"トヨタ以上"でもスバル1500が売れなかった訳

10月9日(水)6時15分 プレジデント社

富士重工(現SUBARU)が初めて開発した国産車「スバル1500」 - 写真提供=SUBARU

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飛行機会社から生まれ変わった富士重工(現SUBARU)は、スクーター販売と同時に自動車開発にも乗り出す。試行錯誤を経て生まれた最初の車は「スバル1500」。なぜ、車は“スバル”と名付けられたのか——。(第5回)

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富士重工(現SUBARU)が初めて開発した国産車「スバル1500」 - 写真提供=SUBARU

■占領が終わり、自動車開発が本格スタート


中島飛行機から分かれた15の会社のいくつかが富士重工として合同したのは1953年のこと。朝鮮戦争の休戦協定が調印されたのと同じ7月である。


戦争特需が日本経済を活性化させたこともあり、町を走るモビリティの種類が変わった。それまでスクーター、オートバイ、オート三輪が主だったが、駐留軍の軍人が手放したアメリカ車を町で見かけるようになった。


ただし、国産車はまだほとんど走っていない。戦前からの御三家、トヨタ、日産、いすゞは生産を開始していたが、主力は乗用車よりもトラックだった。


この年よりも6年前の1947年、トヨタはトヨペットSA型という小型乗用車を発表している。しかし、生産したのはわずか209台だけだった。当時は国産乗用車には生産制限があって、GHQから許可されたわずかな台数しか生産できなかったのである。


しかし、占領が終わり、1950年代の中ごろを過ぎると、「業務用やタクシー用のセダンが欲しい。それも新車が欲しい」という消費者が現れてきた。


そこで、国内の自動車会社は乗用車の開発、生産に乗り出すのだが、まだ自力で開発できる自信はなかったようで、業界の大勢は外国メーカーとの技術提携を選んだ。


1951年には三菱重工がアメリカのカイザー・フレーザー社と提携して、ヘンリーJの組み立て生産、いわゆるノックダウンを始める。1952年には日産がイギリスのオースチンと提携して、53年にオースチンA40を生産。同年には日野自動車がフランスのルノー公団とルノー4CVを出す。


さらに、いすゞがイギリスのルーツ社と提携して、ヒルマンミンクスを出した。自社の技術で純国産の乗用車を開発したのはトヨタと富士重工の前身、富士自動車工業くらいのものだった。



■飛行機エンジニアに舞い込んだ「自動車の設計」


伊勢崎の富士自動車工業が小型自動車の開発を始めたのは1952年だった。担当は後にスバル360、スバル1000を開発する百瀬晋六(ももせしんろく)、現在の自動車製造ではスタンダードになっているモノコック構造をバスボディに持ち込んだ男だ。


富士自動車工業でバスボディの設計に明け暮れていた百瀬は、ある日専務の松林敏夫に呼ばれた。


「百瀬、実は自動車をやりたいんだ。研究を開始してくれないか」


百瀬には否も応もない。


「ほんとかな。ほんとにやるのかな」とも思ったけれど、かつては世界水準の飛行機を作っていた技術者である。中島飛行機出身の技術者たちのなかには「自動車なんて、飛行機に比べれば簡単だ」という、自動車設計に対する侮りを口にする者もいた。しかし、それでも技術者ならば、「ドンガラ」と呼ばれたバスのボディより、自力で動く自動車を作りたい……。自動車設計は彼らが飛行機の次にやりたかった仕事だったのである。


■素人が乗るものだからこそ難しい


飛行機設計のプロ集団、百瀬たちのチームは自動車設計の研究に取りかかった。すると、自分たちの考えがいかに甘かったかを痛感したのである。


百瀬は当時、こう語っている。


「飛行機、バスとやってきて、自動車屋になった。試作してわかったことはクルマというのはずいぶん難しいものだなということです。自動車は個人が所有する個人の道具なんですね。そして自分で毎日のように運転し、調整や掃除をする。とても身近な動的道具です、だからユーザーは自分のクルマがよく分かっている。


作る方だって同じです。自分で作ったクルマは自分で欠点がよく分かる。だから、ユーザーはクルマを可愛(かわい)がってくれるけれど、不満が尽きないのですね」


つまり、飛行機もバスも鉄道も運転するのはプロだ。一方、自動車は素人が操作する。素人の行動、素人の好みが分かっていないと売れる自動車を作ることはできない。


自動車もまた糸川が飛行機設計について、鋭く言ったように、「いい車とはドライバーが乗りたくなる車」なのである。


■文献探し、外車の視察、他人の車のスケッチまで


百瀬たちが「P-1 パッセンジャーカー1」と名付けられた初めての試作乗用車の開発を始めたのは1951年末からだった。


百瀬以下、誰も自動車の設計をしたことはなかった。しかも、彼らは外国の自動車会社と技術提携もしていない。ありていに言えば彼らには金がなかった。外国の自動車会社に払う高額なライセンス料はどこを探しても出てこなかったのである。


