1歳の女の子のへその緒が命を救ってくれた…「免疫力ほぼゼロ」からスタートする白血病治療の壮絶な22日間

2024年10月29日(火)16時15分 プレジデント社

白血病の治療時、首にCVカテーテルを挿入される - 写真提供=高山知朗

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がんとの闘いは一体どんなものなのか。起業家の高山知朗さんは2017年2月、45歳のときに急性骨髄性白血病が見つかった。高山さんにとって3回目のがんで、選んだのはへその緒と胎盤の血液「臍帯血」を移植する治療法。ドナーである当時1歳の女の子が生まれた時の臍帯血に「のりこちゃん」と名付け、移植を受けた。著書『5度のがんを生き延びる技術 がん闘病はメンタルが9割』(幻冬舎)より、移植から22日間の記録を紹介する——。

■白血球の数は4000以上→10に激減


前処置が終わり、1日のお休みを挟んだ4月14日。移植の当日となりました。移植Day0です。移植治療では移植日をDay0として経過日数をカウントしていきます。


前処置によって白血病細胞とともに正常な血球細胞も破壊されました。その結果、この日の白血球の数は30。翌日はさらに減って10に。健康なころは4000以上あったので、ほぼゼロになり、免疫力はほとんどない状態です。移植の準備は整っていました。


写真提供=高山知朗
白血病の治療時、首にCVカテーテルを挿入される - 写真提供=高山知朗

午前中にシャワーを浴び、午後、臍帯血移植を受けました。


「移植」と言っても手術ではないので、実際はあっけないものです。病室に先生と看護師さんが来て、太めのシリンジ(注射器)に入った解凍ずみの臍帯血を、CVカテーテル経由でゆっくり注入(輸注)してくれました。ものの数分です。これで移植は完了です。


写真提供=高山知朗
臍帯血移植のシリンジ - 写真提供=高山知朗

注入しているときに、なぜか胸の辺りから磯の香りというか、海苔の香りがしました。これは、移植患者さんはみなさんそのように言うようです。


■「女の子は元気がいいから暴れるよ」


こうして、のりこちゃんを無事に私の体の中に迎え入れました。また一歩、治療が進みました。


移植後には血液内科部長の谷口修一先生(現:国家公務員共済組合連合会 浜の町病院 院長)も様子を見に来てくれました。


谷口先生は、「女の子の臍帯血はすごいよ! 特に女の子の臍帯血を男の人に移植するとすごい。女の子は元気がいいから暴れるよ。でもそれが治療にはいいんだ。まあ見ていて(笑)」とおっしゃいます。後々、実際にその意味を知ることになりました。


■ひどい下痢で体力消耗、どんどんやつれていく


移植の翌日、Day1です。


前処置の抗がん剤の副作用が少しずつ強くなってきました。舌にピリピリとしびれた感じがあります。先生によると、味覚障害ではないかとのことでした。その後、ピリピリしたしびれは唇にも出てきました。


そして下痢がひどくなり、1時間おきに便意に襲われトイレに駆け込みギリギリセーフ、たまにアウトというような状態になりました。便はほとんど水のような状態。いつ便意が襲ってくるかが気になり、落ち着きません。夜もゆっくり眠ることができませんでした。


ひどい下痢が続くとそれだけで体力を消耗します。食べたものの栄養が吸収されずに水分とともに出ていってしまうので、どんどんげっそりしていきます。


一方で胃の気持ち悪さは抜けてきていたため、お昼には妻が買ってきてくれたサンドイッチを食べられました。


体調や気持ちが数時間おきに猫の目のように変わる感じでした。ぐったりしながら、体の中に入ってきた臍帯血ののりこちゃんのことを考えました。私の体に引っ越してきたのりこちゃんが、私の骨の中の骨髄に住み着いていく様子を頭に描いていました。しっかり生着して欲しいと願っていました。


