「姦」という漢字はどう読むのが正しいのか…「平安時代の辞書」に記されていた"すさまじい読み方"
2024年11月14日(木)18時15分 プレジデント社
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■ベテラン校正者が指摘した「日本語の大問題」
「漢字があるから校正作業もあるんです」
きっぱりと言い切ったのはベテラン校正者の小駒勝美さんだ。彼は新潮社校閲部を定年退職し、フリーの校正者として活動する傍ら、通信教育の校正講座(実務教育研究所)の講師などもつとめている。
—─漢字がないところには校正もない、ということですか?
私がたずねると、小駒さんは「そうです」とうなずいた。
「英語圏などでは文字や記号が単純なので、字形の問題もありません。校正といっても印刷工の副次的な作業なんです。私たちは漢字を使っているから、出てくる問題点がいっぱいある。漢字の字形の問題もあるし、送り仮名、それからルビの問題。ルビなんて誤植の宝庫ですからね」
確かに英語のアルファベットは26文字しかない。日本語にはひらがな、カタカナに加えて漢字(『大漢和辞典 修訂第二版』[大修館書店 1989〜1990年]には親字約5万字が収録されている)があり、時として英語のアルファベットなどを文中に使う。文字種だけでも比較にならないのだ。
漢字ゆえの校正。まるで漢字が校正を生んだかのようで、漢字の中でも「わざはひ(災い)」(『校正の硏究』大阪每日新聞社校正部編 昭和4年 以下同)とされるのは誤字である。誤字の訂正こそが「校正本來の職務または目的」であり、「つねに警戒してこれを摘發し、見落すことのないやうにせねばならない」と念を押されているのだ。
■漢和辞典で「誤字」を調べてみると…
誤字を摘発するには、まず「誤字」とは何かを知らねばならない。そこであらためて漢和辞典で「誤字」を調べてみると、こう語釈されていた。
異体字の一種。
(『角川 大字源』角川書店 1992年 以下同)
誤字はただの「誤った字」ではなかった。それは「異体字」のひとつ。「本来、その使用は望ましくないが、通用してしまっているもの」らしいのだ。
いわゆる慣用ということで、一体、誰にとって望ましくないのか。
疑問を覚えた私は早速、同書の凡例(はんれい)を確認した。すると「異体字」とは「親字と同音同義に用いられる漢字」と定義されている。「親字」とは辞典の見出しになっている字で、同書の場合は内閣が告示した「常用漢字」や「教育用漢字」「人名用漢字」、そして「和漢の古典の読解に必要な多くの漢字・国字」から構成されている。それらの親字と同じ読み、同じ意味で使われるが、字体の異なる字を異体字と呼ぶらしい。一般的に異体字は次のように分類される。
・俗字
・古字
・別体字
・誤字
・本字
■「氷」という漢字は間違っていた
誤字以外でよく耳にするのが「俗字」である。実例を調べてみると、私の名字「髙橋」の「髙」も俗字だった。戸籍に「髙」と記されていたので、仕事上も由緒正しく、正式名として「髙」を使っているのだが、同書によると「俗字」とは「本字の字形が長期の使用の間に省略され、また、崩れた形で流布し定着してしまっているもの」。正式のつもりが、世俗にもまれて「髙」だったのである。同様に「氷」も俗字らしい。本当は「にすい」に水と書いて「冰」と表記すべきなのに、崩れて「氷」になったそうだ。
「氷」は間違っていたのか。
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私はびっくりした。そういえば私はよく「氷」を書き間違えていた。「永」と混乱して点の位置に迷ってしまうのだ。間違えていたのは私ではなく字のほうだったのか。ちなみに「隣」も俗字。本字は「鄰」で、俗にまみれて左右反転してしまったらしい。
■漢字は「ヘン」と「ツクリ」が流動する
次の「古字」とは、中国で最初に編纂された字典『説文解字』(許慎著)に所収されていた字を楷書形にしたものらしい。これは「古い字」ということで納得できるのだが、その次の「別体字」はよくわからない。略して「別体」、あるいは「或体」「同字」「動用字」などとも呼ばれているそうで、「別の系統で成立しながら、親字と同音同義であるもの」(同前)だとか。漢字はヘン(偏)とツクリ(旁)が流動するらしく、「峰」の「山」が上に移動して「峯」になったり、「略」の「田」が動いて「畧」になったり、「裏」の「里」が横にスライドして「裡」になったりする。実は「和」も本字は「咊」で、ヘンとツクリが入れ替わったらしい。この字は「口」を「禾(加える)」ということで、「調子を合わせる」ことを意味しているそうなのだ。
