東京2020で見えた、国家とアスリートの相克

10月12日(火)6時0分 JBpress

 大谷翔平選手が2021年のシーズンを終え、MVPの最有力候補として取り沙汰されている。

 シーズンを通して投・打の活躍はベーブ・ルースとの対比で語られ、本塁打王には届かなかったものの、最終試合をホームランで締めくくる素晴らしいパフォーマンスも見せてくれた。

 シーズン中の実況放送で現地放送局がしばしば「オオタニに不利な判定」と報じたボークや三振などの〝判定″が見られた。

 かつてはイチロー選手も「不利な判定」で、大記録を打ち立てる寸前で立ち止まらされた。

 ネットでは「(オオタニがMVPに)輝くか否か」は愚問で、文句なしの「受賞」という評論がほとんどのようである。

 オオタニ(やイチロー)の背後に、「日本人に大記録を達成させてなるものか」といった狭量があるか否かは知る由もないが、そうあってほしくないと願いたい。

 スポーツは純粋に楽しむべきであろうが、ワールドカップなどと称されるビッグイベントでは、どうしても「国家」が見え隠れする。

 中でも正真正銘の国家代表たちが集うオリンピック・パラリンピック(以下、五輪・パラ)では、「平和の祭典」と称しながらも優勝すれば国旗が掲揚され国歌が演奏されるとあって、代表たちには「国家」がちらつく。

 東京2020の五輪・パラが終わってすでに1か月以上が過ぎたが、余韻は今でも強烈で、全国紙も折に触れて東京2020の名場面をエッセイ風に取り上げては紙面を飾っている。

 そこで、以下、五輪・パラに「国家」が顔をのぞかせた場面をいくつか取り上げたい。


五輪・パラと国家の問題

 かつて、ニューヨークの国連ビルの前に立ち、加盟国の国旗がずらりと並んでいる光景を眺めながら、地球上にはこんなに多くの国があるのかという思いと共に、平和の合意は容易でないと思ったことがあった。

 ほぼ半世紀前のことであり、その後はソ連の崩壊やアフリカに多くの独立国が誕生したので国家は倍増し、国際情勢は一段と複雑さを増している。

 今回五輪に参加したのは205か国・地域であり、パラは165か国・地域であった。

 地球上のすべての国家が、「平和」を一時たり(約60日間)とも合意の下で得ることができるのは、五輪・パラ以外にない。

 また、五輪もパラも国の貧富を問わず参加できる「お祭り」であるから、記録とは関係なく友情や連帯も生まれる。

 しかし、各人は国家の代表として国家を背負って参加している。

「国家」を意識し、その「重さ」も意識せずにはおれない。逆に言えば、やはり国家が最後の砦であることを認識する最良の機会でもある。

 東京2020では毎日のように記録だけでなく、悲喜こもごもの人間ドラマが繰り広げられた。多くの場面で、国家の代表でありながら国家を乗り越えたパフォーマンスを見せてくれた。

 ビジョンでも「多様性と調和」が掲げられ、ビジョンに違わない素晴らしい場面がしばしば見られた。

 それでも国家が送り出す代表たちの、しかも世界最大のイベントということで、国際情勢や国家の内情が反映してしまう。

 国家がギラギラと表に出ることもあれば、出ないまでも選手の心の中に重しとして存在し続けたことは確かである。

 どの国の選手も、選手紹介時にはユニフォームにデザインされた国家名や国旗マークを指さすことが多い。「自分は〇国の代表だ」というプライドである。

 しかし、し烈な戦いが終わると、お互いにハグし、あるいは握手するなどして場を和ませてくれた。

 パラリンピックはお互いが障害を持つ身で五輪に比べると相互に思いやりの心が働いているように見え、国家をギラギラさせる選手は少なかった。


国家に左右される選手たち

 こうした中で、反日を表立って示したのは韓国(選手団)で、選手村に反日的横断幕を張るなどしたが、IOCから注意を受け、また世界の顰蹙を買った。

 それでも、代わりに準備してきた横断幕を掲げるなど、大人気ないことこの上もなかった。

 福島産の食材は放射能に汚染されていないどころか、世界中から集った関係者が選手村でのおもてなしに満足し、準備された食事に舌鼓を打ったという。

 しかし、韓国だけは福島より放射線量が高いソウルから食材を持ち込み自国の料理人が給した。郷に入っても郷に従わない、全く自己中心の国である。

 韓国以外に反日的行動をとる国はなかったが、国際情勢や国内情勢を反映した行動がいくつか見られた。

 イスラエルとアラブ諸国は基本的に敵対関係にあり、対立する国との試合を棄権する選手がいる。

 アルジェリアの選手は1回戦でスーダンの選手に勝てば、2回戦ではイスラエルの選手との対戦となる。アルジェリアの当該選手は過去にもイスラエル選手との対戦を棄権しており、今回もそのように行動した。