つまり、自力で設計、開発、生産技術の確立をしなければならない。百瀬は部下と一緒に上京し、東京の洋書店、神田の古書店、国立国会図書館へ通い詰めた。


銀座の洋書店「丸善」では業界では名著として知られていたイギリスの専門書『オートモーティブ・シャシー・デザイン』を手に入れることができた。百瀬はそれをページが擦(す)り切れるほど読み込み、自社で初めての自動車設計に挑んだ。



また、日比谷にはGHQが運営していたCIE図書館があり、そこには自動車の技術に関する洋書、文献が多数、納められていた。そういった原書もまた読み込み、かつ、書き写した。


そして、図書館へ行った帰りには芝浦にあったヤナセや赤坂にあった外国車販売会社のショールームをのぞき、アメリカ車を観察したり、写真で撮影したり、公道に外国車が駐車していたら、下回りを見るために車の下までもぐりこんでスケッチをしたこともあった。


時には、駐車していた自動車の持ち主が戻ってきて、ほうほうの体で逃げ出したこともあったという。


■なぜ、「スバル」と名付けたのか


同じころ、東京の杉並にあった機械試験場で「フォルクスワーゲンの分解調査ができる」と業界関係者から知らされた。百瀬は部下を連れて飛んでいき、自動車の構造が分かるまで、ひとつひとつ部品を丹念に調べた。


こうして、P-1の設計、試作は進んでいった。資料を読み込み、現物を見て分解するだけで、一台の車を作ってしまったのだから、中島飛行機で航空機を作っていたエンジニアの力量はさすがというほかはない。


1954年2月、P-1の試作車ができあがった。20台近くも作られたのだが、そのスペックはエンジンが1500cc、6人乗りで最高速度が100キロ、48馬力。翌55年に市販されたトヨタのトヨペットクラウンとほぼ同じ仕様で、馬力も同じだった。


トヨタの技術陣はフォードで教わったことをもとに自動車の開発に携わっていた。自動車のトップ技術者であり、現場の体験も積んでいた。


一方、百瀬以下のチームが行ったのは文献研究と分解調査だ。彼らが持っていた武器といえば飛行機の設計と製造技術だけなのに、クラウンと並ぶ性能のクルマを作ってしまったのである。


日本興業銀行出身だった富士重工の初代社長、北謙治はP-1の試作車にほれ込んで、「売れる」と確信した。そして社内で名称を募集する。「パンサー」「フェニックス」「坂東太郎」といったネーミングが候補に上がっていたのだが、いずれも没(ボツ)にして、自ら「スバル1500」と名付けた。


15に分かれたうち合同した主な6つの会社が合同してできた富士重工を表すために、6つの星が印象的な星団(プレアデス)の和名「すばる」を取った。


■「クラウン以上」なのに開発中止が決定


北は56年に急死するのだが、その後、同社は新車が出るたびに「スバル360」「スバル1000」とネーミングした。ちょうどBMWが数字だけを車名につけたように、すっきりとした考え方だったのだが、なぜかレオーネ以降はスバルという車名をやめた。


しかし、2017年からは会社名を富士重工からSUBARUに変えている。スバルという名前に愛着を持つ同社の社員や熱心なユーザーたちは社名変更で満足したのではないか。



さて、それほど出来がよく、しかも、社長もほれ込んだP-1だったが、55年12月、伊勢崎製作所で行われた四輪車計画懇談会議の席上で開発中止が決まった。社内の話し合いで淡々と決まったように社史には載っているが、当時のOBに言わせると、百瀬と部下の技術者からなる「百瀬学校」チームは悲憤慷慨(ひふんこうがい)したという。


「オレたちはクラウン以上のクルマを作った。そして、クラウンは売れている。なぜうちはスバル1500を出さないのか」


そう言って、経営陣に詰め寄った若い技術者もいた。現在、太田の工場に保存されているスバル1500の試作車を見ると、実にスタイリッシュで洗練された形だ。


初代クラウンがだるまのような、ずんぐりした形をしているのに比べて、スバル1500は飛行機デザインのようにも感じられる。車内のスペースは広いのに、車体は大きくは見えないのである。


だが、会議の結論は変わらず、スバル1500は幻のクルマとなった。


■「日産があれば富士重工はいらない」


会議の様子を聞いた、あるOBは言う。


「興銀が新車は出すな、売るなと命令したわけです。当時、富士重工の経営トップは興銀の人間です。業界では富士重工とは呼ばずに、『興銀自動車部』という人間もいたくらいですから。


興銀にとっては生産設備や販売に莫大な資金のいる新しい乗用車なんかを作られては困るのです。だいたい、興銀は当時、日産にいれあげてました。『日産があれば富士重工はいらない』という興銀の役員もいたくらいです。ですから、富士重工に出す金なんて1円もないんですよ。


あの頃、興銀の人間は威張ってましたからね。『東大を出て、富士銀行に入るやつなんかは人間のクズだ。銀行は日銀と興銀だけでいい』と言った興銀の人間もいたんですよ、実際」


