NHK大河では「平安ギャル」と描かれた…史実に残る藤原道長の次女・姸子がたどった意外な生涯

2024年11月3日(日)15時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Yusuke_Yoshi

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藤原道長の次女・姸子とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「華美を好むあまりにたびたび身内の眉をひそめさせた特異な女性皇族だった。三条天皇との間に生まれた禎子内親王を残し、34歳でその生涯を閉じた」という——。
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■NHK大河で描かれた道長の娘の破天荒な言動


藤原道長(柄本佑)が三条天皇(木村達成)のもとに入内させた次女、姸子(倉沢杏菜)が奔放どころか破天荒で、独特の存在感を放っている。


NHK大河ドラマ「光る君へ」の第40回「君を置きて」(10月20日放送)では、父に言動をたしなめられると、「父上の御ためにがまんして年寄(註・三条天皇)の后になったのです。これ以上、がまんはできませぬ。ああ、どうせなら(註・三条天皇の第一皇子の)敦明様がようございました」と言い放ち、道長を絶句させた。


第41回「揺らぎ」(10月27日放送)でも、これに続く奔放な言動が描写された。一条天皇(塩野瑛久)が崩御して未亡人になった彰子(見上愛)は居所を枇杷殿に移し、これまで彰子がいた藤壺に姸子が移ってきた。そこに敦明親王(阿佐辰美)が訪ねてきた。


敦明は御簾の内側にいる姸子に向かって、狩りの話をはじめた。「うさぎは小さいながら右へ左へと逃げ足が速く、これを追って駆り立てるのは、また格別のおもしろさがございます」。


姸子に「狩りがお好きなのね。もっと狩りの話を聞かせて」とせがまれた敦明が、身振り手振りを交えて狩りの極意について語っていると、いつの間にか御簾から出てきた姸子は親王に、「好き」と言ってアプローチしたのである。「おやめくださいませ」と抵抗しながらも、まんざらでもなさそうな敦明に、姸子は「だって、敦明様も延子さまより私のほうがお好きだもの」とたたみかけた。


■三条天皇が寵愛したのは姸子でなかった


このとき止めに入ったのは、三条天皇の女御で敦明の実母である娍子(朝倉あき)だった。この娍子については、同じ第41回の少し前の場面で、三条天皇が言及していた。


三条天皇は道長に「朕の願いをひとつ聞け」と命じて、こう続けた。「娍子を女御とする。姸子も女御とする」。対して道長は、「娍子様は亡き大納言の娘にすぎず、無位で後ろ盾もないゆえ、女御となさることはできませぬ。先例もございませぬ」と反論した。ところが三条天皇は聞き入れず、「娍子も姸子も女御だ」と道長に伝えて、立ち去った。


三条天皇像(写真=『百人一首画帖』より/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

たしかに、姸子にも同情すべき点がある。三条天皇のこのセリフは、道長の娘の姸子だけを優先するつもりはないという宣言だが、史実においても、三条天皇はそのように行動した。というのも、娍子を寵愛していたからである。


娍子は藤原氏の本流ではない済時(なりとき)の娘。したがって政治的には重要とはいえない妻だったが、三条天皇はそんなことには構わず、敦明親王以下、6人の子を産ませた。そこに道長が打ったくさびが、天皇より18歳年下の姸子で、彼女は長和元年(1012)2月14日、中宮となった。


これに対し、三条天皇は妍子の立后を受け入れながら、寵愛する娍子も皇后として立后させるように求め、2カ月後に実現させている。ドラマでの「娍子も姸子も女御だ」という言葉は、その史実を表している。


■連日のどんちゃん騒ぎ


これは「一帝二后冊立」といって、かつて一条天皇の中宮として定子がいたところに、道長が彰子を割り込ませたのと同じ手法だ。三条天皇はそれを逆手にとって、道長に対抗したわけで、姸子の立場は、一条天皇に入内したばかりのころの彰子の立場に似ている。すなわち、天皇はもとからいた女御を寵愛し、あらたに入内した若い女御は相手にしない——。


その点では、姸子は気の毒なのだが、では、史実の姸子も破天荒だったのか。どんな人生をたどったのか、確認していきたい。


中宮になった姸子は、三条天皇から無視されたわけではなかったようだ。間もなく懐妊している。ところが、懐妊したことで移った東三条殿が火事になり、猛火のなか藤原斉信(ただのぶ)の屋敷に移った。同情に値する話だが、姸子らしいのはその後である。


まず藤原広業(ひろなり)が飲食物を献上し、大勢の上達部が参加して、火事見舞いの饗宴が開かれた。続いては、藤原正光が飲食物を持参して饗宴が開かれ、姸子の御前で蹴鞠も行われた。藤原道綱も同様に食料を持参し、終日管弦の催しを行っている。要は、懐妊中に焼け出されて気の毒なはずの姸子は、連日どんちゃん騒ぎをしていたのである。