 筆者はハンガリーを旅行した折、中東に位置するイスラエルがバレーボールで東欧の選手と戦っている状況を目撃した。

 その折に確認したところ、イスラエルはパレスチナ問題で対立しているので、スポーツ大会では普段は中東ではなく東欧諸国に組み込まれているとのことであった。

 このことを了解するならば、公平が求められる組み合わせ抽選ではあろうが、最終(優勝)戦でイスラエル陣営とアラブ陣営が対戦するように仕組むこともできたのではないだろうか。

 ビッグイベントでは強豪が最初からぶつからないように組み分けすることはいくらでもある。

 このようにして、最終的にイスラエルと件のアラブの選手が対戦することになった場合、男子走り高跳びで同記録のカタールとイタリアの選手が順位決定戦を行わずに金メダルを分け合ったようにする方法も考えられたのではないだろうか。

 ベラルーシのクリスツィナ・ツィマノウスカヤ選手は女子200メートルに出場予定であったが、同意なくコーチが出場経験のない1600メートル・リレーに登録したとSNSに不満の投稿をした。

 これが当局批判と受け取られ、強制帰国を命じられる。帰国すれば投獄されると帰国を拒否し、ポーランドへの亡命で決着した。

 アフガニスタンではパラ開催10日前にタリバンが政権掌握し、旧政権が送り出した選手たちの開会式入場は叶わなかった。

 しかし、フランス政府の尽力で最終的に日本入国が叶い、参加できた。この2人が閉会式で国旗を掲げて入場したときは大きな拍手が沸き起こった。

 ロシアは組織的なドーピング問題で国家としての参加が認められず、ロシア・オリンピック委員会(ROC) 所属の個人としての参加となった。

 優勝して表彰台の中央に立っても、ロシア国旗の代わりにROC旗が掲揚され、ロシア国歌の代わりにチャイコフスキー作曲の「ピアノ協奏曲第1番」が流された。

 選手は「チャイコフスキーの曲が流れ、変な感じがした。国歌を歌いたかった」と語っていた。

 また、アフガニスタン・イラン・シリア・南スーダン出身などの難民選手団(29人)は祖国を脱出して難民生活を余儀なくされているもので、同様に国旗でなく難民マーク旗で参加した。

 彼らが敢えて参加したのは、祖国に思いを届けるためであった。口々に「祖国を愛している。祖国の平和と人々の幸運を祈る」という思いを語っていたのがその証左である。

 同様に香港と台湾も困難に直面していた。

 フェンシングで張家朗選手が香港に金メダルをもたらすと生中継を見ていた市民から大歓声が起きたという。

 ところが表彰式で香港旗が掲げられながら中国国歌が演奏されると、大ブーイングとなる。

 また台湾は「チャイニーズ・タイペイ」のプラカードで入場したが、NHKは「台湾です」と紹介し、閉会式でも同様であった。

 台湾では「自分の名前で呼んでもらった」と大きな反響を呼んだという。


軍事政権への加担とみなされる危惧

 ミャンマーはかつてビルマと称された。筆者が十数か国の学生と共に米国で学んでいた時、ビルマからの留学生が2人いた。

 よりによって卒業式当日、同国で革命が起き2人は帰国すれば身の安全が保障されない状況となり、取りあえず米国滞在を続けることで一件落着した。

 今次のアフガン政府がタリバンに代わったと同様である。

 このミャンマーで、2021年2月、アウンサン・スーチー氏の民主政権をクーデターで軍事政権が乗っ取る政変が起きた。派遣される選手は心が重い。

 軍事政権には反対であるがスポーツ代表としては参加したい。

 五輪以前の5月、サッカー・ワールドカップ(W杯)アジア予選でミャンマー代表として来日し、3本指を掲げて軍事政権に抗議したピエ・リャン・アウン選手がいた。

 帰国すれば迫害される危険があるとして難民申請し、8月20日に申請が受け入れられた。当人は「日本国民、日本政府、いままで助けてくれた皆様に感謝しています。安心している」とのコメントを出した。

