東京ドーム800個分の山でも稼ぐ…和歌山限界集落の"校長室"で暮らす30代夫婦に小中高生500人が会いに来る訳

2024年9月18日(水)10時15分 プレジデント社

剣道の世界選手権で2位になった末永真理選手と夫の将大さん - 写真提供=末永将大

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和歌山県の山の中の小さな集落に、世界2位の35歳の女性剣士がいる。挫折を味わいながらも3度日本一になった実力者に稽古をつけてもらいたいと静岡や埼玉など遠方の小中高生が駆けつけている。フリーランスライターの清水岳志さんが移住先での夫との仕事ぶりや暮らしを取材した——。
写真提供=末永将大
剣道の世界選手権で2位になった末永真理選手と夫の将大さん - 写真提供=末永将大

■世界屈指の女性剣士が「和歌山の限界集落」へ移住したワケ


パリ五輪が開催される2週間ほど前の7月7日、イタリアのミラノで“銀メダル”に輝いた女性がいる。末永真理さん(35歳)は剣道の世界選手権個人戦決勝で敗れたものの世界2位になった(2018年の同大会も準優勝)。


真理さんは2012〜13年に全日本女子選手権連覇後、14年から4年連続3位といったんは後退するが、19年には2位に、そして22年には9年ぶりに日本一に返り咲いた。


勝負の世界で9年という“優勝ブランク”を埋め復活を果たしたことは偉業と言っていい。またこの間に3年ごとに行われる世界選手権にも日本代表として出場。日本は国別団体戦で4度世界チャンピオンに輝き、主要メンバーとしてチームに大貢献した。


今年も世界選手権出場を果たし、「5回目出場」は日本人初。こちらも大記録だった。


日本だけでなく世界を引っ張る剣道エリートだが、その稽古場は想定外の場所にあった。


真理さんは大阪府で生まれ育った。両親が剣道をやっていて、父は著名な剣士で5歳のとき幼稚園年長組ですでに竹刀を握っていた。高校はPL学園に入学する。同校は野球だけでなく、剣道でも名門中の名門。在学中もインターハイで準優勝するなど、活躍した。ちなみにマエケンこと前田健太(デトロイト・タイガーズ)投手とは3年間クラスメイトだったという。


「お互いに強い部活ということで意識してました」


片や甲子園、片やインターハイで日本一を目標に掲げ競い合った。


PLを卒業して、父親が奉職していた縁もあってやはり剣道の名門、大阪府警に勤務する。府警では特別訓練員の一人に指定され、業務として剣道を午前午後と取り組んでいた。


試合のないオフの期間は制服を着て勤務することもあって、週1回の当直の時は夕方5時半から朝まで勤務した。受付で遺失物拾得の届け出を受けたり、電話の交換手をしたり、女性の相談に乗ることもあった。また機動隊に異動した時に、G20サミットがあって関西国際空港での重要な警備も担った。


2019年、主将として世界大会の団体で優勝を果たすが、以降の代表メンバーから外されてしまう。


「自分としてはまだいけると思っていたのに実力が足りず、すごく悔しい思いをしました」


そこに20年からのコロナ禍も重なる。


「世代的にも上になって大阪府警で現役選手としてやってる人は少ないうえにコロナになって、竹刀を振るのも禁止になった。稽古ができない間に弱くなってしまったら代表への道は閉ざされる。稽古のできる環境にいきたかった。剣道をしたいという気持ちが一番でした」


警察官を続けていれば指導者になる道もあって、生活は安泰だったかもしれないが、他にもやりたいことを経験するのも悪くない、と思い切って21年に警察官を辞める道を選択する。32歳のことだ。


惑う時間の中、傍らで支えてくれたのが中学校の剣道の大会以来、顔見知りだった将大さん(36歳)だった。21年、大阪府警を辞めた後、すぐに結婚した。


将大さんは大学を卒業して東大阪の父が営んでいた福祉の会社「キューオーエル」に就職した。そして一般社団法人の「み・ゆーじ」の代表理事を務め、子供たちの放課後デイサービスや障害者支援をしてきた。「み・ゆーじ」という名は“みんな夢実現”という言葉の頭文字から付けた。