■闘病生活のお供は「のりこちゃんの歌」


そうやってのりこちゃんをイメージしているときに、ふとこんなことを思いつきました。


「のりこちゃんの歌を作って、毎日歌って応援しよう!」


臍帯血ののりこちゃんが生着不全になることなく、私の体の中に無事に生着して欲しい、居心地良く住み着いて欲しいという願いを込めて、「ぞうさん」や「海」の替え歌を作りました。


この歌を毎晩寝る前や、日中でもベッドに横になっているときに、胸骨(胸骨の骨髄では造血が盛んに行なわれます)を軽く叩きながら、臍帯血に語りかけるように(恥ずかしいので声に出さずに)歌います。


これはイメージ療法の一環です。私は抗がん剤を点滴しているときに、抗がん剤ががん細胞を攻撃している様子を頭の中でイメージしていたのですが、それと同じです。


歌を口ずさみながら、私の体の中でのりこちゃんが生着して新たな血球を作り出しているところや、白血病細胞を倒しているところをイメージします。


効果があるかは分かりません。でも、できることはなんでもやらないと治らない病気なのだと、必死でした。


この歌は、急性骨髄性白血病が治ったと言える移植後3年が経過するまで、毎晩寝る前に口ずさんでいました。


■「あと28日」ではなく「あと1週間」


4月16日。引き続き水のようなひどい下痢が続き、トイレとベッドを往復していました。胃も気持ち悪く、食事があまり食べられません。体に力が入らず、ヘロヘロになっていきました。


「まずはとにかく移植後1カ月を乗り切ろう。まだ今日で2日。あと28日」と考えていました。


4月17日、Day3です。朝、回診の際に先生が「下痢は抗がん剤の副作用による粘膜障害でしょう。あと数日でよくなると思います」と見込みを話してくれました。看護師さんにも同様に「今が下痢のピークだと思います。移植して1週間も経てば下痢も落ち着くでしょう」と言われました。


医師や看護師さんから「下痢はあと数日我慢すれば治まる」と言われれば、「とにかく数日だけはなんとか踏ん張ろう」とがんばりが利きます。身体的には辛くても、精神的には耐えられます。


今考えると、これは医師や看護師さんからの言葉によるリフレーミングでした。


「いつ終わるかも分からない」苦痛を、先生や看護師さんの言葉で「あと1週間でよくなる」と、より短い時間軸にリフレーミングしてもらったと言えます。


その上で「いつ終わるか分からない」という未来の不安ではなく、「目の前の苦痛」を踏ん張って乗り越えること、つまりプレゼンスにフォーカスすることで、乗り切りました。


夕方、先生と話したときに、また下痢のことを伝えました。すると、「痛み止めの医療用麻薬の点滴を入れると、下痢でトイレに行く回数が少し減ります。減る人は半分になることもあるので使ってみましょう」とおっしゃいます。


実際、点滴して1時間半ほどすると、いろいろと体が楽になってきました。苦しかったお腹が薬で楽になったせいか、空腹感も出てきました。


写真=iStock.com/Sergii Kolesnikov
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Sergii Kolesnikov

■40度前後の高熱では身動きできない


翌18日の朝、目が覚めてまず思ったのは、「痛み止めの麻薬の効果はすごい!」ということです。これまで何日も1〜2時間おきに下痢でトイレに駆け込んでいたのに、この夜間はトイレに行きませんでした。


しかしその夜のこと。今度は熱が38度を超えました。看護師さんによると、「臍帯血が増えて、熱が上がってくる時期ですね」とのことで、解熱剤を点滴してもらいました。


4月19日、Day5。


39度を超える高熱が出るようになりました。


常に上昇傾向にある熱を解熱剤の点滴で下げ、しばらくするとまた上がるという追いかけっこでした。とにかく体がだるく、リハビリはストレッチしかできません。リハビリはできるだけ毎日やろうと思っていたものの、40度前後の高熱ではさすがに動けませんでした。


■同じ下痢でも原因によって治療法は異なる


4月20日、Day6も同様で、39.5度でした。


4月21日、Day7には40度を突破して40.2度に。夕方、先生が来てこうおっしゃいます。


「のりこちゃんは元気が良すぎるみたいですね。熱は臍帯血が増えようとしているときに出る熱だと思います。だからあまり抑えすぎてもよくないのですが、適宜、解熱剤を使っていきましょう」


