だからトヨタは世界一の自動車会社になった…初代会長の「物づくりのまえに人を育てる」の深い意味
2024年11月8日(金)6時15分 プレジデント社
写真=iStock.com/ollo
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■イノベーション研究の第一人者が考えるトヨタ成功の理由
自動車メーカー、トヨタはどうだろう。低価格でコンパクトなトヨタカローラはつねによく売れている。トヨタに成功をもたらしたおもな要因は、安価な労働力や政府からの援助ではない。それらももちろん役には立ったが、トヨタは戦後、より重要で、より永続的な、ある要因によって成長した。
1937年に創業したトヨタ自動車株式会社は、日本と東アジア地域の無消費(※)に焦点を当てたプロダクト開発をおこなった。当時の人は誰も、トヨタが将来、世界第5位の収益を上げる巨大企業になるとは想像しなかっただろう。
(※編註 「無消費(ノン・コンサンプション)」はクリステンセン氏が『ジョブ理論』の中で提唱した考え方。無消費とは「何らかの『制約』によって製品やサービスが使われていない」ことを指す。)
日本ではそのころまだ、31万輛近くの荷馬車と11万1000輛の牛車が行き来していた。道路の大半が未舗装で、そうした道を自動車で走行するのは不経済で危険な冒険でもあった。道が悪ければ車は故障しやすい。全長の5分の1しか舗装されていなかった戦後の日本では、動かなくなった車が道路脇のあちこちで見られた。トヨタはそうした国内事情を考慮して車をつくった。
■まず無消費をターゲットにする
当時の社長、豊田喜一郎は言明している。
「トヨタは、荒れた道路に耐えられ、東アジアの人々にとって実用的な、経済効率のいい車を開発しなければならない」
当時トヨタが日本で生産していた車はアメリカの消費者が満足できるレベルのものではなかった。しかしトヨタにとってそれは問題ではなかった。先進国への輸出を考えるまえに、日本と近隣アジア諸国の巨大な無消費をターゲットとする心構えだったからだ。
トヨタが日本国内の販売台数と同数の車両を北米に輸出するようになるのは1980年のことだ。しかし北米への輸出を開始したあとも基本的な戦略を変えることはなく、ガソリンを大量に食うアメリカ車を所有できない、アメリカ市場の低所得層をターゲットとした。
トヨタが、フォード、GM、クライスラーといった既存の自動車メーカーと競争するのではなく、まず、無消費をターゲットとするという戦略を取ったことは、日本の発展にとって大きな意義があった。その理由を大きく4つにまとめてみよう。
■海外輸出のまえに自動車学校を作つくったワケ
第一に、トヨタは本拠地である日本に、マーケティング、販売、流通、教育、サービス、製品サポート等、自動車業界に付随するあらゆる職種を引き入れるローカル市場を創造した。
一例として、トヨタは名古屋の中部日本自動車学校を設立している。これが他の自動車学校のモデルとなって、日本での自動車の普及に貢献するとともに、トヨタ車の販売台数も押し上げた。
もしトヨタがたんに安い労働力を利用して自動車を生産し、外国に輸出するという低コスト戦略を取っていたなら、自動車学校には投資しなかっただろうし、その自動車学校に1958年、新入社員にトヨタのセールスメソッドを教育するための「トヨタ・セールスカレッジ」を設置することもなかっただろう(その後、「日進研修センター」を建設)。
無消費をターゲットにするには、プロダクトの効果的な製造や出荷に関する専門知識だけでなく、その地域の実情に関する知識も不可欠となる。
第二に、無消費をターゲットとした戦略が成功したことで、活気ある市場が生まれ、長期的な雇用を創出する土壌が形成された。
■物づくりのまえに人を育てなければならない
トヨタが新しい工場を設立し、国内の消費者に向けてますます多くの車を販売するようになると、より多くの従業員が必要となった。たとえば、多くの会社が豊田市(豊田という市の名称は、トヨタがそこに会社と工場を置いたことに由来する)で自動車の製造にかかわるようになり、1962年には2.7だった求人倍率が、1970年には7.1にまで増加している。
また、全国のトヨタの販売店数は1938年にはわずか29店だったが、1980年には300店を超えた。トヨタの成長を雇用面で見ると、圧巻としか言いようがない。
1957年、トヨタの従業員数は約6300人だったが、10年後には5倍以上の約3万2000人となった。本書の執筆時点で、トヨタは日本の7万人を含め、全世界で36万9000人以上の従業員を雇用している。