ある時、子供たちのキャンプを企画した時に探し当てたのが、廃校になっていた和歌山県白浜町の旧市鹿野(いちかの)小学校だった。


■コンビニまで車で20分の限界集落でいかに稽古に励んだのか


白浜は将大さんが小学生時代に習っていた剣道の先生の出身地(田辺市)で、当時よく来ていた。久々に訪れて廃校を含めて改めて環境の良さを気に入って、2017年、ここに就労支援B型事業所「ハピラブ」をオープンすることを決断した。白浜町では最初の廃校活用事例で、介護と福祉の共生社会を根本理念にした。


撮影=清水岳志
将大さん - 撮影=清水岳志

2人は住まいを完全に白浜に移し、この廃校をさらに活用し、横展開していく。まず、2021年7月に宿泊所として廃校ホテル「Neast Side」(ニースト・サイド)をオープンしたのに続き、8月に就労継続支援B型の障害者就労支援「ハピラブ」を開所。2022年3月には「カフェはぴらぶ」を開店した(現在はメニュー刷新などで休業中)。23年からはハピラブ訪問介護の事業所も正式に立ち上げた。就労支援施設、ホテル、カフェ、訪問介護事務所と事業を広げていったのだ。


写真提供=末永将大
廃校になっていた和歌山県白浜町の旧市鹿野小学校 - 写真提供=末永将大

そして22年夏からは神事や神棚で使うサカキの製作販売も始めた。元は地元の人が作っていたが、その人が病で障害を負って、ハピラブを尋ねてきたのがきっかけで、事業を引き継いだ。


自生するサカキを山に入って採取し、葉の汚れを落としたり長さをそろえて束にまとめたりして製品にする。ここでつくったサカキは京都の祇園祭で使用される由緒あるものだ。新規販売地域を開拓中で、今後、将大さんが手掛ける事業の根幹になるかもしれない。


写真提供=末永将大
サカキ - 写真提供=末永将大

また、移住支援のアドバイスもする。青森県から剣道をしていた障害者が真理さんのユーチューブの映像を見て問い合わせがあって3月に正式に移住してきた。移住者はすでに4人いて町営住宅、空き家での暮らしを始めている。


この施設は白浜といい地名とは異なり、海辺にはない。海から車でもかなり時間がかかる山の中だ。役場の出張所、派出所、消防の屯所、郵便局もある基幹集落だが、コンビニには20分かかる。


「大阪に出るのは大変です、電車がないので。コミュニティバスは一日に2、3本。電車の接続のいい田辺駅に行くのにも40分ぐらいかかる。高速道路はつながってるんですが……」と真理さんは笑う。


結婚は自ら望んだものだが、剣道エリートの真理さんにとって将大さんとの生活は“誤算”でもあった。


大阪に出てくるには高速を使っても車で1時間半の“限界集落”に住むことになったからだ。都市部の道場での稽古機会が激減し、日々の相手は夫ということになった。


実力がある将大さんも真理さんと同じ超がつく負けず嫌い。勝負形式の稽古が始まると、2時間近くも向かい合うこともある。


■埼玉、静岡など遠方の小中高生のべ500人以上が「指導してほしい」


現在、2人は廃校の校長室だった部屋で暮らしている。廃校の広さは800坪ほど。白浜町の所有する財産で土地鑑定士が入って、評価額から計算される格安の金額で町と賃貸借契約を結んだ。


写真提供=末永将大
二人が暮らす廃校 - 写真提供=末永将大

2階部分が宿泊施設、1階のもともとの職員室がカフェ、理科室が就労の部屋、保健室が訪問部屋、給食室が調理部屋として使っている。一つの「箱の中」で認可をいろいろ取って事業を展開しているわけだ。耐震基準を満たした建築であると認められて、各部屋にほとんど手を入れる必要がなかったことは幸運だった。


