高倉健が「最後に愛した女性」に残された疑問点

11月7日(木)17時15分 プレジデント社

映画『あなたへ』に主演した俳優の高倉健さん。東京都世田谷区で。2012年7月27日撮影 - 写真=読売新聞/アフロ

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■没後5年で明かされた「17年の日々」


11月10日で俳優の高倉健が亡くなってから5年になる。


文藝春秋から、高倉健が養女にしたといわれる小田貴月(おだたか)(54)という女性の手記『高倉健、その愛。』が出版された。



写真=読売新聞/アフロ
映画『あなたへ』に主演した俳優の高倉健さん。東京都世田谷区で。2012年7月27日撮影 - 写真=読売新聞/アフロ

帯に「人知れず2人で暮らした17年の日々。孤高の映画俳優が最後に愛した女性による初めての手記」とある。


さらに、「高倉からのリクエストはたった一つ、『化粧をしないでください』でした——。」という意味深な言葉も添えてある。




森功『高倉健 七つの顔を隠し続けた男』講談社

彼女にまつわるさまざまな疑問は、ノンフィクション・ライターの森功が丹念な取材に基づいて書いた『高倉健 七つの顔を隠し続けた男』(講談社)に詳しい。


その多くの疑問に、一つでも二つでも答えているのではないかと思って早速読んでみた。


この一文は書評ではないから、はっきり書いておきたい。期待は見事に裏切られた。


私も編集者の端くれだから、この本に私がタイトルを付けるとすれば、『家政婦は見た! 高倉健の私生活』とでもするだろう。


その理由はおいおい書いていきたいと思う。


この本は、私のような健さんファンにとって興味深い本ではある。世田谷区瀬田の高台にある豪邸の中で、高倉健という人間が、どのような生活をし、何を楽しみにしていたのかはよくわかる。



■春は鶯、夏は線香花火、秋は小鳥と“一騎打ち”


たとえばこうだ。




小田貴月『高倉健、その愛。』文藝春秋

2階にある3つの小部屋は衣類専用で、南極、北極対応のダウンも毎年のように増えていった。1階の床下収納には寝袋が20枚近く整列していた。


一人だったときは、朝は自分で珈琲を淹(い)れる。スポーツジムに行って、フルーツをジュースにしてもらって飲んだり、腹が減って我慢できなければ、カロリーメイトをつまんだりしていたそうだ。


東映を離れてフリーになってからは、一時期サプリメントに凝って、店を出そうかと真剣に考えたことがあった。


ロケに行くときは、薬屋が引っ越すほどの量を用意した。アルコールは一切やらない。タバコも映画『八甲田山』の撮影の時にやめた。


料理と飲み物は常温か暖かいもの。肉食第一主義で、魚類は好まないが、外食でのすしは例外。


子どもの頃は虚弱体質で、8歳の時に肺浸潤(はいしんじゅん)(結核の初期)にかかり、1年間休学した。心配した高倉の母親は、兄妹3人の食事とは別に、毎日鰻を食べさせたという。そのため長じてから鰻は食べなかったそうだ。


江利チエミが急逝すると、いろいろなことが嫌になって海外へ完全移住しようとしたことがあった。移住先は「ご飯をとれば香港。ハワイは何てったって風だね」。私も同感である。


四方をモチノキや白樫の木々に囲まれ、絶対にのぞかれないようにした家の中では、このような暮らしをしていたそうだ。


「春の訪れは、鶯の幼鳥の鳴き声に告げられ、夏は庭のベッドで海水パンツ日光浴。夜風に吹かれ、愉しんだ線香花火。秋にはピラカンサ(トキワサンザシ)の熟れた実をついばむ尾長に、玩具の銃を手に一騎打ちに挑み、初冬、落ち葉のあまりの量の多さを見かねて、思わず箒を手に加勢してくれた奇跡の落ち葉掃き」


