雪山登山から考える「あいちトリエンナーレ」

10月1日(火)6時0分 JBpress

ある絵画の展覧会

写真を拡大

「表現の不自由」展問題で揺れる「あいちトリエンナーレ」に設置された、あり方検証委員会から、9月25日「中間報告」(https://www.pref.aichi.jp/uploaded/life/256626_865255_misc.pdf)が発表されました。

 この問題について、発生直後からかなり体系だった解説を記してきた私は、率直に申して最初は全く期待していませんでした。どうせお手盛り委員会で大したことはしないだろう、と。

 しかし、それをよい意味ではっきり裏切る非常に冷静な「報告」が提出され、正直、驚き、また感心しました。

 事実経過が淡々と記述され、それらに妥当な法的評価が付されたうえで、報告書の95ページにあるように、(再開に向けて)として「条件が整い次第、速やかに再開すべきである」と明言していることは、特筆に値します。

 今後の日本の現代美術展のあり方を考えるうえでも、重要な一石になっているように、一芸術人として私はこれを評価します。

 また同時に、この報告書に対するメディアや俗流評論家類の素っ頓狂なリアクション群に、改めて呆れました。

 しかし、ナチスドイツの情宣がまさにそうでしたが、根も葉もないことでも1000回繰り返していれば既成事実になるという「ポストトゥルース」の病を避ける意味でも、何が問題であるかをはっきり白黒、ケジメをつけておく必要があるように感じます。

 さらに、この発表を待っていたかのように、文化庁からの助成金を交付しない由の発表がありました。そんなことはあり得ない、として愛知県は直ちに法廷で争う姿勢を示しました。

 この「助成金交付」「不交付」のやりとりに関しても、メディアには見識あるやり取りも見られる一方、俗流の解説未満を目にしないわけではありません。

 善し悪しと別に、こうした事柄はすべて公金支出に関する「プロセス」手続きが問われます。それは、素人大衆が面白がるようなスキャンダルとは、かなりかけ離れた手続き上の瑕疵が問題にされる議論です。

 お役人的な、ある意味全く退屈でつまらなく見えるかもしれない「手続き」がきちんと踏まれていたかが綿密にチェックされ、その結果を法廷が判断する。

 こちらについては続稿に記すことになりそうですが、すべて基本的な事柄を利害無関係の良心的一芸術人の立場に立つよう努めながら、官費執行の大原則を念頭に、平易に整理したいと思います。


政治家の程度が知れるリトマス試験紙

 皆さん。ちょっと違う例で考えてみてください。

 いまヒマラヤとかエベレストとか、雪山を登山していることを考えましょう。登山隊を「パーティ」と呼びます。パーティには熟達の指導者もいれば初心者も、若者や未成年者も参加している可能性があります。

 山の天気は変わりやすい。

 これは当たり前のことで。直前まで平穏だったのに、いきなり吹雪がやって来るかもしれない。また穏やかな日差しと思っていたら、根雪が溶けかけていて、雪崩の危険性があるかもしれない。

 そんなとき、熟達の指導者はどうするか?

 少しでも、危険な兆候があれば、それを見逃さない。それが指導者というものです。

 リスクが高いのに、そのまま突っ走るなどいうことはあり得ないし、また、いまのうちに急いで難所を越えておかないと、日が暮れてからでは遅すぎると思ったら、大急ぎで出発するかもしれない。

 指導者の最大の責務は、パーティを生還させること。リスクを回避し、全員を無事に下山させることです。

 何が何でも頂点を目指して、結果無謀な山登りで人が死んだり、手足を凍傷で失うことが「目的」では断固として、ない。

 今回の「あいちトリエンナーレ」で、県側が取った判断は、まさにこの「雪山登山」に例えることができます。

 8月1日スタートの直前になって、いきなり、極めて容易に誤解や避難を招くであろう「炎上」型のコンテンツ発信があり、容易に予想される通り、それが炎上しかけた。

 パーティは、直ちに無謀なことを避け、いったん歩みを止めるべき。当然のことです。

 また、もしあらゆるリスクが排除されたなら、本来の目的である登山を続行するのが筋道ですし、やはりリスクが高いとなれば、思い切って下山を決意するのも、指導者の大切な役目です。

 そうした判断を下すうえでの指標として、今回の「中間報告」は過不足なく意味を持つもので、冒頭に明記したように報告書は条件が整えば「表現の不自由展」は再開すべき、との考え方を明瞭に示しました。

 雪山で無理な登山はすべきではない。しかし、条件が整えば速やかに登頂を目指して登山を再開すべきである。

 そこに至る議論の経緯も含め、隠れなく記されており、実に明快です。この委員会ができた当初の報道を目にし、もっとローカルでお手盛りなものになる可能性も予想していたので率直に感心しました。

 それと同時にまた、社会のルールを全くわきまえない妄言も目にしました。


法の基礎をないがしろにしてはならない

 例えば、このトリエンナーレに関係する別の自治体首長の発言として、「とんでもない。勝手にやめて、勝手に始めるなんて大変なことだ」と不快感を露わにしたとの報道を目にしました。

 しかし、こういうのは、ダメです。「勝手にやめ、勝手に始める」ではない。

 リスクがあれば、責任をもって停止する。それが責任者の仕事です。また、状況を精査し、それを公正に評価したうえ、問題がなく条件が整うなら、元来決められたプログラムを再開するのも、至極当たり前のことにすぎません。