「Neast Side」と「カフェハピラブ」の看板(写真提供=末永将大)

宿泊は39人定員、布団は50組ぐらいを用意した。合宿料金が3食で1泊6600円だ。真理さんに「剣道の指導をしてほしい」と埼玉、静岡などの遠方の小中高校が合宿で訪れるなど、これまでのべ500人以上が宿泊しているという。なかにはPL時代の先輩が先生をしている学校もあるそうだ。今年も7、8月の夏のシーズンに9団体が利用した。


昼間はホテルに20人ほどの従業員が出入りする。障害を持つ人々もサカキ作りなどをするために集まる。立ち上げ当初は2人で宿泊者の大量の食事を用意したが、今は調理技術のあるスタッフも加わってくれた。


夜は障害者の訪問介護をするヘルパー8人が在籍する。将大さんも介護に出ることがある。将大さん、真理さん夫婦は限界集落のハブとなっているのだ。


真理さんの仕事の中には剣道教室の指導もある。「将来的には地域の人も集まって健康教室などにも広がっていけたら」とそんな構想も描く。


畑も耕作放棄地がたくさん出てきて、タマネギ、ニンニク、ネギなどに挑戦中。「草を刈るだけで一苦労です」と将大さんは苦笑いするが、藍栽培をしてみようかといったアイデアもあり、真理さんも有機栽培をしていきたい、と積極的だ。


東京ドームの800個分ほど山林も借りている。山をきれいにするという約束でサカキの木を伐りだしている。


初年度と2年度(2022、23年)は赤字だった。公金からの借り入れと関連会社「キューオーエル」からの借り入れと自己資金で数千万円をつぎ込んでいるという。


「今年度は黒字になります」


将大さんは前向きだ。


福祉、障害者支援はエッセンシャル業務だ。


「この事業、やめれないんですよ。利用者にも人生があるし、働きに来ている人も家族がある。放り出すわけにはいかない。“持続可能な事業体”にまでもっていかないと。やっと固まってきました」


将大さんは、毎日最高に楽しいです、と笑顔が絶えない。


今年4月に近くに住居用の物件が出て契約を済ませた。床をはがし、壁を壊してDIYの真っ最中で校長室から引っ越しできそうだという。


真理さんにはオーストラリア、中国など海外指導の依頼も知人などを通して来ている。また、個人的にスポンサーがついて道着にワッペンがついた。


撮影=清水岳志
末永真理さん - 撮影=清水岳志

稽古環境は恵まれているとは言えないが、そうした場で精進する人をきちんと評価してくれる人はいるのだ。「剣道選手としては私が初めてです。地震予測システムS-CASTを運営する東京の富士防災警備株式会社さんです」



日本生まれの剣道は精神修業の色合いも濃い。お金を稼ぐ手段にはどうかという考えも残って、スポンサーはつきづらかった。競技人口も伸びないという一因にもなっていた。


「世界規模の大会が増えるとか、将来、夢があるほうが子供たちは頑張れる。目標にされるようになったらいいなと思っています」


将大さんも付け加える。


「剣道をもっと知ってもらって下の世代の先駆けになってほしいなと」


夫婦で福祉・宿泊事業などを多角的に展開しつつ、剣道の稽古もぬかりなく、世界基準のビジョンを打ち立てる。現在は、11月3日に日本武道館で開かれる全日本女子選手権での4度目の優勝を目指している。


コンビニまで20分の山の中から〝変革〟は確実に起こっている。武道を極める道に終わりがないのと同じ、2人の目指すものに終わりはない。


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清水 岳志(しみず・たけし)
フリーランスライター
ベースボールマガジン社を経て独立。総合週刊誌、野球専門誌などでスポーツ取材に携わる。
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(フリーランスライター 清水 岳志)

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