宮澤ミシェルが「言葉と教育の道」に進んだ理由

9月9日(土)11時0分 Forbes JAPAN

プロサッカー選手としての道を極めた後、様々な分野に活躍の場を広げる彼らの言葉から、新たな「働き方」や仕事への向き合い方のヒントを探る。今回お話を伺うのは宮澤ミシェル氏。

1963年生まれ、1986年に日本リーグ(Jリーグの実質前身となったリーグ)のフジタ工業サッカー部へ入団。1992年、Jリーグ参入を控えたジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)に移籍し1995年までプレーした。現役引退後は解説者、さらに2010年からは浦安市の教育委員会委員としても、メディアから教育の場まで幅広く活躍している。宮澤氏は引退後、どのように活躍の場を広げていったのだろうか。

──今でこそよく聞かれるようになった「セカンドキャリア」という言葉ですが、宮澤さんは現役時代、セカンドキャリアというものを意識されていたか、お聞かせいただけますか?

僕がサッカー選手になった当時は、Jリーグもまだなく、その前身となる日本リーグでプロ契約とアマチュア契約の選手が並存していた時代でした。(所属した)フジタからは最初、プロ契約での打診をいただいていたんですが、プロになりたい気持ちと引退後への思いが錯綜して、「一年目だけ会社の仕事を経験したい」と、アマチュア契約を結んでいました。

営業事務部に配属され、午前・午後それぞれどちらかが練習、どちらかが仕事という毎日。先輩の食事に夜遅くまで付き合うと、翌日の練習が大変で…「これが社会人だな」と思いながらも、これでは練習が中途半端になりそうだと、8か月ほど経った頃に「プロ契約にしてくれないか」と相談しました。

ところが「自分でアマチュア契約を選んだんだから」と断られ、その後、仕事と両立しながらレギュラーをとれた一年目の冬にプロ契約に。するとこれまで仕事に充てていた時間をトレーニングなどに充てられるようになり「この時間をどう使おうか」と考え、本を読みはじめたり、英語を学んたり資格を取らなければならないと思うようになるなど、セカンドキャリアについて考えはじめるようになりました。ただ実際は、目の前のトレーニングに集中することが多かったですね。

──ジェフへ移籍後に迎えた1993年のJリーグ開幕。当時の熱狂はすごかったのではないですか?

全てが変わりました。ただ、「このまま続かないぞ」という冷静さを持って見てはいましたね。

当時は毎週2回試合(延長戦・PK戦も有り)があるというハードなスケジュールで、リハビリと試合を往復するような日々。体は、サッカーができないようなボロボロの状態でしたが、その舞台に立てたことには感謝の気持ちしかなかったです。ブームというものがこうやって起きるんだ、こうやって人の気持ちは熱狂して行くんだと体感できました。

──引退後は解説業を中心に、メディアでのお仕事を広げられていきましたが、もともとそういうお仕事に関心はあったのでしょうか?

解説者というのは、サッカー選手に対して時に厳しく言わなければならない仕事。だから、実はやりたくなかったんです。でも僕は国籍(父親がフランス人、母親が日本人)の問題もあり、子どもの頃からずっと「言葉」に救いを求めていたし、実際に励まされたことも多かった。だから番組を通した「言葉の発信」には興味がありました。



現役引退直後は何をやるにも踏ん切りがつかず、解説のお仕事も二度断っていました。もう1年プレーできないものかとも考えてみたりと、立ち止まっていた時間です。そんな時にもう一度声をかけていただき、チャレンジしてみた。すると「ミシェルが言うと角が立たない。もっと言っちゃって!」と色んな人に評価された。そこから本格的に取り組むことにしました。

──チャレンジされてみて、どうでしたか?

選手時代には、国籍が問題で出られない試合もあって悔しい思いもしましたが、解説の仕事で、ワールドカップ、南米選手権、ヨーロッパ選手権、オリンピック……いろんなところに行くことができて夢のようでした。

最初はあまりやりたくなかったことも、チャレンジしてみたら世界が開けた。新しい自分に会えたんです。だから今の若者には、「機会があるなら隣の県でも隣の国でもなんでも行け」と言っています。人生はそんなに長くない。人間、どこかへいくチャンス、人に会えるチャンスがあるならば、必ず進んでみた方がいいんです。

また若い選手には、日本サッカー協会から依頼されてインタビュー研修も行いました。石川遼選手、谷亮子選手、北島康介選手などの魅力的なインタビューを参考に、「カメラのレンズを意識して喋るのではなく、その向こうにいる何万人という視聴者意識して喋るんだ」と、インタビューの意味から答え方までを指導していました。

──その後解説業にとどまらず幅広くメディアで活躍されていますが、現役の選手達に道を示したいという思いもありますか?

選手が引退後、ファーストキャリアの延長のまま食べていける道を作らなければ、と思っていました。メディアに出ることで「解説者で食っていける、こういう道もあるぞ」というのは見せていけたらと思っています。

解説以外にも、サッカー選手の引退後の道としては、教員、営業職、開業など、様々な道ができています。実は、現役選手には、日本サッカー協会を通じて新しい道で活躍している元選手と繋がれる体制もあります。僕の元にも相談が来たりしますよ。

──浦安市教育委員会の委員としても活動されていますが、教育分野への興味はいつからあったのでしょうか?

ずっと、学校の先生に憧れがあったんです。小学生の頃、周りに外国人がいなくていじめられる僕に、先生は「お前のことを評価してくれている友達もいっぱいいるんだぞ」と言葉をかけてくれた。また、サッカーをやめようとしていた中学生のときには、大学卒業したてのサッカー上手な先生がチームの監督になり、「この先生を超えて、日本のトップになってやる!」と続けることができた。

なんども学校の先生に助けられた経験があったから、教育にはずっと関心を持っていました。

──就任のきっかけはどのようなものですか?

現役引退後、浦安市の前市長とサッカーの”チームづくり”について話していた際に「教育委員をやってみないか」とお話をいただいたのがきっかけです。

教育の現場を経てきた教育委員会の方からすれば、僕は教育についての知識も経験もありませんが、サッカーを通して知った、チームの話や世界の話をするんです。例えばドイツはどのように10年かけて世界一を取り戻せたか。それは育成に力を入れたからです。「周りの選手たちのために手伝う」「人のために頑張る」などと、少年時代からメンタルを変えていくことで、プレーやチームが変わっていく。こうして、サッカーを通して見てきたことは、教育の面に置き換えることができるんです。

僕は、教育委員をやる前からサッカースクールなどで毎年20〜30校を回っていたのですが、教えるときにはまず、アクティビティなどをして生徒に「楽しい」と思わせることを大事にしていました。楽しく、明るい気持ちになると、するとちょっと面倒なことも前向きに取り組んでくれるのです。



だから地域の校長先生が集まるような場で「読み書きはもちろんですが、”楽しいこと”を教えて、小学校が面白くてしょうがないところにしてください」と話すこともあります。必ずしも正解ではないかもしれないけど、教育現場じゃないところから見た視点が、先生たちのヒントになればと思っています。

──教育の面で、今後実現されたいことがあれば教えていただけますか?

スポーツを通して、「ルール内で頑張ること」「人の心の痛みがわかること」「人付き合いができる」「自分の感情をコントロールすること」などを学んでほしいですね。人の気持ちに触れなくても子どもは成長しますが、触れながら育つと人生の充実度が全く違います。スポーツをやることで人間的に潤った子どもが育てば、いい社会になっていくと思います。

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