 今は、サッカーJ3の「YSCC横浜」に練習生として参加している。

 五輪では競泳の有力代表候補と見られていたウィン・テット・ウー選手が職場を放棄してクーデターへの抗議を示す「不服従運動」への連帯を示して出場を辞退した。

 こうして同国から最終的に参加した選手は2人になってしまった。

 その一人、バドミントン女子シングルスに出場したテ・ター・トゥーザー選手は「(政治的な質問には)答えられない」としつつも「代表となり誇りに思う」とフェイスブックに書きむと、「ミャンマー人を代表していない」「あなたの成功は国軍の成功となる」などの書き込みが殺到したという。


選手たちにのしかかる国家の重み

「国家の代表」というプライドが奮い立たせることもあり、また重くのしかかる場合もある。

 東京2020の日本選手に関してみるならば、柔道は発祥地でもあり、奮い立った例であろう。逆に水泳・バドミントン・テニスなどは重くのしかかった例かもしれない。

 そうした影響が顕著に表れたのが9秒台を3人も揃えた男子400メートル・リレーではなかったか。

 日本はバトンタッチという技術で世界の強豪たちに立ち向かい、メダルを獲得してきた。

 今回は過去にいなかった9秒台の選手が100メートル個人レースでは一人も決勝に進出できなかった。

 また、個人記録からは400メートルリレーの予選は上位で通過できると見られながら、最下位であった。

 こうしたことから焦りが出て、本番ではバトンの受け渡し(テイクオーバ—)ゾーンから遠めにスタートを切った。

 これが裏目に出て、1走から2走へバトンが渡らず、「途中棄権」という悲劇的ドラマに終わってしまった。

 その他でも、今回の五輪では金メダル確実と予想された選手の銅メダルどころか初戦で敗退するなどの大番狂わせがある一方で、下馬評にも上がっていなかった選手の活躍、特に10代の選手たちの活躍が目立った。

 国家を気にしない結果が成果につながったのではないだろうか。また、新しく取り入れられた種目においても然りである。

 ただ、「国家の重み」とか「国家を感じる」とは言うものの、日本人の感じ方は仲間が支えてくれたと同様に国家が支えてくれたというもので、インタビューではほとんどの選手が「(成果を挙げられたのは)指導者、家族、友人、出身地、そして国の支援のおかげ」と、「感謝」を語っていた。負けても支援に感謝する姿があった。

 ところが個人主義の多くの国の選手は、出身国を明記するなどしたシャツなどを誇らしげに指さし「国家代表」を誇示するが、成果は「自分の努力」であると語る場面が多かったように思えた。


スポーツ選手とメンタル問題

 しかし、1年延期の決定は、選手たちに大きくのしかかったようである。

「命をかけた練習」ももうすぐ終わると思っていたところに、1年延びたのだ。選手たちがよく言う「モチベーションの維持」は大変であったに違いない。

 テニスの大坂なおみ選手がメンタル問題を打ち明けてから、スポーツ界ではアスリートのメンタルにかかわる問題が表面化してきた感じである。

 なかなか表に出し得なかったことを、「見える化」した点では、トップクラスのランキングで人気者であった大坂選手が与えた影響の大きさが分かる。

 その大坂選手も自国の大会に出ることを楽しみにしていたという。メンタル面で問題を抱えていたところに聖火の最終ランナーを打診され、「光栄です」と前向きだったという。

 ところがネット上では、「大坂なおみのせいで何もかもが台無しになった」「なんで日本人じゃないのに?」などの心ない批判が散見された。

 匿名の無責任な批判が精神的な影響をもたらしたのかもしれないが、試合では早々と姿を消した。

 世界選手権で男女を通じて史上最多の25個のメダルを取っている米国のスーパースター、女子体操界のシモーン・バイルス選手が突然の欠場で議論を呼んだ。

「ストレスがかかっていた。無観客という慣れないことがあった。1年延期があった。メンタルが十分じゃないから、仲間に任せることにした」と語った。

 また、「メンタルが健康じゃないと、(体操を)楽しむことができない。弱っているときは、抗うのではなく、そこに対応していくことが大切」とも語った。

 インスタグラムには「時折、本当に、世界の重しが自分の肩に乗っているような気がする。すごくきつい」と投稿。

 ワシントン・ポストの記者は「彼女は汚れたスポーツを救う使命を帯びた英雄であり、ジェンダーと人種までも背負っている」と指摘し、「プレッシャーを受け止めようとしている。それは有害であり、不公平だ」と書いた。