■「家政婦は見た」にふさわしいレシピの豊富さ


この本の中で、丹念に書き込まれているのは食事のことである。たとえば、亡くなるまで欠かさず食べていたというグリーンサラダについて、


「葉物の主役はルッコラ。それにレタス、ロメインレタス、サラダ菜、アンディーブ、白菜、などから三、四種類をミックスします。さらに季節によって、マンゴー、メロン、洋ナシ、林檎、葡萄、無花果などの果物を盛りつけ、胡桃、松の実、アーモンド、ビスタチオ、カシューナッツ、ヘーゼルナッツなどから、数種類をトッピングします。ドレッシングは、エキストラバージンオリーブオイルと、イタリア・モデナ産二十五年もの熟成バルサミコ酢、醤油を隠し味に数滴加え、挽きたての黒コショウをブレンドしました」


その他にも、中華メニュー、イタリアンメニューなどの作り方にもかなりのページを割いている。


私が「家政婦は見た」とタイトルを付けたいと考えたのが、おわかりいただけるだろう。


『週刊新潮』(11月14号)で、貴月の義理の母親・河野美津子(86)が、貴月の3度の結婚歴を明かした後、こう語っている。


「詳しい事情は何も知りませんが、健さんにとって貴さんは家政婦だったということでしょう。健さんは、江利チエミさんが亡くなった時、“彼女以外を愛さない”という風に言っていたんでしょう。私は健さんを信じています」


食事のレシピや映画についての記述に比して、高倉健との出会い、どうして一緒に暮らすようになったのか、高倉健の亡くなる時の様子などは、さらっと触れているだけである。



■「眼差しの奥にある“何か”がひっかかりました」


出会いは1996年3月半ば。フリーライターとして香港で女性誌の取材をしていた彼女が、ホテルの中華料理店に入ろうとしたとき、テーブルで談笑している高倉健を見つけた。


カメラなどの機材を持っていたため、レストランの外で待つことにした。しばらくして隅のテーブルで食事をしていると、高倉健が近づいて来て名前を名乗り、「今日は、お気遣いいただいて、どうもありがとうございました。良い仕事を続けられて下さい」。そういって離れていった。


その時彼女はこう感じたそうだ。


「私は高倉さんの眼差しの奥にある“何か”がひっかかりました」


帰国後、彼女は、香港でのお礼と、そのとき取材した女性誌を高倉健に送る。高倉からも自分の著書とイタリアを旅した記事が掲載されている雑誌が送られてくる。旅に出ると絵葉書を送り、短い返事をもらうというやりとりが1年近く続いたという。


転機はテレビのプロデューサーとして彼女がイランへ行くときに訪れた。


高倉は、『ゴルゴ13』(1973年の日本・イラン合作映画)の撮影でイランへ行ったが、「『イスラム圏ですから、女性には厳しい制約があります。スタッフと一緒でしょうけど、充分に注意を払って仕事をしてください。以上です』というシリアスな助言を頂きました」(小田貴月)。


■紙一枚で大事な縁が切れてしまった


首都テヘランへ着くと、高倉から「無事に着かれましたか」と電話が入る。高倉はああ見えても、好きになった女性にはマメに電話をしたり、手紙を書いたりすると、彼の死後、何人かの女性たちが語っているが、その通りのようだ。


その時、貴月によれば、高倉は電話でこう話した。


「『ゴルゴ13』の撮影前の思い出は僕の人生のなかでも、鮮明なんです。(略)僕はその二年前、縁のあった人と、別れた(離婚)んです。その縁のあった人は、とても好いていた人でした。でも、時が経つにつれて……。それでも縁は切れないと思っていたんです。ある日、その縁のあった人の弁護士から紙が届けられて、それでお終いでした」


「縁のあった人」とは、江利チエミのことだ。離婚届という紙一枚で大事な縁が切れてしまった。そして高倉はこう続けた。


「以来、僕は紙を信じなくなりました。本当に気持ちが通じ合っていれば、むしろ紙なんかいらないだろう、紙に縛られるもんかって、頑なになりました」


その後、カスピ海沿岸の町へ向かう途中、エンジントラブルが発生して、ホテルに到着するのが5時間遅れてしまった。


だが、電話回線が不安定で、高倉に連絡できず、ようやく通じたら、


「こんなに心配しているのに、どうして連絡できないんですか!」、そう怒鳴られ、「すぐに帰ってきなさい!!」といわれたそうだ。


彼女が拒否すると、その後、電話はなかったという。


10日経って、「コレクトコールをください」というFAXが来る。電話をすると、「もう二度と、イランに行って欲しくありません。続きの話は、日本でできますか?」と聞いてきた。