初代会長である豊田英二は、従業員の教育および育成に関する方針について、「物をつくるのは人だ。したがって、物づくりのまえに人を育てなければならない」と述べている。
豊田英二(1913年9月12日—2013年9月17日)(写真=『トヨタ自動車20年史』/トヨタ自動車工業株式会社社史編集委員会/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons)
こうした方針が、専門の教育訓練部門の設置や、販売店で働く中堅従業員の教育を目的とした職業訓練学校の設立につながった。
■イノベーションは往々にして規制に先行する
第三に、無消費をターゲットとした企業戦略は、地域の規制や制度の枠組みを、その地の実情に沿った、適切なものに変えていった。
ジェフリー・アレクサンダーが著書“Japan’s Motorcycle Wars”(日本のオートバイ戦争)のなかで述べている。
「日本の道路を走行する車両の数が増加するにつれ、交通法や車両登録、運転免許制度、走行路の取り締まり等、一貫した政策の必要性が急速に高まった」
つまり、車両というイノベーションが普及したことで、日本特有の状況に適した政策が促されたことになる。このように、イノベーションは往々にして規制に先行する。存在していないものをあらかじめ取り締まることはできないからだ。
第四に、とくに自動車産業の場合、無消費をターゲットとした戦略は日本経済に新たな産業を生み出した。車の販売やサービスに関連する仕事をはじめ、物流および輸送業界、安くなった交通費を背景に国内旅行業界も拡大した。学校や病院へのアクセスがよくなり、郊外の開発も進んだ。
■アメリカ市場での評価
もし、トヨタが戦後、日本の無消費をターゲットにするのではなく、アメリカの三大自動車メーカー(フォード、GM、クライスラー)と競争する道を選んでいたらどうなっていただろう。それでもトヨタは成功し、日本は繁栄していただろうか?
じつはトヨタはそのころ、ほんの短期間ではあったがアメリカ市場に打って出た時期がある。1958年、トヨタは日本国内で成功したあとに、主力車であるトヨペット・クラウンを携えてアメリカ市場に乗り込んだ。
初代トヨペット・クラウン RS20型(後期型)(写真=Mytho88/CC-BY-SA-3.0,2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons)
クラウンは日本で非常によく売れた車種であったため、幹部陣はアメリカでも売れると考えていた。しかし結果は大失敗だった。ある観測筋はこうコメントしている。
「クラウンは日本の荒れた道路に適合するよう設計された車であり、アメリカのなめらかで流れの速い道路には合わなかった。時速が60マイル(約96キロ)に達すると激しく振動し、ドライバーはバックミラーを見ることができないほどだった」
■あえてビック3とは勝負をしない
敗北を認め、トヨタの経営陣は1961年には撤退を決断した。しかし永遠に去ったわけではなかった。アメリカ市場について研究を重ね、現地の消費者の「片づいていないジョブ」を理解したあとで、トヨタはカローラを生み出した。
クレイトン・クリステンセン『イノベーションの経済学』(ハーパーコリンズ・ジャパン)
のちに販売台数が世界一となる車だ。トヨタはビッグ3と競争するのではなく、異なる戦略を取った。
トヨタの“販売の神様”と称された神谷正太郎は、小型車は家庭の2台目、3台目の車として重宝され、ビッグ3とまともにぶつかることはない、と当時の戦略を振り返っている。
トヨタの成功は、他の日本企業にも影響を与えた。日本最大の自動車メーカーであり、現在も世界のトップクラスを維持しているトヨタだけでなく、日産、ホンダ、三菱、スズキ、マツダ等、日本経済の形成に大きく貢献した自動車メーカーがほかにも数多く存在する。
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クレイトン・M・クリステンセン(くれいとん・えむ・くりすてんせん)
経営学者
1952年、ユタ州生まれ。ブリガムヤング大学経済学部、オックスフォード大学経済学部卒業後、ハーバード・ビジネススクールで経営学修士取得。ボストン コンサルティング グループでコンサルタントを務めながらホワイトハウスのフェローとしてエリザベス・ドールの秘書も務める。その後、MITの教授らとセラミックス・プロセス・システムズ・コーポレーションを起業。92年同社を退社し、ハーバード・ビジネススクールで経営学博士号取得。
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(経営学者 クレイトン・M・クリステンセン)