のりこちゃんの元気がいいというのは、まさに谷口先生が言った通りでした。


また、下痢がぶり返していたのですが、この下痢は、生着前免疫反応(PIR)だという診断でした。移植した臍帯血が私の体に受け入れられる前の、一時的な免疫反応です。Day1〜4のころに苦しんでいた下痢は抗がん剤の副作用でしたので、原因が違います。


このように高熱や下痢など、次々に起こる症状も、原因を的確に判断しないと、対応(点滴、内服薬等)を間違ってしまいます。血液内科医の経験が求められるところなのだろうと思いました。


■髪の毛だけでなく、ひげも鼻毛も抜けていく


皮膚にもいろいろな症状が出てきます。まず顔の皮膚が赤くなりました。これはGVHD(移植片対宿主病:移植の合併症)が重症化する前触れで、のちのち全身に赤みが広がったり皮がむけたりすると先生から説明を受けました。


夜になって、抗がん剤の副作用の脱毛が始まりました。気づいたのは髪の毛ではありません。マスクを外すと抜けたひげがついていました。鼻をかむとティッシュに鼻毛がついていました。その後、短いながら髪の毛も抜けていきます。


写真提供=高山知朗
抗がん剤で眉毛まで抜けたという - 写真提供=高山知朗

4月22日。朝から熱が40.5度。過去最高値です。


看護師さんによると、今が一番、熱が出る時期だといいます。移植治療では「デイ・ナイン・フィーバー」といって、移植後9日目に高熱を出すケースが多いと言われています。でも看護師さんの感覚としては、もっと早い人のほうが多い印象だそうで、この日がDay8の私もそれにあたります。


夜には朝の過去最高値をさらに更新する40.6度に上がりました。


■気晴らしする気力も体力もなくなっていた


結局、Day5からDay8まで、4日連続で高熱の最高記録を更新しました。


このころの私の状況はというと、下痢が続いてヘロヘロになっていたのを痛み止めの点滴で乗り越えたと思ったら、今度は連日の高熱でさらにヘロヘロになり、ベッドでぐったりしていました。


ベッドから起き上がるのも、ご飯を食べるのも(そもそも食欲がありません)、薬を飲むのも、歯を磨くのも、トイレに行くのも億劫です。携帯を触ることも音楽を聴くこともできず、とにかくぐったりと横になっていました。


Day9になってようやく、40度を超える高熱は出なくなりました。


そして朝の血液検査で、白血球が100に増えていました。この日までの5日間で見ると、10→20→30→50→100と順調に増加していました。


この時期の患者にとって、臍帯血が無事に生着してくれるかが一番の心配ごとです。先生は「高山さんのような白血球増加のパターンで生着しなかった人はいないから大丈夫ですよ」と言ってくれました。これは大きな安心材料になりました。


■水をゴクリと飲むだけで胃が痛む


この日からまた下痢になりました。先生によると、今度はGVHDの下痢だそうです。治療が始まってから、抗がん剤の副作用→PIR→GVHDと、下痢の原因は移行していきました。


下痢はあるものの、40度の高熱が治まったので、体調は良くなったように感じていました。血球が増えてきていることもあり、治療が着実に前に進んでいるという手応えがありました。


Day10。熱は37度台で落ち着いています。下痢は前ほどひどいものではなくなっていました。リハビリは久しぶりにフルメニューがこなせました。一方、胃が痛く、水をゴクリと飲むだけで痛みます。


夕方、先生が来てくれて、現状を説明してくれました。


「リンパ球の増加がいち段落したことで、熱も一昨日くらいから落ち着いてきています。でも、これからがGVHDの発熱の本番で、こちらのほうが抑えるのが難しいんです。血液検査の結果などを見ながらステロイドの量を慎重に調整しているところです」


