な機能が維持された「存城」は、当然ながら、戦争の舞台となることが前提とされていた。その代表例が熊本城だった。


明治10年(1877)の西南戦争に際しては、熊本鎮台が置かれていた熊本城に政府軍が籠城。西郷隆盛に率いられ東京をめざす薩摩士族1万3000人を迎え撃った。その二百数十年前、関ヶ原合戦は終わってもふたたび天下の争乱が生じる可能性を考えた加藤清正が、高石垣を複雑に張りめぐらせ、常識はずれなほど堅固に築いたこの城は、50日を超える攻防戦で、敵兵を一歩も入れずに持ちこたえた。


田原坂の戦い。左が官軍、右が西郷軍(画像=「鹿児島新報田原坂激戦之図」小林永濯画、明治10年3月/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ただ、攻防戦の前に不幸が生じた。籠城が決まった5日後の2月19日、本丸御殿の周辺から出火し、本丸御殿や大小天守のほか、五階櫓や三階櫓をはじめ多くの建造物が焼失してしまったのだ。


熊本城は明治21年(1888)、陸軍第6師団司令部が天守台に置かれ、大正6年(1917)には、第6師団司令部の新庁舎が落成するなど、その後も「存城」として機能し続けた。しかし、一方で、西南戦争の火災を免れた西竹之丸脇五階櫓や飯田丸三階櫓などの多くの建造物が、陸軍の手で順次、破壊されてしまった。「存城」であっても、貴重な歴史的建造物の価値は、まったく考慮されなかった。


■公園になって破壊を免れた


熊本城は幸か不幸か、終戦まで「城」すなわち「軍事施設」としての機能を一部であれ維持した。だが、近代的な軍事組織を整備するなかで、「存城」とされた城が、次第に時代遅れと認識されるようになっていったのも事実である。


結果として、明治22年(1889)に存城のうち19城が、旧藩主および自治体に(静岡県葵区の駿府城のみ静岡市に)払い下げられている。これらのうち、山形城(山形県山形市)と高田城(新潟県上越市)、駿府城は、ふたたび兵営要地として陸軍省に献納されたが、残りの大半は旧藩主が自治体に譲渡し、公園となった。公園として整備するために、城の遺構が破壊されることもあったが、公園であるかぎり市街化される危険性はなかった。


一方、「廃城」となりながらも、早い時期に公園になったために破壊されずに済んだのが松山城だった。


実際、松山城は廃城に区分され、大蔵省の所管に移された。そうなった時点で、建物が競売にかけられたうえで払い下げられ、城としての景観を一気に失うケースが多かった。


だが、松山城が幸いしたのは、廃城となった翌明治7年(1874)、本丸と二の丸が愛媛県に払い下げられ、聚楽園と称される公園になったことだった。県が城地を一括管理したため、現存する天守をはじめ、数多くの建造物が残り、江戸時代の景観が一定程度たもたれたのである。


■子規の俳句の世界がいまに残る


松山城はその後も紆余曲折があった。明治17年(1884)、山麓の二の丸と三の丸は遅ればせながら陸軍省の所管となり、事実上の「存城」となった。そして、外堀内側の三の丸は歩兵第22連隊の駐屯地となったため、明治20年(1987)に聚楽園は廃園となってしまった。だが、本丸は大正12年(1923)に旧藩主の久松家に払い下げられ、そのまま松山市に寄贈されたため、その後、放火や戦災による建造物の消失はあっても、良好な景観が維持されている。


ちなみに、松山城が陸軍省の所管になったころ、「坂の上の雲」の主役たちはみな東京にいた。秋山好古は陸軍大学校を卒業し(明治18年)、参謀本部に勤務しはじめていた。弟の真之も、大学予備門経由で海軍兵学校に入校(明治19年)。正岡子規も、大学予備門経由で帝国大学に入学していた(明治23年に哲学科に入学後、国文科に転科)。


だが、子規は明治24年(1891)に、離れた東京から「松山や 秋より高き 天守閣」の俳句を発表している。廃城となっても公園化によって天守の破壊も免れた。だから、子規はこの俳句を詠むことができたのである。


いずれにせよ、秋山兄弟が軍人としてキャリアを重ねた時代、軍に翻弄されたのが、元来が軍事施設でもある城だった。そんななか翻弄されながらも幸運の連鎖を重ね、正岡子規の俳句に詠んだ景観をいまも味わえるのが松山城である。


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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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