■誰に向けられた“愛”なのだろうか


貴月は、「帰国後、高倉と真剣に向き合いました」と書いている。高倉の伴奏者(そして伴走者)になろうと決意したというのだ。


そのとき、「仕事場では(撮影)で綺麗な方々に囲まれるので、普段は、できるだけほっとしていたいから、『化粧をしないでください』」といわれたそうだ。


以来17年間、散歩したのは一度きりの、高倉と一緒の生活が始まったらしい。


これを読む限り、高倉が彼女に惚(ほ)れて、結婚届という紙きれなどなくても一緒に暮らしたいと積極的だったと思われる。


だが、この本の中には、夫婦らしい会話や、男と女が一つ屋根の下に暮らす生々しさがほとんど描かれていない。


あえて触れなかったということも考えられるが、タイトルにある『高倉健、その愛。』の“愛”は、誰に向けられた愛なのだろうか。


『週刊文春』(11月14日号)で、阿川佐和子の対談に出て貴月は、「その愛」についてこう話している。


「愛とは魂の共鳴じゃないかと。あくまで私論ですが、人はそれぞれ異なる周波数を持っていると思っています。高倉は微妙なものから振れ幅が大きいものまで頻繁に周波数が変わります。その周波数に合わせられる力が愛」


彼女の「ごまかす力」は一流と見える。さすがに「聞く力」を誇る阿川も、最後の「一筆御礼」でこう書いている。


「貴月さんのお話を伺えば伺うほど、納得できたりできなかったりの繰り返しで、もやもやとした余韻がいまだ心の片隅に残っております」


高倉が亡くなる時の描写も案外さらっとしている。


「夜明け前。高倉は、病院のベッドで最期を迎えました。高倉を看取り、張り詰めていた緊張が解けぬままでしたが、看護婦さんから『ご一緒になさいますか』と声をかけていただき、一緒に体を清め、そして身支度を整えました。(中略)高倉の穏やかな顔を見つめながら、『私はお役に立てたでしょうか』。悲し気な顔にならないよう努め、心の対話をはじめていました」


この日は、映画『鉄道員』の亡くなった娘・雪子の生まれた日でもあった。


■夫婦同然に暮らしていながら“匂い”を感じさせない


出会いと別れを除くと、ほとんどが高倉の出演した映画の話である。特に『南極物語』についてのものが多い。


「今度の南極ロケで人生観が変わりましたね。何よりも、死を身近に感じて命に限りがあることを痛感しました。(中略)残りの人生の“持ち時間”があまりないなということ。残りの人生でどれだけのことができるのか、結局生きるとはどういうことか、南極ではそんなことばかり考えていました」(読売新聞1983年1月8日付)


その他には、俳優や監督たちの思い出、『鉄道員』で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞したときのスピーチ、巻末には高倉が好きだった映画を並べて、彼の一口コメントまで載せている。


クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』では、「日本版ができるんだったら、やってみたい。これはやられた!」といったそうだ。


というわけで、内容は盛りだくさんではあるが、高倉健の身近にいた人間の覚書のようなものである。



それに、高倉がインタビューに答えた新聞、雑誌の引用が多いのは、肝心なことを直接、本人から聞いていないからではないのか。


17年間も夫婦同然に暮らしていたのなら、何気ない彼との日々を思い起こして綴(つづ)るだけで、もっと興味深い手記になったはずである。なぜそうしなかったのか。


生前、高倉家に出入りしていた彼の友人・知人たちは、貴月のことを「家政婦さんだと思っていた」と、森功の取材に答えている。


部屋付きの家政婦ならば、高倉の日々の暮らしや食べ物の好みを熟知していても不思議ではない。ときには、夫婦に近い関係があったとしても、指弾されることではないはずだ。


しかし、この手記には、そうした匂いがほとんどない。かえって不自然だと思うのは、私だけだろうか。


■死を肉親に知らせず、墓地を更地にし、自宅を取り壊した


森功が『高倉健 七つの素顔』で挙げた彼女についての疑問点を並べてみよう。


貴月は高倉の死を福岡にいる高倉の実妹にも知らせず、死後2日で火葬してしまった。


実妹が、遺骨を分けてほしいというと、遺言で散骨してくれといわれたからと断った。


生前、死んだらここへ入ると高倉がいっていた鎌倉霊園の墓地を更地にしてしまった。ここには結婚していた江利チエミが孕んだが、事情があって産めなかった水子墓もあったのに。