 大坂選手も同様ではなかっただろうか。

 国立精神・神経医療研究センターの小塩靖崇研究員は、「トップ選手たちは長らく、心身ともに鍛えられた存在と位置づけられ、『心の弱さを語ることがタブー視されてきた』」という。

 ようやく国際的な関心が高まったのは競泳で五輪4連覇した米国のマイケル・フェルプス選手が鬱との戦いを告白した2018年頃からだという。大坂選手、バイルス選手と続いたわけである。


おわりに:命より大切なものがある

 東京2020はコロナ禍の状況で開催されたが、開催直前の主要マスコミや多くの国民は「命よりも大切なのか」と問うた。

「命は地球よりも重い」という戦後の日本では、命より大切なものはないことになるが、現実の世界や戦前の日本では「命より大切なもの」がある(あった)。

 人質を救出するために部隊を送り込むのがその例である。一人の人質救出のためにテロ犯はもちろん、救出部隊も多数が命を落としかねない。

「国民」を守る国家意思である。「国土」や「主権」を守るのも基本的には「命」の犠牲を伴う。

 特攻は日本の存続と弥栄を願って自分を犠牲にしたし、三島由紀夫は「無機質な日本」に堕落していくのを警告して自害した。

 オリンピックに関して言えば、実際に期待の重圧に耐えながら、必死に頑張り、直前に重圧に堪えかねて死を選んだのは1964年の男子マラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉選手であった。

 グラウンドで追い抜かれた悔しさ、各種の競技で持ちえた自信などから、「次のオリンピックではアベベに勝つ」と語り、メキシコ・オリンピックについてしばしば抱負を語った。

 他方で持病の腰痛もあり、必ずしも満足な練習ができず、国民との約束と持病の間で苦しむ姿があったという。

 氏は自衛官であり、「宣誓」にもあるとおり、自分の言動に責任を持ち続け、ついに命を代償にしてしまった。

「一生懸命」や「命をかけて」などというが、これは「死ぬくらいの覚悟」で練習し、徹底して自分を追い込むというもので、「死」が本望ではない。

 応援することさえ控えるようにとお触れが出た今次のコロナ禍での大会は異常であった。それでも沿道からは「頑張れ!」の言葉が聞かれたようである。

「産経抄」(令和3年8月1日付)は、よかれと思ってかける言葉の代表格が「頑張れ」であろうが、意に反して相手を追い詰めると書いている。

 そして苦みを覚える一首として岡野大嗣氏の「ならべるとひどいことばにみえてくる頑張れ笑え負けるな生きろ」を紹介している。

 続けて、「頑張れ」とあけすけに書く記者はいないが、「金メダル候補」や「金確実」などの常套句が並ぶが、これは「頑張れ」以上の熱を帯びて知らぬ間に選手の退路を断っていると書く。

 男子バドミントンで世界ランキング1位の桃田賢斗選手はその一人で、1次リーグで敗退し「まだ五輪をやっていたかった」と名残惜しく語ったという。

 また、世界ランキング2位の大坂なおみ選手は「期待が大きくて、重圧に対処する方法が分からなかった」と語っている。率直な気持ちであろう。

 同様な立場にあった人に、トランポリンの森ひかる選手や米国の女子体操選手シモーン・バイルスがいる。ともに優勝できる選手であった。

 森さんは「何年間も生活を犠牲にして、頑張ってきてもこうなってしまうことが現実」で、自分のいない決勝を「もう頑張らなくていいんだな」と空ろな目で眺めたという。

 五輪・パラという世界的イベントに参加するのは栄光であろうが、心の中には支えきれないほどの重みが伸し掛かっていることも確かである。

 それは「国家」であり、なくては困るが、あまりに重すぎても困る。

 こうした一面を五輪・パラと選手の関係を通して考えてみた。

 余談ながら、一つ追加したい。「多様性と調和」は特にパラリンピックが見せてくれたと思う。マスコミも軒並みそうしたことを語り、子供たちには学校特別枠で見せるようにもした。

 ところが、NHK以上に五輪放映に注力した民放各社が、パラを全く放映しなかった。この不思議(言行不一致)がどうしても解けない。

筆者:森 清勇

JBpress

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