年俸700万円から手取り11万7千円の記者に大転身…「元プロ野球選手記者」が初めて書いた"スクープ記事"

2024年10月27日(日)18時15分 プレジデント社

中日入りし、西沢道夫監督(左)、吉江信太郎代表と共に背番号6のユニホームを披露する広野功内野手(慶大)=1966(昭和41)年1月21日、名古屋市中区の球団事務所 - 写真提供=共同通信社

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プロ野球選手として「逆転サヨナラ満塁ホームラン2本」の日本記録を樹立した広野功さんは現役引退後、新聞記者のほかコーチ、二軍監督、監督代行、球団フロント幹部などを歴任した。ノンフィクションライター沼澤典史さんの著書『野球に翻弄された男 広野功・伝』(扶桑社)より、新聞記者への異例の転身を遂げた経緯を紹介する——。

■30歳で現役引退、一家の大黒柱の選択肢


「僕は引退後に中日、ロッテ、西武でコーチをやって、黄金期の西武では二軍監督、三軍監督も務めました。ロッテと楽天では編成部長もやりましたが、すべての原点は引退後の3年間の新聞記者生活だったと思っています。


プロ野球選手を辞めてから新聞記者になる人はまずいない。球界を俯瞰して見ること、選手や首脳陣から話をいかに引き出すかなどの力は、後々のキャリアに相当生かされました」


広野は、中日が20年ぶりに優勝した1974(昭和49)年に現役を引退。このときまだ30歳である。娘2人を養う一家の大黒柱としては、これからが働き盛りだ。


ちなみに現役最終年の年俸は700万円。これがなくなるのだから、悠々自適に過ごすわけにはいかない。


身の振り方を思案していた広野に、中日は2つの選択肢を提示した。1966年のドラフト指名時、「一生、うちのグループで面倒を見る」と切った手形を、中日は誠実に履行したのだ。


写真提供=共同通信社
中日入りし、西沢道夫監督(左)、吉江信太郎代表と共に背番号6のユニホームを披露する広野功内野手(慶大)=1966(昭和41)年1月21日、名古屋市中区の球団事務所 - 写真提供=共同通信社

■解説者か中日社員か、それともアメリカか?


中日球団社長の小山武夫いわく、「東海テレビの解説者になるか? あるいは中日新聞社の社員になるか?」と。


だが、どちらかを選べと言われた広野は、どちらも選べずに苦悩した。


「僕はやっぱりアメリカへの夢を捨てきれんかったんです」


広野は慶應大時代、メジャーリーグのドジャース入り一歩手前までいった過去がある。1964年の東京オリンピックのデモンストレーションゲームで戦ったアメリカ選手たちの衝撃はいまだ脳裏に焼き付いていた。


現役を引退したからには、アメリカの野球を勉強しにいきたかった。アイク生原の愛称で知られる生原昭宏がドジャースで球団経営を学んでいるという報道も、幾度となく耳に入っており、広野の心はおおいに刺激されていた。広野は、密かにアメリカ行きを画策していたのである。


■人生の先輩「いまから楽な道を選んでどうする」


1974年の暮れ、広野は名古屋の伏見にある老舗料亭「鯛めし楼」を訪れた。ビジネス街にひっそりと佇み、舌の肥えた名古屋人へ伊勢湾の真鯛をふるまう名店である。


「慶應大の2年先輩で、慶應のゴルフ部のキャプテンだった鈴木晴視さんが、そこを経営していたんです。ジャイアンツ時代に知り合い、名古屋に行った際は、必ずお店を訪れていました。名古屋の財界のことをよく教えてくれる人で、『困ったらいつでも来い』と。信頼していた人でしたから、彼に進路について相談に行ったわけです」


