年間80公演、連ドラもこなす「プロ顔負け」吹奏楽部

10月25日(木)6時10分 JBpress

大阪桐蔭高校吹奏楽部が東京で行ったキャンディコンサート。中央が梅田先生(筆者撮影)

写真を拡大

 全国の11支部を突破した吹奏楽部30校が集う「第66回全日本吹奏楽コンクール」が10月21日に終わった。参加する高校生たちは「吹奏楽の甲子園大会」ともいえるこのコンクールを目指し日々研鑽を積む。その取り組みはもしかすると高校野球以上かもしれない・・・。

 たとえば、高校野球で全国制覇を遂げた大阪桐蔭高校。甲子園のアルプススタンドで注目を集め、コンクールでは銀賞を受賞した吹奏楽部は、率いる梅田先生を中心にとんでもないミッションに挑んでいた。高校吹奏楽部の知られざる活躍に吹奏楽作家のオザワ部長が迫る。


始まりは薩摩藩!? 意外な吹奏楽の歴史

 皆さんは「吹奏楽」というと何を想像するだろうか? まず浮かんでくるのは中学や高校のころに同級生が入っていた吹奏楽部。加えて、甲子園の応援、といったところか。

 実は、吹奏楽というものは非常に奥が深い音楽である。

 その起源はトルコの軍楽隊にあるとされる。オスマントルコの軍隊が16〜17世紀にウィーンを包囲した際、軍隊の士気を高め、敵を威圧するその軍楽隊の音がヨーロッパに脅威を与え、以後、ヨーロッパ諸国でトルコに倣った軍楽隊が組織されるようになった。それがやがて、ヨーロッパにもともとあった管楽器主体の音楽とも融合し、コンサートでも演奏される吹奏楽へと発展していった。

 吹奏楽が日本に「渡来」したのは、幕末の1853年。皆さんご存じの「黒船」である。アメリカ海軍のペリー提督は軍楽隊を率いて神奈川・浦賀沖に来航。船上や上陸した久里浜で

 軍楽隊が演奏した記録が残されている。ちなみに、演奏した曲は《ヤンキー・ドゥードル(アルプス一万尺)》などだったという。日本の音楽とはまったく違うパワフルでリズミカルな吹奏楽の演奏に、さぞかし江戸時代の人々はびっくり仰天したことだろう。

 その10年後の1863年には薩英戦争が勃発。この戦いで薩摩藩は、イギリス軍が随伴していた軍楽隊の持つ力をまざまざと見せつけられた。また、1867年に江戸幕府が倒れて明治時代が始まると、各藩は西洋式の軍隊の整備が必要となり、薩摩藩は30人ほどの「薩摩藩洋楽伝習生」を横浜に送り、イギリス軍の軍楽隊長であるジョン・ウィリアム・フェントンに管楽器・打楽器の演奏を習わせた。これによって誕生したのが、日本初の吹奏楽団、いわゆる「サツマバンド」である。


プラチナチケット、「吹奏楽の甲子園」

 明治以降、軍楽隊を皮切りにして日本の学校には吹奏楽部が作られるようになり、今では「吹奏楽部・楽団のない町はない」というほど全国に普及している。小学生から大人までがアマチュアのバンドで演奏を楽しんでいるほか、東京佼成ウインドオーケストラやシエナ・ウインド・オーケストラといったプロ吹奏楽団も多数存在している。俗に「日本人の10人に1人は経験者」と言われるが、あながち間違いではないかもしれない。

 そんな吹奏楽界における最大のイベントといえば、やはり吹奏楽コンクールだろう。1940年に「集団音楽大行進並大競演会」として始まったコンクールは、今年で67回目。特に、高校の部は「吹奏楽の甲子園」と呼ばれ、プラチナチケットとなっている。出場するのは、全国で地区大会、都道府県大会、支部大会(47都道府県が12の支部に分かれている)を突破した30の代表校だ。

 高い技術と音楽性を持つ高校生たちの演奏はハイレベル。会場を熱狂の渦に巻き込んだり、感動の涙を誘ったり・・・とまさに「吹奏楽の甲子園」の名のとおりだ。

 その30校の中には、毎年のように全国大会に出場し、優秀な成績を収める強豪の「常連校」もある。年ごとにプレイヤー(=部員)は代替わりするし、コンクールメンバーだけで55人、全部員では200人を超えることもある大集団をマネジメントするのは容易なことではない。

 そんな常連校のひとつに、驚異的な活動を続けている大阪桐蔭高校吹奏楽部と、卓越したマネジメント力を発揮している総監督・梅田隆司先生がいる。


野球だけじゃない、大阪桐蔭高校吹奏楽部が「強い」ワケ

 大阪桐蔭高校吹奏楽部は創部14年目にして実に11回の全日本吹奏楽コンクール出場を果たしている驚異的なバンド。吹奏楽部は、野球部やラグビー部などとともに学校の顔となっている。今年の夏の甲子園では、優勝した野球部とともに注目を集めたことも記憶に新しいだろう。

