「運動嫌いの子供」が増えるだけ…オリンピック選手を"体育教師"として学校に送り込む文科省の大失策
2024年11月2日(土)17時15分 プレジデント社
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■五輪選手を「特例」で教員にしていいのか
そんなことをすれば教育現場は混乱するだろう。私がそう直観したのは、文部科学省が2024年9月13日に発表したとある通知に触れて、である。
文科省は今後、五輪やパラリンピックなどに出場した経験を持つ者を、以前からある「特別免許状」の仕組みを活用して積極的に教員に登用するという。トップアスリートが有する専門知識や経験が、児童生徒や他の教員にプラスの効果をもたらすことを期待しての取り組みである。
つまり、全国の小中学校に元オリンピアンが体育教員として常駐することになるかもしれないのだ。
朝日新聞によれば、「特別免許状」とは、高度な専門性を持つ人に教科を限定して与える免許で、現在社会問題となっている教員不足の解消や教育現場の多様性を確保するための方策である。
文科省は近年この制度の活用を促しており、2022年度は計500件の授与があった。教員の定数とは別に学校に配置し、担当教員と協力して保健体育の指導をしたり、高校で競技能力の高い生徒への指導や部活動を担当したりする例などを想定しているという。
■体育は「健やかなからだを育む」のが目的
筆者は、この方針は「運動嫌い」の児童生徒を増やしてしまうのではないかと危惧している。
部活動の指導に限定するのであれば、この意図はかろうじて理解できる。競技力向上に励む意欲の高い部員が、引退後まもない元トップアスリートから専門スキルを学ぶ貴重な機会となりうるかもしれないからだ。
だが、体育となればどうか。スポーツ全般を教材とし、競技力の向上よりも健やかなからだを育むことが目的の体育教員が、果たして務まるのだろうか。
■向上心を学ばせるならば「スポット講演」で十分
なぜ元オリンピアンを安易に教員に登用することが危険なのか。
子供たちが卓越した人物に触れることの大切さを、私は否定しない。努力の果てに高みに達した人が成長期の子供にもたらす影響は、確かにある。子供たちは彼、彼女から諦めずに努力を続けることの大切さや、緊張や不安のやり過ごし方、あるいは困難を乗り越えるための心構えなどを感じ取り、それがきっかけとなってときに大化けする。向学心など、自分を高めるために必要な意欲が湧いてくることもあるだろう。
だが、それは講演やスポット指導で十分に伝わる。先生という立場で毎日顔を合わせなくたっていい。むしろ毎日顔を合わせることはマイナスに作用しかねない。どれほど功成り名遂げた人であっても、身近になればなるほど慣れてしまうからだ。新鮮さが薄れ、トップアスリートの存在が醸す卓越性が感じられなくなる。スポット指導と日々をともにしながらの指導は、意味合いがまったく異なる。
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■「名選手名監督にあらず」
そもそも運動指導には、座学とは異なる困難さがつきまとう。伝えないといけないのはコツやカンといった身体感覚だ。コツやカンは、身に付けるのもさることながら、教えるのはさらに難しい。この難しさは、子供に自転車の乗り方を教えたことがある人ならば経験的にわかるはずだ。
「名選手名監督にあらず」と言われている通り、高い競技能力を備えているからといって必ずしも高度な指導ができるとは限らない。「自らできること」と「適切に教えること」のあいだには千里の逕庭がある。コツやカンを教える術は、それなりに訓練を積んだあとに指導現場での経験を積み重ねるなかで、次第に身についていくものだからだ。
■「わかっていてもできない」が発生するのが現場
「発生論的運動学」という学問がある。身体運動を高めるためにはコツやカンを習得しなければならないが、それらの発生を現象学的に掘り下げる分野であり、シンプルに言えば、「わかる」と「できる」の違いを明らかにするのを目的としている。
身体運動を習得しようとする場面では、「わかっていてもできない」という事態が往々にして起こる。頭で理解していても、からだがそのようには動いてくれない。バットやラケットの持ち方がわかっていてもうまくボールを打ち返せない、手順がわかっていてもうまく跳び箱を跳ぶことができないなどという現象が、あらゆる運動習得場面で生じる。
これはうまくコツがつかめず、カンが働かないからだ。つまり教員には、児童生徒がコツやカンをつかめるように、頭での理解としての「わかる」と、からだでの実践としての「できる」をつなぐことが求められる。
■アスリートは自らの動きを言語化するのが苦手
言葉で言うのは簡単だが、この実践がなかなか難しい。「わかる」と「できる」の関係は実に複雑だからである。
というのも、運動習得場面では「わからなくてもできる」といったことも起こる。頭で理解せずとも見様見真似でできてしまうことがあり、言葉による説明を経ずとも感覚的にその動きを習得できてしまうのだ。「できる」に至るには「わかる」ための言葉が必ずしも必要なわけではない。反復するうちにいつのまにかできてしまうことも、ままにある。
もうおわかりだろう。トップアスリートがまさにそうである。
トップアスリートは運動神経がいい。つまり、コツやカンを掴むのがうまい。指導者からの言葉による説明を理解できずとも、その足りない部分を身体感覚で補う能力を備えている。類まれなる身体感覚を駆使し、たとえわからずともできるようになった経験を有しているのが、トップアスリートだ。だから感覚的に掴むことには長けている。
しかしながら——いや、だからこそと言うべきか——元トップアスリートは自らの動きを他者にわかりやすく説明することが苦手だ。彼、彼女らは、自ら体現できる動きをうまく言語化できず、言葉に詰まるか、「スーッ」「グッ」「パッ」など、オノマトペだらけでの説明をする傾向にある。ここに、先にも述べた「自らできる」と「誰かに教える」の壁がある。
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1994年9月、松井秀喜外野手(左)に打撃指導する巨人の長嶋茂雄監督=ジャイアンツ球場室内練習場 - 写真=共同通信社
■子供が理解できるような語彙や言い回しを身に付ける