開店前の客がいない店内で、鈴木は鯛めしをふるまいながら広野の進路に助言した。


「アメリカに行ったらカネはいくらかかるんだ?」
「500万円くらいかかります」
「お前、そんなにかけて行く価値はあるのか。アホか。中日からも就職先を提示されているんだろう?」
「僕はマスコミにはあんまり行きたくないんです。やっぱり現場で野球を勉強したいんです」
「なるほど。ところで、お前、喋る(解説者)のと書く(新聞記者)のはどっちが嫌なんだ」
「そりゃあ、書くのが嫌ですよ。原稿なんて書いたことないし、ありえないです」
「わかった。じゃあ、中日新聞社に世話になれ。お前、まだ31だろ? 今から楽な道を選んでどうする。人生これからなんだから苦しいほうを選べ」


写真=iStock.com/themacx
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/themacx

■第二の人生は、手取り11万7000円


代打としてなかなか結果が出なかったジャイアンツ時代に、励まし続けてくれた鈴木の言葉である。親以上に信頼を寄せていた彼の言葉を広野は信じ、聞き入れた。


「正直、参ったなと思いましたよ。ただ、考えてみれば鈴木さんの言う通り、楽をするのはまだ早いなと。社員であれば定年まで職は安定しますし。ただ、記者の初任給が手取りで11万7000円だったため、家内と相談してかなり生活は切り詰めましたね」


かくして前年までプロ野球選手だった男は、バットとグローブをペンと原稿用紙に持ち替えて、1975年から中日新聞の新入社員として第二の人生を歩み始めたのだ。広野のキャリアを生かせるようにと、所属は中日スポーツになった。


■初心者記者の校閲は「穴」だらけ


「中日スポーツに最初に配属された先は、整理部の校閲係ですよ。印刷にかける前の記事を読んで間違いがないか、確認するのが仕事です。漢字の使い方や送り仮名などの統一表記ルールを定めた記者ハンドブックというのがあって、それとにらめっこしながら、赤ペンでチェックしていくんです」


百戦錬磨の現場記者といえども、書いた文章には当然ミスもある。しかも当時は金属型の活字を職人が拾って記事を組んでおり、カギカッコや句読点の位置がひっくり返っていることも多々あった。


「僕の隣の机には、中日新聞の生き字引と呼ばれる浅沼耕さんというベテランがいました。僕は10行の原稿だと2つくらい赤字を入れるのが精一杯だけど、同じ原稿を浅沼さんが見ると、チェックだらけで真っ赤なんですよ」


選手時代は守備に定評のあった広野だが、その校閲はトンネルだらけだった。当然、校閲部の中でも「こいつ、大丈夫か?」の痛い視線が突き刺さるようになる。


■元野球選手だからこそ見つけた写真のミス


前年まで、朝から晩まで野球漬けだった広野には、たしかに酷な仕事だったかもしれない。しかし、ここでも広野は逆転サヨナラ満塁本塁打ばりの一打を放つことになる。


「ある日、阪神の試合を報じる記事の完成直前の試し刷りである、大刷りを最終チェックしていたら、左打ちのバッターが右で、左右反転で載っている。『浅沼さん! これ写真が裏焼きです!』と僕が言ったら、浅沼さんは血相を変えて『輪転機止めろ!』と大騒ぎ。間一髪間に合いました。


それで『元プロ野球選手のお前じゃなかったらわからなかった。新聞社が大恥をかくところだった』と部長賞をもらったんですよ」


浅沼のような校閲のプロたちが二重三重に目を光らせているのは、あくまでも文字。写真についてはチェックが甘くなったのかもしれない。そこを広野がカバーしたのである。この件以来、広野は整理部の立派な戦力として認知されていった。


「なにしろ、整理部長と報道部長が、フロアに響き渡るような大声で、怒鳴り合いの喧嘩をしておるんですよ。なんだなんだと聞き耳を立てると、どうやら僕をどっちの部で使うかという話なんです。


