膵臓全摘後、肝臓と骨にがん転移…激痛に耐えながら出社する50代夫の脚に無数のアザができた悲しい理由
2024年10月26日(土)10時15分 プレジデント社
この連載では、「シングル介護」の事例を紹介していく。「シングル介護」とは、主に未婚者や、配偶者と離婚や死別した人などが、兄弟姉妹の有無にかかわらず、介護を1人で担っているケースを指す。その当事者をめぐる状況は過酷だ。「一線を越えそうになる」という声もたびたび耳にしてきた。なぜそんな危機的状況が生まれるのか。私の取材事例を通じて、社会に警鐘を鳴らしていきたい。
■再婚同士の2人
関東地方在住の笠間牧子さん(仮名・50代)は、高校を卒業してから化粧品メーカーでビューティーコンサルタントをしていたところ、19歳の時に工業系の企業に勤める同い年の男性と結婚。
2人の男の子に恵まれ、平穏に暮らしていたが、28歳の時に夫に不倫が発覚。相手は同じ会社の23歳の女性だった。笠間さんは夫と離婚し、10歳と8歳の息子を引き取ったが、慰謝料も養育費も貰わなかった。
同じ頃、4年前に友だちを介して出会ってから、友人関係を続けてきた6歳上の男性が、妻の借金が原因で離婚したという。偶然にも同じ時期に離婚したことで意気投合した2人は、再婚を前提に交際を始めることに。
男性は外資系の精密機械の会社で、マネジャーをしていた。男性と元妻の間に子どもはおらず、元妻は高額なカバンや服を買いあさり、銀行数社から借り入れをしていたことが判明。専業主婦なのに家事もせず夜中まで出歩き、男性が仕事から帰宅して、家にいないことがほとんどだったことから、離婚に踏み切ったのだという。
それから半年後、笠間さんが34歳の時に入籍すると、再婚相手の男性は、11歳と9歳の息子たちも快く養子として迎えてくれた。
入籍から4カ月後、ハワイで結婚式を挙げると、数週間後に妊娠がわかる。
その年の夏休み、笠間さんは元夫に、「息子たちをうちに遊びに来させてくれ」と言われ、息子たちを向かわせた。
ところが、帰宅するはずの日になっても一向に連絡がこない。おかしいと思った笠間さんが電話をすると、
「子どもたちは『帰りたくない』と言っているから、もう返さない」
と言われ、愕然。
写真=iStock.com/Nosyrevy
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Nosyrevy
急いで夫に事情を話し、車で10時間かけて一緒に元夫の家まで行ってもらうが、息子たちは元夫から何を吹き込まれたのか、「帰らない」という。
「『本人たちがそう言うのなら仕方がない』と、無理やり納得して、帰宅するしかありませんでした。しばらくして養子縁組の調停をして、子どもたちは元夫の籍に戻されました。そうでもしなければ、子どもたちは学校にも行けませんから……」
当時妊娠5カ月だった笠間さんは、お腹の子に悪影響が出そうなほど毎日泣いて過ごした。しかし1カ月ほど経った頃、ふとマタニティスイミングに興味を持ち、通い始めてみると、不思議と悲しみが癒えていった。
そして36歳で無事出産。男の子だった。
夫は家事も育児も完璧だった。
息子が幼稚園に通っていた頃、笠間さんが子宮筋腫で入院したが、夫は習い事の送迎やお弁当作り、ママ友との交流までこなし、笠間さんは感動。小学校に上がると、学校行事に積極的に参加し、目に入れても痛くないほど息子を溺愛。休みの日のたびに家族で出かける仲良し家族だった。
■運命の健康診断
それから11年ほど経った2018年7月。52歳の夫は毎年会社で受けている健康診断で、すぐに病院に行くよう言われる。
病院を受診すると、膵臓がんと診断された。
写真=iStock.com/magicmine
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すぐに手術を受け、2週間ほど入院した後、4週間飲んで2週間休むTS-1という抗がん剤治療を開始。膵臓(※)を切除したため、本来膵臓の役割である内分泌機能が落ち、インシュリンの分泌量が低下。糖尿病の出現を抑制するため、毎日の血糖値測定と就寝前のインシュリン注射が必須になった。糖尿病網膜症を防ぐため、1カ月に一度、眼科にも行かなければならない。
※胃の後ろにある、長さ20cmほどの細長い形をした臓器。膵臓には食物の消化を助ける膵液をつくり分泌すること(外分泌機能)と、血糖値の調節をするインスリンなど、いろいろなホルモンをつくり分泌する(内分泌機能)という2つの役割がある。
夫は治療を受けながらも、仕事は休まなかった。よほど体調がすぐれない日は、テレワークで対応した。毎週病院に通い、検査を受けたり処方薬を調整したりしていた夫だが、毎回血液検査の結果は芳しくなかった。
そして、膵臓全摘から約5年が経過した2023年10月。血液検査で腫瘍マーカーの数値が高かったため、CTを受けたところ、肝臓への転移が見つかる。
夫はすぐにがんを切除する手術を受け、1週間入院すると、再び抗がん剤治療をスタート。