この壁を取っ払うにはどうしたらよいか。それは「学び直し」しかない。
他者ができないのに自分にその動きができるのはなぜなのかを、客観視する。その動きに必要な手順や感覚的に捉えているコツやカンを、ひとつひとつ言葉にしてゆく——。指導の言葉は、この作業を通じなければ身につかない。
それを助けるのは言うまでもなく学問である。先の発生論的運動学をはじめ、スポーツ・バイオメカニクスや運動生理学などの知見を下敷きにしながらの学び直しが欠かせない。
さらにいえば、相手に伝えるための言葉そのものも豊かにしなければならない。語彙を増やすのはもちろん、身体感覚を伝えるためのたとえ話や言い換え、また意欲を高めるための言葉がけなども身に付けなければならない。これには文学や心理学が役立つ。固有の身体感覚を広く子供たちに伝えるには、実際にやってみせることに加えて、相手が理解できるような言葉での説明が欠かせないのである。
■「特別扱い」はアスリートも子供も教員も不幸にする
繰り返すが、当人の専門競技である部活動の監督などであれば、それなりに成果は出るかもしれない。とくにスポーツ強豪校ならば競技能力に優れ、競技力向上への意欲が高い児童や生徒がいる。
彼、彼女らは、ついこの前までトップアスリートだった人からの指導に目を輝かせることだろう。たとえ言葉足らずな指導であっても、それを補うべく努力しようとするだろうし、なにより知名度がある人からの直接的な指導に心が躍るはずだ。教える側も、彼、彼女たちの積極的な姿勢に意欲が湧いて、相応の充実感を覚えるに違いない。
だが、体育の授業となればそううまくはいかない。
体育の授業には運動そのものを苦手とする子供たちが少なからずいる。苦手意識があるためにどうしたって意欲的に取り組めない子供たちに、然るべき勉強をしていない元トップアスリートが指導できるのかは甚だ疑わしい。伝える言葉を十分に持っていないことに加え、できない人の気持ちを思いやる想像力や、「できない」を「できる」に導くための方法や考え方を備えているとは、到底思えない。
元トップアスリートは、おそらくどう指導すればよいのかわからない事態に陥るだろう。そうなれば教えられる側も困惑するうえに、うまく指導できない相談を持ちかけられる他の教員の負担も増える。
「うまく教えられない」と自信をなくす元トップアスリート、「うまくできない自分が悪いのかも」と自分を責め、先生の期待に応えられず落胆する子供たち、そして通常業務に加えて指導の仕方を元トップアスリートに指導する業務が新たに増える他の教員たちが、それぞれ煩悶を抱えることになる。
■教育現場には「愛嬌」も必要
したがって従来のプロセスを免除する「特別免許状」制度の活用は、きわめて的外れだと言わざるを得ない。教員免許取得に向けての勉強は、教育とは何かを学ぶためにある。それを端折ってはいけない。むしろ別立てで特別研修を設ける必要さえあると、私は考えている。専門競技に打ち込むなかで学業を疎かにしがちだった彼、彼女たちは、基礎的なことを学び直さなければならないからだ。
さらにもうひとつ——これはたぶんに私の経験則だが——自尊心と折り合いをつける術を身につける必要がある。
自らを特別な存在として自負し続けなければ、トップアスリートにはなれないものである。競争的環境を生き抜くためにコツコツと築き上げたこの自尊心は、トップに登り詰めるためには必要不可欠だ。エゴイスティックでなければ、スポーツで頂点を極めることは難しい。
しかしながらこの尊大な自意識は、教育現場ではときに仇となる。いまだ成長途上の未熟な子供の傍らに立つ大人には、「愛嬌」が必要だからだ。それには、成功体験よりも失敗談を積極的に開陳するよう努めなければならない。つまり、自分もまた一般的な人物に過ぎないことを自覚し、それを子供たちに伝えなければならないのだ。
それができて初めて、子供たちは卓越した人物の歩んだ人生が自分のそれとさほど隔たってはいないのだと感じる。この親近感がなければ、子供たちは元トップアスリートを別世界の住人としてただ見上げるだけにとどまり、触発されることはほとんどない。
写真=iStock.com/Marcio Binow Da Silva
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■「学び直し」をした元アスリートはきっと役に立つ
「愛嬌」を身につける。これは言葉でいうほど簡単ではない。自らのプライドと折り合いをつけるために、社会という文脈に我が身を置いて客観視しなければならないからだ。だから、それらを学ぶための特別研修を新たに設ける。セカンドキャリアでは、これまでの常識がそのままでは通用しない。狭い世界で生きてきた現実を直視し、見識を高めるための努力を、元トップアスリートはしなければならない。
自尊心に折り合いをつける術を身につけ、然るべき学び直しを経た元トップアスリートが教員になれば、教育現場は豊かになるだろう。類まれなる経験を備えた人物が子供の傍に立つことの豊穣性が、ようやく担保できるはずだ。
文科省が意図するところのトップアスリートが有する専門知識や経験の教育的効果、また教員不足の解消や教育現場の多様性は、こうしてもたらされると私は見立てている。
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平尾 剛(ひらお・つよし)
神戸親和大教授
1975年、大阪府生まれ。専門はスポーツ教育学、身体論。元ラグビー日本代表。現在は、京都新聞、みんなのミシマガジンにてコラムを連載し、WOWOWで欧州6カ国対抗(シックス・ネーションズ)の解説者を務める。著書・監修に『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)、『ぼくらの身体修行論』(朝日文庫)、『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)、『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)、『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)がある。
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(神戸親和大教授 平尾 剛)