「或体」というだけあって人を「或或(わくわく)」(まどうさま)させるように漢字は動く。動きながらも「同字」の関係にある「別体字」なのだそうだ。同字で別体字。同じなら別ではないような気もするが、これらの別体字と誤字は何が違うのだろうか。実は辞書によって分類は異なるようで、例えば、『旺文社 漢和辞典 改訂新版』(旺文社 1986年)は「笑」を本字の「芺」の誤字だと断定していた。「芺」とは植物の「あざみ」。その音(ショウ)を借りて「わらう」という意味に用いたらしいが、「くさかんむり」を「たけかんむり」と間違えて「笑」になった。そこに「くち(口)へん」を付け、しなをつくる(「妖」)意を加え、「たけかんむり」も崩れて「咲」ができたとのこと。「笑」と「咲」はどちらも「わらう」という意味の同義語とされているが、どちらも間違いが重なってそうなったらしい。
■「文字」とは「文」と「字」のこと
いずれにしても本字を誤ったのが誤字とされるのだが、驚くべきことに本字もまた異体字のひとつなのだ。「漢字の成り立ちからいって正字形とすべきもの」(前出『角川 大字源』)である「本字」が異体字ということは、どの親字も正しくないわけで、そうなるとドミノ倒しのようにすべてが誤字に思えてくる。崩れたにせよ、ヘンやツクリが動いたにせよ誤字。日本では戸籍係の書き癖や写し間違いから数多くの誤字が生まれたそうだが、たとえ正しい形でもすべては誤った字。異体字のひとつとしての「誤字」ではなく、広い意味で文字はすべて誤字ではないだろうか。
もしや「文字」という文字も誤字かもしれない。
あらためて調べてみると、「文字」とは「文」と「字」のことだった。『学研 漢和大字典』(学習研究社 昭和53年 以下同)によると、「文」とは「紋様の紋(もん)」と同系の言葉で、「物の形を模様ふうに描いた絵もじ」のこと。単体で何かを表わしているもので「水」「牛」「犬」「門」などが「文」なのだ。一方の「字」とは、「滋(じ)」(ふえるの意)と同系で「既成の絵もじを組み合わせて、ふやしていった後出のもじ」を指すらしい。「文」を組み合わせて「汁」「物」「嗅」「間」などという「字」をつくる。つまり「水」は「字」ではない。「水という字を書いた」などと使うと、それこそ誤字になるのだ。
■正岡子規が亡くなる前年に記していたこと
なんにも知らなかった。
私は呆然とした。全部忘れていた、というべきだろうか。
文筆を生業(なりわい)としながら、あまりの無知に呆然としたのだが、念のために「呆然」を調べてみると、「呆然」は漢語ではなく日本固有の熟語だった。「あっけにとられるさま」(前出『角川 大字源』)を意味するそうで、何やら漢字世界に対する私の心境にしっくりとくる。
呆然として漢字を見つめる。かの正岡子規も亡くなる前年に病床でこう記していた。
正岡子規(1867-1902)(写真=『明治文学研究 2 正岡子規』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
余は漢字を知る者に非(あら)ず。知らざるが故に今更に誤字に気のつきしほどの事なれば余の言ふ所必ず誤あらんとあやぶみし
(正岡子規著『墨汁一滴』岩波文庫 1984年 以下同)
■誰かが「正しい」と決めている
自分は漢字を知らない。知らないからこの期(ご)に及んで誤字に気がつく、と嘆いていたのである。俳句を発表するたびに読者などから誤字を指摘されたらしいが、彼は指摘に対して感謝を述べていた。余命わずかでも「一日なりとも漢字を用ゐる上は誤なからんを期するは当然の事なり」と記したのである。
文筆家の矜持(きょうじ)。私も学ぶべき心得なのだが、「誤なからん」とするには何を拠り所にするべきなのだろうか。「字画の正しい字」、すなわち「正字」こそが答えとなるはずなのだが、「正字」は次のことも意味していた。
官名。文字の誤りを正す。
(『全訳 漢辞海 第四版』三省堂 2018年)
実は「正字」とは役職の名前。北斉から明の時代に図書の管理を行なう役所(秘書省)におかれた役職で、要するに校正者のことだった。中国には異体字を含めて8万を超える漢字があるそうだが、当時は「科挙」という人材登用の試験制度があり、文字の正誤を定める必要があったのだ。文字自体が正しいわけではなく、誰かが正しいと決めている。誤字の対義語は「正字」という名の校正者だったのである。
■「正書法」のない、極めて珍しい言葉
「そもそも日本語には標準表記がありませんし」
小駒勝美さんが続けた。日本語には漢字があるから校正がある。標準表記がないから校正が必要になるという。
—─標準表記、ですか?