お話を聞いて、移植の進捗状況が実際の体調の変化と結びついていることが分かり、なるほどと納得できました。


■先輩患者「一難去ってまた五難だ」


Day13の未明、激しい胃痛に襲われました。「キリキリ痛む」というレベルではなく、「電動ドリルを突き立てられたかのようにギュリギュリ痛い」という激しい苦痛で、それまでに経験したことのない、びっくりするほどの痛みです。


ナースコールを押し、看護師さんを呼びました。看護師さんは医師たちに電話して指示を仰いでいます。


来てくれた先生によると、生着前の免疫反応で胃の粘膜が傷害されているためだろうとのことでした。胃薬、痛み止めの医療用麻薬、そしてステロイドを点滴してもらい、薬が効いてくると少しずつ楽になっていきました。


その夜、プリンを食べてみたら、食べたプリンが胃の粘膜を伝って下りていくのが分かりました。冷たい水を飲むと、通り道の粘膜が痛みます。やはり胃の粘膜が傷いたんでいるのだと実感しました。


写真=iStock.com/hungryworks
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/hungryworks

リハビリに来てくれた理学療法士のSさんに、「下痢が落ち着いたと思ったら40度を超える高熱が続き、それが落ち着いたら激しい胃痛。毎日大変です」と、ポロッと弱音を吐いてしまいました。


するとSさんが、「『移植は一難去ってまた一難ではなくて、一難去ってまた五難だ』と言っていた患者さんがいました」と教えてくれました。まさにその通りだと思います。症状が日替わりどころか、数時間ごとに新たに出てくる感じでした。


■顔や足、腕のかゆみ、手の震えが出てくる


Day15。皮膚の症状が強くなってきました。全身の皮疹とそれに伴うかゆみもあります。足がかゆく、腕がかゆく、手のひらは痛い。シャワーを浴びたらお湯が当たるだけで手のひらが痛いのです。治療に伴う手足症候群だそうで、ステロイドの塗り薬を出してもらいました。


こうした皮膚症状も日によって変わりました。まずは顔が真っ赤になって、その後足や腕に皮疹ができてかゆくなり、手のひらが真っ赤になって痛くなったり、足首から足の甲までが黒くなったり、胸や背中がかゆくなったりと状況が変わります。それぞれ症状に適したステロイドの軟膏で対応しました。


また、このころ、手の震えが出ていて気になっていました。こちらは恐らく前処置の抗がん剤の副作用とのことでした。


■白血球数が増え、症状が落ち着き始める


Day17、今日から5月です。先生との話の中で、血球は明日から本格的に増えてくると思いますよ、との予言がありました。実際に翌日、白血球は330から420に大きく増え、それ以降も520、620、770と、順調に増加していきました。


先生は以前、「白血球、特に好中球が回復してくると、胃腸の粘膜も修復されてくるので、下痢や胃の痛みも治まってくると思いますよ」と言っていました。たしかに下痢は以前より楽になり、胃痛も軽くなってきました。


胃腸の症状が落ち着いたことで、少しずつ食欲も戻ってきて、口からものが食べられるようになってきました。最初のうちはプリンやゼリーでしたが、少しずつ病院食のスープやピラフなども口にできるようになっていきました。


皮膚についても、足と腕のかゆみや手のひらの痛みが落ち着いてきました。熱は37度台で、たまに38度を超える感じでした。


いろいろな苦痛が治まってきて、精神的にも落ち着き、リハビリをフルメニューでこなせるようになりました。


■病床で迎えた誕生日のプレゼント


5月6日。46歳の誕生日です。病床で誕生日を迎えたのは人生で初めてでした。


午後、妻が面会に来てくれて、「ちょっとデイルーム(共有スペース)に来てくれる?」と私を呼びます。


行ってみると、そこには久しぶりに会う娘がちょこんと座っていました。予想外のことだったのでうれしいと同時に驚きました。というのも、娘と会うのは約1カ月ぶりだったのです。無菌病棟で抗がん剤投与が始まった後は、感染のリスクもあるので、生着するまで娘による面会は控えよう、と家族で話していました。


でもこの日は私の誕生日だし、生着も近そうということで、妻は娘を病院まで連れて来てくれました。もし看護師さんから「まだ感染リスクがあるので家族は病室には入れません」と言われたら、無菌病棟の入り口のガラス越しでもいいから娘を私に会わせよう、と考えていたそうです。


幸いなことに、看護師さんからは「デイルームでの面会なら大丈夫ですよ」と言っていただいたようです。


デイルームで1カ月ぶりに家族3人で話をしていると、担当医のMY先生が私を探してやってきました。


「高山さん、生着しましたよ!」


白血球の数が1100となり、ついに生着基準の1000を超えたのです!