 実は、甲子園の決勝が行われた8月21日、吹奏楽部は尼崎でコンサートを行うことになっていた。そこで、朝、ホールでリハーサルをし、甲子園に移動して応援。優勝が決定した後、再び尼崎に戻ってコンサート本番を行うという強行スケジュールをこなしたのだ。それだけではない。翌22日は名古屋でコンサート、23日は学校で野球部の優勝報告会で演奏。3日後の26日には吹奏楽コンクールの関西大会に出演順1番(朝イチはもっとも不利だと言われている)で演奏し、見事に全国大会出場を決めてみせた。

 こんなアクロバティックなことができるのは、日本中で大阪桐蔭だけかもしれない。専用の楽器運搬トラックを使って部員で全国各地へ「ツアー」に出かけ、年間約80公演をこなすというのだから、売れっ子ミュージシャン並みの活躍である。テレビなどにも引っ張りだこで、NHK『うたコン』で天童よしみとコラボしたり、連続テレビ小説『まんぷく』の主題歌になったドリームズ・カム・トゥルー《あなたとトゥラッタッタ♪》のブラスバンドバージョンの演奏も担当する。また、映画『ボヘミアン・ラプソディ』のプロモーション映像にも出演し、演奏・演技・歌を披露するなど、大車輪の働きぶりだ。

 170人(2018年度)の部員たちを束ねる総監督の梅田隆司先生には明確なポリシーがある。「全員で活動し、音楽をする喜びを味わうこと」だ。

 吹奏楽コンクールは大きなイベントであり、部の名誉もかかっている。何より、部員たちにとって大きな目標だ。全国大会に出たくて大阪桐蔭に来た部員も多い。しかし、参加人数が55人に限定されているため、全員が参加できるわけではない。だから、梅田先生は吹奏楽コンクールは「あくまで様々な活動の中のひとつ」として位置づけ、「コンクールは演奏のクオリティを上げる手段。目的ではない」と考えている。

 一方、コンサートや甲子園での応援は全員で参加できる。地方のコンサート会場ではステージが狭くて170人が乗れないところもあるが、そんなときは一部の奏者を客席に降ろしてでも全員で演奏する。全国各地の観客から受ける拍手喝采は、部員たちにとって何よりの喜びになる。それが次へのモチベーションに変わるのだ。


雰囲気に合わせて曲目を変える

 吹奏楽に限らずコンサートというものは、通常は前もって決まったプログラムどおりに曲を演奏していく。ところが、梅田先生は本番直前や本番中(!)に会場の雰囲気、観客の表情などを見て急に曲目を変更することがある。そのとき、最良のものを提供する、というのも梅田先生のポリシーだ。

 もちろん、急に曲目が変わるのは、部員たちにとってはたまったものではない。楽譜、演奏する楽器や位置(特に打楽器)、披露するパフォーマンスや歌などをすぐに変えなければならないのだ。ときには部員から「曲目の変更は無理です」という声が上がることもあるが、梅田先生は自分の決めたことを貫き通す。
「梅田先生のすごいのは、ぶれないところです」と部員のひとりは言う。

 先生は不可能な要求をしているのではない。日ごろの練習や本番で鍛えられた部員たちには必ず飛び越えられるハードルだ——そう確信しているのである。

 年間80公演の中で「やや困難ではあるが実現可能な課題」をクリアしていくうちに、部員たちはその刺激と成功体験によって、さらに高い目標に挑めるようになっていく。急な曲目変更にも部員たちは対応「してしまう」し、ぐんぐん成長する。

 だからこそ、甲子園の決勝当日と翌日にコンサートを行う、その数日後に関西大会に出て全国大会出場を決める、などというアクロバティックなことも可能になる。プロの歌手とコラボしたり、テレビ出演に対応したりすることもできるのだ。これこそが大阪桐蔭高校吹奏楽部の「強さ」の源だ。

「成長と可能性を信じる」「限界を決めない」ということだろう。

 その大阪桐蔭は10月21日に名古屋国際会議場センチュリーホールにて開催された「吹奏楽の甲子園」、全日本吹奏楽コンクール・高等学校の部に出場した。コンクールの練習だけに集中できない多忙な日々ではあったが、デュカス作曲《魔法使いの弟子》を演奏し、観客を魅了。並み居る強豪の中で銀賞を受賞した。

 トルコの軍楽隊を起源とする吹奏楽は欧米を経由してこの日本に渡り、花開いた。中でも大阪桐蔭高校吹奏楽部という花は今、ひときわ大きく咲き誇っている。

筆者:オザワ部長

JBpress

「吹奏楽」をもっと詳しく

「吹奏楽」のニュース

トピックス

BIGLOBE
トップへ