「いわゆる正書法がないんです。英語やフランス語、中国語にはディクテーションがあるでしょ。読みあげた文章を書き取るテスト。正確に文字に起こせるかというテストですが、日本語ではこれをやりません。受けたことあります?」
—─確かに、ない、ですね。
例えば「とりかえる」という言葉を聞いても、「とりかえる」と書けるし、「取り替える」とも書ける。他にも「取り換える」「取りかえる」「とり替える」……。書き方は人それぞれで、正解はひとつではないのだ。そもそも「日本」という国号も「にほん」なのか「にっぽん」なのかいまだに不明。日本語の正しい文法を学ぼうとしても、品詞の分類からして「現状では品詞の立て方は学者によってかなりまちまちである。大筋では同じような所に落ち着くと見ることもできようが、それは妥協の産物であり筋が通らない点が多い」(『岩波 国語辞典 第7版 新版』岩波書店 2011年)といきなり水を差されてしまうありさまなのである。
「日本語は正書法のない、極めて珍しい言葉なんです」
世にも珍しい正体不明の言葉。漢字仮名交じり文という形態は、漢字や漢字から派生した仮名の交じらせ方に公式な正解がなく、だからこそ校正者が必要になってくるのだ。
■そもそも漢和辞典に問題がある
漢字の校正というより漢字ゆえの校正。となると校正の拠り所は漢和辞典になるのだが、そもそも漢和辞典に問題があると小駒さんは考えたらしい。
「通常の漢和辞典は漢文や漢籍を読むための漢和辞典なんです。つまりは漢語の対訳辞典。これってどう考えてもおかしいですよね」
漢和と呼ばれるくらいで、漢字の辞典は翻訳辞典。「漢語(古漢語)そのものを学習するため」と銘打つ『全訳 漢辞海 第四版』(前出 以下同)もあるくらいで、漢字を知るとは、その字源や成り立ち、四書五経などの用例を学ぶこととされている。
—─それっておかしいんですか?
思わず問い返してしまった私。慣れてしまっているので特に違和感を覚えなかったのだが、あらためて読み返してみるとヘンであることに気がついた。例えば「徳」という漢字は「社会において正しいものと評価される行動規範。道徳」と訳されている。翻訳のようだが、訳の日本語は漢文読み下しのようである。そして「徳」の語義は「恩義」「恩恵」「作用」「功能」「幸福」「行動」「信念」などと記されている。つまり漢語を漢語で言い換えており、漢和というより漢漢辞典。和語を排除するかのような印象を受けるのである。
■「日本語としての漢字」を解説
「私たちは日本語として漢字を使っています。漢語ではなく日本語としての漢字。日本人の漢字の使い方を普通に理解できる辞典が必要なんです」
同じ漢字でも中国の古漢語の漢字と日本語を表記するための漢字は違う。日本語の文章を校正するには「日本語としての漢字」を解説する漢字辞典が必要だと彼は痛感し、あろうことか独自の漢字辞典の作成に着手したのである。以前取材した校正者の境田稔信さんはありとあらゆる辞書を収集していたが、小駒さんは自分で辞書をつくろうとしたのだ。
そして企画提案から約10年かけて完成したのが『新潮日本語漢字辞典』(新潮社 2007年 以下同)。まさに日本語としての漢字の「正字」。校正者の彼はそれまでの漢和辞典のあり方を校正してみせたのである。
写真=iStock.com/bee32
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約3000ページ近い大著。まず私が目を引かれたのは冒頭の凡例だった。
漢字の意味(字義)はできるだけ訓読と対応させるように説明した。
訓読みこそが「日本語としての漢字」たるゆえん。訓読みとは、漢字の「山」を漢語のように「サン(あるいはセン)」とは発音せず、日本語の「やま」を意味するので「やま」と発音する。私たちにとっては当たり前のことだが、世界的に見ると「相当奇抜な所業であり、また一大飛躍」(高島俊男著『漢字と日本人』文春新書 平成13年 以下同)らしい。英語の「mountain」を「マウンテン」ではなく、そのままダイレクトに「やま」と発音してしまうようなこと。中国人に「これは『サン』ですよ」と注意されそうだが、日本人は「いいえ、これは『やま』と読みます」と開き直るわけで、訓読みはとても「大胆な」「ずいぶん乱暴な」漢字の取り扱いなのだ。
■日本語の訓読みだけが間違いを継承