このOBが言っていることは半分以上、当たっている。興銀にとって、富士重工に出す金はなかった。


■解体の危機にある中、融資は不可能だった


これより5年前のことだ。トヨタが経営危機に陥った時、日銀の名古屋支店長が銀行を集めて、「みんなでトヨタを助けてやってほしい」と、協調しての追加融資を求めたことがある。


その際、大阪銀行(のち住友銀行)が融資を断ったことは知られているが、この時、興銀もまた融資団からは外れている。住友銀行はこのことがあってから長くトヨタと取引できなかったのだが、興銀はトヨタとも取引を続けた。


そして、興銀がトヨタの協調融資を断ったのは、興銀自体がGHQから戦争責任を問われ、解体の危機にあったからだ。そして、興銀が政府系金融機関から普通銀行に転換したのが1950年。トヨタの経営危機の翌年である。



興銀にしてみれば、やっと普通銀行になったばかりだった。すでに自動車を出している日産へは資金を出さざるを得なかったが、スクーターしかやったことのない富士重工の新自動車事業に大きな資金を出すことは不可能だったのである。


■生産できなかったもう一つの“社内事情”


興銀が富士重工の体力を疑ったのも無理はない。トヨタの場合はすでにディーラーという自動車の販売、サービス網を整えていた。乗用車を出せばある程度は売れるという見込みを持っていたのである。


一方、富士重工が持っていたのは「全国ラビット会」というラビットスクーター販売網である。名前こそ「ディーラー」と称していたが、要は自転車屋さん、オートバイ販売店の集まりだ。自動車に関してのプロではなかった。


自動車草創期のクルマは故障も多かったから、ディーラーに修理ができる人間がいなければ、たとえ新車を発売しても、ユーザーから苦情が殺到するおそれがあった。


富士重工の経営陣がスバル1500の生産を見送ったのには、資金が足りないことと、サービス網の整備が遅れていたというふたつの理由があった。


百瀬たち開発陣にしてみれば、「やれ」と言われて新車を作ったのに、お蔵入りになってしまったのは残念至極ということだったろう。しかし、興銀出身の経営幹部たちは社内では威張り散らしていたかもしれないが、彼らの判断の方が正しかった。




1958年に発売され、“てんとう虫”の愛称で親しまれた「スバル360」(写真提供=SUBARU)

生産中止が決まった後も、スバル1500は本社のあった丸の内界隈では見かけることがあった。『間違いだらけのクルマ選び』をヒットさせた自動車評論家の徳大寺有恒は「よく見かけたし、そして、とてもよくできた車だった」と感想を語っている。


「もし富士重工がこの車(スバル1500)を販売していたら、いったいどうなっただろうか。ことによると富士重工は(トヨタ、日産と並ぶ)三強の一角を占めていたか、しかし、もっと本気でこれにかまけていたら、スバル360は生まれていなかったかもしれない」


徳大寺はスバル1500の発売をやめさせた興銀の名前を挙げて「まったく銀行屋なんてロクなものじゃない」とまで言っている。


■クラウン、ルノーよりも評価された「操安性」


この後、スバル1500の試作車は自動車技術会が主催した東京、京都間のロングラン遠乗り会(1956年)にトヨタのクラウン、いすゞのヒルマン、日野のルノーといったクルマと一緒に参加し、乗り心地と操安性(操縦安定性)で最大の評価を得た。


結果を聞いた百瀬は少し留飲を下げた。なんといっても、飛行機技術者として彼が追求したのは中島飛行機にやってきたフランス人技師、アンドレ・マリーが口を酸っぱくして言った「操安性」であり、「搭乗者の安全」だったからだ。



1955年、敗戦から10年が経った。翌年の7月、経済企画庁(当時)から年次経済報告、いわゆる経済白書が発表された。第一部総論の結語には次のような有名な文句が載っていた。


■「もはや戦後ではない」が意味するもの


「戦後日本経済の回復の速さにはまことに万人の意表外にでるものがあった。それは日本国民の勤勉な努力によって培われ、世界情勢の好都合な発展によって育まれた。(中略)貧乏な日本のこと故、世界の他の国々にくらべれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、戦後の一時期にくらべればその欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや『戦後』ではない」


戦後の経済白書のなかでも、もっとも有名な言葉、「もはや戦後ではない」は、前後の文脈を読めば分析というよりも、「もう敗戦意識を引きずる必要はない」というマニフェストだ。


いつまでも焼け跡の気分ではダメだ、これからは成長だ、みんなで幸せになるのだと世間を激励しているかのようだ。


同じ年、百瀬は発売されなかった車、スバル1500を忘れ、軽自動車スバル360の開発に取り組んでいた。


メンバーは前回と同じ百瀬学校の技術者たちで、中島飛行機で飛行機製作に携わったことのある男たちである。「軽自動車」をターゲットに決めたのは前年に発表された国民車育成要綱案(通産省、現経済産業省)があったからだった……。


※この連載は2019年12月に『ヒコーキ野郎が創ったクルマ スバル(仮題)』(プレジデント社)として刊行予定です。



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野地 秩嘉(のじ・つねよし)

ノンフィクション作家

1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。



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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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