■3回にわたるがん治療で一番うれしい出来事


この吉報に家族で大喜びしました。移植治療で一番大きな目標が生着です。仮に生着がうまくいかなければ生着不全で移植は失敗です。だから移植患者にとって無事に生着するかどうかは一番の心配事なのです。


苦しい移植治療を乗り越えてついに到達した生着という目標。それを幸運にも家族に祝ってもらえたこと。この日の生着は、それまでのがん治療の中でも一番うれしい出来事でした。この日のことは一生忘れません。


生着の話がいち段落した後、先生から今後の話を聞きました。


「高山さんの病気は2つの予後不良因子があり、手強い白血病です。これからまたGVHDの山が来ます。皮膚の症状は治まってきていますが、胃腸の症状はこれからも出ると思われます」


このように聞いて、改めて気を引き締めました。さらに先生の話は続きます。


「白血球が1000を超えたので、カビや細菌の感染リスクは大きく下がりました。敗血症のリスクもほぼなくなったと考えていいでしょう。


■本格的な闘病はまさにこれからだが…


しかし、ウイルス感染のリスクはあります。肝臓や脳炎の合併症については移植後45〜90日の間はリスクがあります。だから少なくとも5月いっぱいは注意が必要です。肺炎にも注意必要です。肺の組織はダメージを受けてしまうと再生しないため、念のため、症状がなくてもレントゲンなどの検査をしながら注視していきます」



高山知朗『5度のがんを生き延びる技術 がん闘病はメンタルが9割』(幻冬舎)

この一連の説明を聞いて、生着したことは治癒に向けた大きな一歩であるものの、GVHDとの本格的な戦いはこれからで、合併症のリスクもまだあると改めて覚悟しました。


まだまだ安心はできないと思う一方で、今後何が起きても、これまでと同じように、先生に自分の症状をきちんと説明して適切な対応をとっていけば、もはやどんな苦難も乗り越えていけると思えるようになっていました。


この日の夕飯は、妻にお願いして買ってきてもらった築地銀だこのたこ焼きです。久しぶりにおいしく食べられた、46歳の誕生日の夜でした。


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高山 知朗(たかやま・のりあき)
起業家、元がん患者
1971年、長野県伊那市生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、アンダーセンコンサルティング(現アクセンチュア)、Web関連ベンチャーを経て、2001年に30歳でITベンチャー企業の株式会社オーシャンブリッジを設立。11年、40歳で脳腫瘍(グリオーマ)を発症して手術を受け、腫瘍は全摘出されたものの視覚障害が残る。13年には悪性リンパ腫を発症し、約7カ月間の入院で抗がん剤治療を受け寛解に至るが、体力面の不安から17年会社をM&Aで売却。その直後に急性骨髄性白血病を発症し、臍帯血移植を受けて約8カ月の闘病の末に寛解に至る。20年には大腸がん(直腸がん)、24年には肺がんを告知されて手術を受ける。53歳の現在は、3カ月ごとに検査のため通院しながら、妻と娘とともに自宅で元気に暮らす。5度のがん闘病の記録をつづった「オーシャンブリッジ高山のブログ」は、がん患者とその家族から「勇気が湧いた」「希望の光が見えた」「冷静で客観的な文章で分かりやすい」と絶大な人気を誇る。著書に最新刊『5度のがんを生き延びる技術』や、『治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ』(ともに幻冬舎)がある。
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(起業家、元がん患者 高山 知朗)

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