「勝手に始める」ではなく「責任をもって再開する」のがトップの務めです。それが分からなかったら、首長などは務まりません。

 もう一つ、「芸術監督一人が悪いのか?」という議論を複数目にしました。

 これは本当にめちゃくちゃで、「美術監督」とかいう初歩的なミスを記す恥ずかしい作文もまだ公開されている可能性がありますので、一応初歩の初歩から。

「美術監督」というのは、演劇などの舞台で、大道具や小道具、背景の書き割りなどを担当するアーチストを指す言葉です。

 これに対して「トリエンナーレ」の芸術監督とは、プログラム全体を構成するシニア・キュレーター、つまりガバナンスの職掌で、個別アーチストの仕事ではありません。

 幾度もこの連載で指摘し、また主要な関係者は当然目にしていると思いますが、いまだこんなレベルのミスが平気で活字になってしまうのは、恐るべきことと思います。

 今回「芸術監督」を務めた人は、ポリティカルなアクティビストとしてネットで活躍する人で、ご本人は「ジャーナリスト」を自認しているようです。

 アーチストを標榜したこともなければ、作品を世に問うたり、それで評価されたり、世間の非難を受けたりした経験は、生まれてから一度もない人が担当していると思います。

 芸術監督は、ガバナーであって、アーチストの職掌ではない。ましていわんや美術監督などでは全くない。

 こういう区別が分からない人は。この問題について解説めいたことを書く前に、まず当たり前の1の1を勉強するところから始めましょう。

閑話休題

 その「芸術監督だけが悪いのか?」という問い、これがダメです。というか素っ頓狂で定義を理解していません。

「勝手にやめて、勝手に始めるなんて」と言った首長もその類で、「津田さん一人が悪者なのか」と報告結果に疑問を呈したというコメントが紹介されていましたが、まともに報告書本文を読んではいないのでしょう。

 これも1の1から整理しておきます。

 ある芸術展に対して、その芸術的な表現内容に関して、すべての責任を一身に負う人、そのガバナーを「芸術監督」という。

 また、その芸術展の実行に関して。予算管理から安全の確保、広報やメディア対応など、ありとあらゆる「縁の下の力持ち」として、制作を担当するのが実行委員会であり、実行委員会の長である実行委員長です。

 公的な展覧会に関して、自治体の首長などがこの「実行委員長」を務める際には、

日本国憲法第21条

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 にあるとおり、国政や県政などに預かる者、つまり自治体首長などの政治家は、決して芸術表現の内容に立ち入ることはできません。

 全96ぺージほどの短い「中間報告書」ですから、何かこれに関してメディアで発言する人は、きちんと一読するべきでしょう。

 子供だって読んでみるといい。中学生程度の読解力があれば、客観的な事実を一つひとつ積み上げ、その都度解釈を確認し、不偏不党の対策を良心的に講じていくプロセスが確認できるはずです。

 トリエンナーレの制作面で、瑕疵や事故、あるいはテロ招来などの事件があれば、それはもっぱら、実行委員会委員長、ガバナーすなわち愛知県知事が責任を問われるでしょう。

 また、コンテンツの表現内容、芸術面での選択や決定、その周知や、国民県民納税者に理解を得つつ今回行事の内容を国際発進していくうえでのすべての責任は、もっぱら芸術監督に帰されます。

「津田さん一人が悪者なのか?」という先ほどの発言は3つの意味で間違っています。

 第1に、固有名詞を上げていますが、これは「芸術監督」という職掌を理解していないのかもしれません。

 第2に「一人が」とありますが、「あいちトリエンナーレ2019」の芸術面での責任は、それを仮託された 一人の芸術監督のイニシアティブを承認することで、悪平等多数決的な没個性ではなく、確かな個性的内容をもって内外に発信するように準備されているわけです。

 ですから、民主的、憲法遵守の順法的な手続きに即して「一人」の提案が重視されましたし、そこで十分なコンセンサスや意見回避措置を取らなかった、あるいは責任ある立場とは思われない「コロス」などの発言も公器に流してしまいましたので、ここでは「一人」の責任を問う必要があること。

 そして第3に「悪者なのか?」という、ある種のイメージをつぶさに喚起させる、下手すれば政治的とも見える表現。

 こういうものは、民意で選ばれ、憲法に即して粛々と政治に責任を持つ人は、口にするべきではない、非常に誤解を招きやすい表現と言わねばなりません。

 これは、誰かが「悪者」だったり、あるいは誰かを「悪者」に仕立てたりするような話ではない。芸術の問題です。

 ある展覧会を開こうとしたが、実質的にプロフェッショナルのキュレーターが不在の烏合の衆が、乱暴な情報を発信したら、当然のごとく混乱がおき、逮捕者などまで出る騒ぎになった。

 当然、いったん止める必要があります。全く未経験の素人である芸術監督が、仮に悪意なく行ったとしても、過失を通じて引き起こした事実は事実であって、その責任は問われねばなりません。

 罪を憎んで人を憎まずとも言います。

 芸術監督には明らかな責任があり、それは芸術監督一人が負うべき表現の本質にかかわる部分での、明らかな失策です。

 それを「悪者」などと言ってはいけません。

 天下国家を統べるガバナーとしては、泰然自若、是は是、非は非と認識したうえで、荒れる雪山の登山道で、落ち着いて、正しく進路を見定め、意思決定していく必要があります。

 進むのも勇気ですが、止まるのも、また下山するのも、大きな勇気です。

 文化庁助成金の交付不交付については。紙幅が尽きましたので続稿別論といたしましょう。ここでも憲法に発する、團藤重光先生にお目にかける念頭の稿を準備したいと思います。

(つづく)

筆者:伊東 乾

JBpress

「あいちトリエンナーレ」をもっと詳しく

「あいちトリエンナーレ」のニュース

トピックス

BIGLOBE
トップへ