談山神社のけまり祭(写真=radBeattie/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons

実際、『栄花物語』にも、姸子は派手好きだと書かれている。


■姉・彰子とは真逆の性格


そんな様子を苦々しく思っていたのが、姉の彰子だった。ある日のこと、道長の主催で公卿や殿上人を誘い、彰子の在所である枇杷殿で宴会が開かれるところだった。ところが、公卿たちが食料をもって集まると、宴会は中止だという。『小右記』によれば、彰子付きの女房は実資(さねすけ)に、彰子がこんなふうに語ったと告げたという。


最近、中宮(姸子)が頻繁に宴会を開いているので、公卿たちは困っているのではないか。私は夫を悼み悲しむばかりだが、公卿たちには腹に据えかねる思いがあるだろうし、そこで私が宴会をしたら、妹の繰り返しになってしまう——。公卿たちは日々、食料を持ち寄って疲弊しており、いまは道長に従っている人も、道長の死後にはなにをいうかわからないから、即刻やめるべきだ、というのが彰子の意見だった。


余談だが、「彰子付きの女房」は紫式部である可能性が高い。


実資は彰子の判断に対し、「賢后と申すべし。感あり感あり(賢いキサキだと申し上げるほかない。感心する、感心する)」と書いている。


実際、姸子はこうしたしっかり者の姉とは、かなり異なるタイプだった。


たとえば、長和2年(1013)4月、出産を控えた姸子が土御門殿に移る途中に彰子の御所に立ち寄り、饗宴が開かれたことがあった。このとき姸子にはいくつかの贈り物があり、その一つは藤原斉信から贈られた絵草紙などだった。


なんと姸子は、それをそのまま彰子に贈ったのだという。服部早苗氏は「贈物の横流しである」と指摘している(人物叢書『藤原彰子』吉川弘文館)。ちなみに、彰子は翌日、人がせっかくくださったものを、と書き添えて、それを姸子に返したという。


宇治陵墓群1号墳(写真=Kumiko Korezumi/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

■史実に残るパーティー好き


その後、姸子はふたたび気の毒な目に遭う。7月6日、姸子は産気づいてからわずか2時間で無事、出産を遂げたが、生まれたのは禎子(ていし)内親王だった。皇子の誕生を期待していた道長は、『小右記』によれば、露骨に不満の色を示したという。


このため産養(出産後3日、5日、7日、9日目の夜に開く祝宴)は盛り上がらず、五十日の儀でも道長は飲みもせず、実資に批判されている。


だが、その後も姸子の記録は、派手な催しとともにある。たとえば、治安元年(1021)9月、皇太后になっていた姸子と女房たちが無量寿院で法華経を書写し、供養している。その経が普通ではない。上下に絵が描かれ、黄金や銀の枝や玉、七宝などで飾られ、経箱は紫檀でできており、女房たちの服装もあでやかで、じつに華麗だったという。


あるいは万寿2年(1025)正月、姸子が枇杷殿で行った皇太后大饗(正月に行う大規模な饗宴)でのこと。


じつはこのころ過差禁制といって、女房には6枚以上の服装は着せないなど、規定以上の装束を着ることが禁じられていた。ところが、姸子はそんなことはどこ吹く風で、女房たちは3色で15枚以上の袿(うちき)など豪華絢爛な衣裳で着飾っていたという。このため、頼通は姸子に説教し、頼通は翌日、管理不行き届きで道長から叱責されている。


■残された一人娘は超大物に


だが、万寿4年(1027)4月、姸子は病に襲われる。最初は頸と肩の激痛に襲われ、次第に食事も摂れなくなり、7月には手足に浮腫が生じて、重篤な状態になった。そして9月14日、すでに虫の息の彼女は髪を切るしぐさをして出家の意志を伝え、亡くなった。34歳だった。


そのとき姸子の遺髪を捧げ、一緒に連れていってほしいと言った道長は3カ月後の12月4日、62歳で生涯を閉じている。


ところで、姸子が産んで道長に歓迎されなかった禎子内親王は、その後、彰子の第二皇子である後朱雀天皇に入内した。そうして産まれた尊仁親王は、のちに後三条天皇として即位し、両統迭立を解消した。それまでは、ともに村上天皇の子である円融天皇の系統と冷泉天皇の系統が、交互に即位する習わしだったが、その血をひとつにつなげたのが禎子だった。


さらには国母として、陽明門院と号してからもふくめ、叔母である上東門院(彰子)に勝るとも劣らない権勢を誇ることになるのである。


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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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