報道部長としては、僕の元プロ野球選手のキャリアを生かして、記者として現場に出したい。でも、整理部長としては僕を手放したくないと言っているんです」


■最初の取材記事はほぼ丸写しで提出した


広野は新聞社の社員として高い評価を受けていたというエピソードだが、選手時代、何度もトレードを経験している広野としては、複雑な心境だったろう。


結果的に整理部長が折れた。広野は校閲係を半年務め、1年目の秋に報道部へ異動したのである。元プロ野球選手としての人脈や観察眼を発揮しようと、広野はおおいに意気込んだという。


「ところが、最初はアマチュアスポーツの担当。中日新聞が毎年開催していた野球教室の取材に行けという指示でした。そんなもの、どんな記事にしたらいいのかわからないとデスクに尋ねたら、『去年もその教室の記事を載せているから、参考にすればいい』と言う。だから現場に行って写真を撮って、選手名だけ変えて、去年の記事をほぼ丸写しで提出したんですよ」


広野の10行ほどの原稿を受け取ったデスクは、読み終わると深い溜め息をついた。「広野、日にちくらいは変えてくれよ」と、目も合わせずにすっかり呆れた様子だったという。


この初仕事に限らず、駆け出し記者時代の広野はポンコツというほかない。12月の全国高校駅伝に際しては、京都まで足を運んだが門外漢の競技の記事に一向に筆が進まなかった。広野の遅筆に痺れを切らしたデスクは「共同通信の提供記事を使うから、もういいよ」とさじを投げたのだった。


青木功さんに「単独インタビュー」を敢行


だが、報道部での評価が暴落していた頃に、またしても広野は“逆転満塁本塁打”を放つ。


「春先に行われるゴルフの中日クラウンズの取材に行ったら、青木功さんが出場してました。同じ『功』ということで巨人時代から懇意にしていただいてたんです」


写真=iStock.com/Boris_Zec
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Boris_Zec

青木は、広野の顔を見るなり「お前、こんなところで、なにしとんじゃ⁉」と驚いた。記者広野にとって、このチャンスを逃すわけにはいかない。


「野球を辞めて、いまは中日スポーツの記者をやっとるんです。ところで、青木さんなんかおもしろい話くださいよ。雑感になるような、ちょっとしたことでもいいので」
「おう、それならあるぞ。俺な、今日ニュークラブで打つんだ」
「使ってない新しいクラブで打つなんて大丈夫ですか?」
「お前、こっちはプロだぞ。大丈夫、大丈夫」


■20行だった記事が1面を飾るスクープに


その言葉通り、青木は首位に立った。


「だから、僕は『青木、ニュークラブ使用でトップ』みたいな20行くらいの記事を書いたんです。そしたらデスクに『お前、これ本当か? スクープだぞ』と言われて、リライトされて1面トップになったんです。



沼澤典史『野球に翻弄された男 広野功・伝』(扶桑社)

試し打ちもしていないクラブを使うなんて普通はないですよ。クラブはそれぞれ感触が違いますから、プロといえども微妙な誤差が生まれるはずです。これも『お前の取材能力はすごい』ということで部長賞をもらいましたね」


こうしてスポーツ記者として着実に力をつけた広野は、いよいよ中日スポーツの花形であるドラゴンズ担当記者となった。


当時の中日スポーツのドラ番は、チームへの取材という通常の業務だけが仕事ではない。ドラゴンズのフロント、監督、選手の間を飛び回るメッセンジャーのような役割も果たさなければならなかった。こうした表に裏にチームを支えるドラ番を広野は1年間務めることになるのだ。


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沼澤 典史(ぬまざわ・のりふみ)
ノンフィクションライター
1994年、山形県生まれ。編集プロダクション「清談社」所属。元高校球児で大学卒業後、テレビ制作会社を経てライターの道へ。過去に篠塚和典、高橋慶彦、武田一浩、谷繁元信などのプロ野球OBへの取材記事多数。プロ・アマ問わず野球関係の記事を『NumberWEB』に寄稿。著書に『野球に翻弄された男 広野功・伝』(扶桑社)がある。
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(ノンフィクションライター 沼澤 典史)

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