クルマ好きで、多いときは20台ぐらい所有していたといわれる高級車も売り払い、手を入れれば立派に使えるクルーザーも解体してしまった。


高倉との思い出が詰まっていたであろう世田谷区瀬田の家も壊して、新築した。


森は養子縁組の際の入籍申請書類を見ている。貴月の母親と、高倉の従弟(高倉プロの専務・当時)のサインがあったという。


不思議なことに、高倉の本名である小田剛一のふりがなが「おだたけいち」ではなく「おだごういち」になっていて、従弟のところには、何も書かれていない申請書を持ってきて、サインしてくれといわれたというのである。


高倉の実妹や親族たちは森に対して、高倉の死を知らされなかった悔しさを隠さない。


なぜ、そうまでして高倉健という俳優が生きた痕跡を全て消し去ってしまったのだろうか。


かすかにではあるが、この本の中に、巷間でいわれている疑問に答えているのではないかと推測できる記述がいくつかある。



■命をかけた場所に、親類といえども立ち入らせたくない


たとえば、高倉の思い出の詰まった家を壊してしまったことについては、


「高倉にとって、家は一代、誰にも見られたくない聖域でした。その想いをうけ、高倉の旅立ちとともに封印しました」


高倉の本名は小田剛一(おだごういち)ではなく「おだたけいち」だと森は書いているが、この本では、小田剛一に「おだごういち」とルビを振っている。ごういちが正しいと主張しているようだ。


親族たちに冷たいのは、高倉のこんな言葉があったからではないか。


高倉は、仕事場に命をかけていた。そこへ物見遊山で「どうも、どうも」とかいって汗をかかないヤツがのこのこ現場に来るのはすごく嫌で、呼んでもないのに来るヤツとは口も利かなかったそうだ。


「見世物じゃねーぞって。親戚にもそう言い続けてた」


彼女にとって高倉と一緒だった場所は、かけがえのない命をかけた場所だった。そこへは親類といえども立ち入らせない。深読み過ぎるとは思うが、そうとれなくもない。


貴月には母親がいる。入籍申請書類にサインしたのも母親である。養子縁組に母親がかなり動いたともいわれている。その母親については、「樹影澹 あとがきにかえて」の末尾にさりげなく、


「いつもそっと見守ってくれた母の存在も、とても大きかったです」と書いている。


■本当はどういう関係だったのだろう


同じ「樹影澹」で彼女は、


「亡くなる二カ月前に高倉が書き遺してくれた言葉、〈僕の人生で一番嬉しかったのは貴と出逢ったこと 小田剛一〉でした」


と書いている。なぜ、この遺稿の写真を載せなかったのだろう。


巻末には高倉の自筆なのだろう、「人生の喜びわ なにかを得る事でわない。得てから大事にしていく事。『めぐり逢ひ』」と書かれた文字が額に入っている写真が載っている。


文字の乱れから推測すると、これは高倉が亡くなる間際に書いたものかもしれない。


森は、高倉亡き後の貴月の不可解な行動の発露を、「心の底で燃やし続ける瞋恚(しんい)の炎が、彼女を駆り立てるのではないか」と書いている。


だが、この本全体を貫いているのは高倉への“怒り”ではない。といって身震いするような男への愛おしさでもない。ノンフィクションのような第三者的な書き方といってもいいかもしれない。


この本を読了した後に残ったのは、高倉健と彼女は本当はどういう関係だったのだろうという、素朴な疑問であった。(文中敬称略)



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元木 昌彦(もとき・まさひこ)

ジャーナリスト

1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『編集者の教室』(徳間書店)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)などがある。

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(ジャーナリスト 元木 昌彦)

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