「毎週のように通っていたのに突然転移が見つかり、驚きました。土曜日に診てもらえる外科だったので通っていましたが、今まで、抗がん剤が漏れて皮膚が壊死したり、夫にアレルギーがある薬剤を使ってアナフィラキシーショックが出たこともあり、だんだん信用できなくなっていました……」
今回は、点滴タイプの抗がん剤を使うフォルフィリノックスという治療法だった。この抗がん剤治療が始まると、夫はかなり副作用がつらそうだった。そのうえ、点滴をしてもらいに病院へ行き、つけたまま帰宅し、翌日針を抜きに再び病院に行くため、ほぼ毎日の通院が必要となり、夫の生活を圧迫した。
それからわずか3カ月たった2024年1月。年明けから夫が「足が痛い」と言い出した。正月休みが終わった整形外科へ行ってみたところ、
「骨に黒い影があるので、がんの主治医に診てもらってください」
と言われる。
すぐに主治医に診てもらうと、PET検査をすることになり、2月に結果が出た。背骨と大腿骨へのがんの骨転移だった。
■サイバーナイフ
2024年3月には、「サイバーナイフ」と呼ばれる装置を使った放射線治療を3回受けた。
夫は骨転移の痛みが激痛らしく、医療用麻薬を処方されるようになった。
しかし、しばらくすると「サイバーナイフ」が効いたのか、「ずっと痛いのはなくなり、たまに痛いくらいになった」という。
夫は、
「絶対治る。膵臓がんの5年生存率数%に僕は入るよ」
と言い、相変わらずよほど体調が悪い時でない限り、出社し続けていた。
しかし1カ月後、血液検査の数値は良くなっていたにもかかわらず、MRIを撮ったところ、骨転移はさらに広がっていた。
写真=iStock.com/Mohammed Haneefa Nizamudeen
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Mohammed Haneefa Nizamudeen
そしてさらにサイバーナイフを5回受ける。
しかし骨転移の痛みは全く良くならないらしく、医療用麻薬を投与する。それでも痛みは和らぐことはなく、夫は時々痛みに耐えるように顔を顰(しか)める。それを目にするたびに、笠間さんは不安になった。
「我慢強い夫は痛いとは言わないけれど、我慢していることはわかります。痛くてたまらないのにイライラしたりしない夫はすごいと思います。代わりに、『家にいても痛いのは変わらないし、動かないでいたら動けなくなりそうだから、どこかへ行こう』と言ってきました。だんだん食事量が減り、4月半ばから1カ月で、5キロくらい減ってしまいました」
5月のMRIで、骨転移がさらに広がっていたが、もう「サイバーナイフ」はできないと言われた。この頃、まだ会社に出社していた夫は、社長から直々に、
「無理して会社にこなくても、テレワークでも全く問題ないですよ。ちゃんと結果は出ているから」
と言われたという。
大学を出てから新卒で働いてきた夫は、コロナ禍でのがん闘病を機に、通勤を電車から車に切り替えた。片道2時間かかるうえ、高速代もガソリン代も、会社近くの駐車場代も自腹だったが、抗がん剤治療をしていたこともあり、感染症を防ぐ意味もあった。
医療用麻薬のオキシコンチン5mgも効かなくなってきていた夫に、
「何か私にできることはない?」
と訊ねると、
「そばにいてくれたらいい」
と夫は答えた。
オキシコンチンは一回2錠に増え、頓服としてオキノームが処方された。副作用があるため車を運転することができなくなった夫は、テレワーク勤務に切り替えた。
■夫の異変
MRIで判明した新たな骨転移を受けて、主治医は強力な抗がん剤を勧めるが、夫はやりたがらない。以前やっていた点滴型のものは通院が大変なうえ、食欲が落ちるばかりか、吐き気までして身体がだるく、つらかったという。だからあまり効果はないが、最初に使用した抗がん剤TS-1に戻したのだ。
「今でも痛みで食欲が落ち、5キロ以上も体重が落ちているのに、もっと強い抗がん剤でさらに食欲が落ちたら、体力が落ちてがんに勝てないのではないかと思いました」
ふと夫の足を見ると、あちこちに青あざがある。どうしたのかたずねると、
「痛いから揉んだり叩いたりしたらこんなになっちゃって……」
笠間さんは可哀想で見ていられなかった。
写真=iStock.com/Olena N.
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主治医は、
「TS-1は効果がないので、2週間後からアブゲムに変えましょう。やらないという選択をしたらキャンセルしてください」
この頃から夫は話しているとき、呂律が回らなくなってきていた。それを笠間さんが指摘すると、カチンときた夫と喧嘩になった。
足や腰が痛いらしく、ズボンの脱ぎ履きも一苦労で、入浴するのも危なっかしくなっていた。
やがて5月末には、ほぼ寝たきり状態に陥ってしまった。(以下、後編へ続く)
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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する〜子どもを「所有物扱い」する母親たち〜』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)