乱暴といえば、平安時代の漢和字典『類聚名義抄』(貴重図書複製会 昭和12年)などを見てみると、「乱」という漢字は「ミタル」(みだれる)以外に「ヲサム」(おさむ)、「トヽノフ」(ととのう)とも訓読みされていた。「乱」に「乱れる」と「治める」「整う」という真逆の訓読みを併存させていたのだ。現代でも『常用字解』(白川静著 平凡社 2003年 以下同)には「乱」の訓読みとして「おさめる」と記されている。実は「乱」の本字は「亂」で、もともと左側に表わされた糸のみだれを右側の「乙」(骨べら)でおさめることを意味していたのだが、誤って左側の「みだれ」を意味するようにもなり、「みだれる」「おさめる」が共存するようになったらしい。これは漢代以降に起きた混同らしいのだが、現代中国語の「乱」にはそのような混同はなく、日本語の訓読みだけが間違いを継承しているようなのである。
平安時代の漢和字典『類聚名義抄』(写真=天理大学附属天理図書館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
■古典に掲載されている「姦」のすさまじい訓読み
さらに私が驚かされたのは「女」を三つ重ねた「姦(かん)」の訓読みだ。現代では「みだら」「かしましい」と訓読みされるが、『類聚名義抄』などの古典に掲載されていた訓読みはすさまじい。その一部を現代仮名遣いで列挙してみると、次の通り。
「かしがまし」(やかましい)、「よこさま」(非道)、「いつわる」(偽る)、「みだりがわし」(不謹慎)、「さま」(体裁)、「ささやく」(囁く)、「さわがし」(騒がしい)、「ぬすむ」(盗む)、「ひそかに」(密かに)……
訓読みというより罵詈雑言。漢字を使っていた男たちの女性蔑視が炸裂しているようで、漢字の読みというより、人として間違っているような気がするのである。かつて荻生徂徠が「和訓を以(もっ)て字義を誤まつ者」(「文戒」/『荻生徂徠全集 第一巻』河出書房新社 1973年)と指摘していたように、訓読みこそ間違いの元。訓読みがのちの誤字誤読を招いているのではないだろうか。
■日本語における漢字の「ひとり歩き」
「訓読みはひとり歩きするんです」
そう言って、小駒さんは『新潮日本語漢字辞典』(前出 以下同)を開き、パラパラとめくって「美」を指差した。
「『美』は『うつくしい』と訓読みします。すると『美』という漢字が『うつくしい』ものとして展開していくんです」
髙橋秀実『ことばの番人』(集英社インターナショナル)
うつくしいものを「美」と呼ぶのではなく、「美」という字自体がうつくしいものになり、「ひとり歩き」するのだという。同書の解説は中国の四書五経ではなく、明治以降の近代文学作品をもとにしており、漢字の「ひとり歩き」の足跡を辿っている。漢字の「意味」とは、その方向性のことなのだ。「美」の場合でも「人の顔かたちや姿がすぐれている」という意味では、「美の女神・美麗・美人・美形・美女・美男・美少女・美男子・美髥(びぜん)・優美・脚線美・健康美・美醜」などの熟語として展開していく。「物の色や形がすぐれている」という意味では「美観・美本・美術・美学・耽美・美しい風景・美しい彫刻」。そして「言葉や音楽が人をうっとりさせる」では「美声・美音・美文・美辞麗句・美しい響き」、さらに「行動や性質が立派である」では「美風・美俗・美挙・美徳・美談・済美(せいび)・美しい友情」、加えて「有終の美」や「褒美」「甘美」……。「美穀(みよし)」「美作(みまさか)」「美袋(みなぎ)」などの地名や、「美人局(つつもたせ)」などの熟字訓。「美事(みごと)」「美味(うま)い」「美味(おい)しい」などの当て字も収録している。こうして通読すると、日本語における漢字の「ひとり歩き」を実感できる。この歩きぶりこそが日本語なのだろうか。
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髙橋 秀実(たかはし・ひでみね)
ノンフィクション作家
1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『からくり民主主義』『趣味は何ですか?』『不明解日本語辞典』『悩む人』『道徳教室』『おやじはニーチェ 認知症の父と過ごした436日』など多数。
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(ノンフィクション作家 髙橋 秀実)