「スバル360」が60年経っても未だに現役な理由

11月20日(水)9時15分 プレジデント社

スバル360(2010年9月23日、群馬県太田市のスバルビジターセンター) - 写真=時事通信フォト

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敗戦から13年がたった1958年。富士重工(現SUBARU)は、後のベストセラーとなる「スバル360」を世に出した。大型車でも登れない急坂も難なく走る軽自動車には、元飛行機会社ならではの技術が込められていた——。(第6回)

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スバル360(2010年9月23日、群馬県太田市のスバルビジターセンター) - 写真=時事通信フォト

■政府の援助も受けずベストセラーカーに


「乗員は大人ふたり、子どもふたり。最高時速一〇〇キロ、重量四〇〇キログラム以下。価格二五万円以下」




1958年に発売され、“てんとう虫”の愛称で親しまれた「スバル360」(提供=SUBARU)

政府は自動車産業の育成と国民に自家用車を提供するために、「安くて小さいけれど、性能のいい車」を作るよう、各メーカーに要請したのである。そして、トヨタ、日産をはじめとするメーカーに競争試作させて、「最終的に一車種に絞り、国民車として生産・普及の援助を与える」とした。


ただ、最終的には一車種に絞ることにはならなかった。結局のところ、上記の基準をクリアできたのは排気量の小さな軽自動車だけで、そのなかでもスバル360があっという間にベストセラーカーになってしまったので、役所が育成や援助をする時間はなかった。



■「世界のライトカーと比べても遜色ない」


それくらい、中島飛行機時代からのエンジニアである百瀬晋六たちが作った「てんとう虫」は上出来の車だった。著書『間違いだらけのクルマ選び』でも知られる自動車評論家の徳大寺有恒はこう評している。


「初期のライトカーたちにとどめを刺し、軽自動車の決定版として一九五八年に登場したのが、富士重工のスバル360である。スバル360は立派な自動車だった。当時、日本だけでなく、第二次世界大戦の敗戦国のドイツやイタリアでも、メッサーシュミットやBMW、イセッタ、チュンダップなどの、簡便なライトカーが大量に作られていたが、スバル360は、それら当時の世界水準のライトカーすべてと乗り比べても、遜色ない性能を持っていただろう」


「スバル360は実にパッケージングが優れていた。(略)そのボディは四角いフルワイドボディではなく、まだ曲線のフェンダーラインを残しているものだったが、それを決して無駄に使ってはいない。(略)


リアシートにも大人二人が乗れるから、その気になれば、少々つらいとはいえ、大人四人を乗せてぼくの得意の日光くらいは充分行けただろう」(『ぼくの日本自動車史』徳大寺有恒)


■サラリーマンでも手が届くのに高スペック


徳大寺が驚いたように、スバル360は当時の技術の粋を尽くしたもので、ユーザーにとっては、お値打ちのクルマだった。価格は42万5000円(公務員初任給9200円)。オートバイ2台分の360ccというエンジン容量なのに大人4人が乗ることができた。しかも、舗装されていなかった当時の道路を時速60キロで巡行できたのである。


通産省(現経済産業省)が出した「国民車構想」に応募し、量産されたのは三菱重工の三菱500だけだった。しかし、価格が高すぎて、国民車になり損ねている。


だが、スバル360は価格がサラリーマンでも手が届いたし、何より国民車の基準よりもはるかに高いスペックを実現してしまったのだった。


当時、新入社員だった同社OBは「私自身も買いました」と語る。


「スバル360は飛行機技術者だから作ることのできた軽自動車でした。エンジンは二気筒の空冷エンジン。フレームレス・モノコック構造で、四輪独立懸架。車体の鋼板は0.6ミリと薄く、軽量化に役立ちました。また、屋根は強化プラスチック(FRP樹脂)だから、これまた軽い。大傑作車で、発売から11年間、モデルチェンジなしで市場に出していましたし、大人気でした」



■1グラム単位まで何度も削る徹底ぶり


百瀬は軽量化、スペースの拡大、乗り心地の良さを追求したが、その開発方法は飛行機を作った時と同じやりかただった。


まずは徹底的な軽量化である。薄い鋼板、FRP樹脂の採用にとどまらず、5グラム、10グラム単位で車重を削った。


中島飛行機時代からの部下、小口芳門は百瀬が信頼する男だった。小口自身も自分のチームを持ち、部下には徹底した軽量化を教えていた。


小口はハンドルの設計をしていた部下に「まず粘土模型を作ってみろ」と伝えた。そうして部下が設計したハンドルの重さは9.26キロ。小口は「どうにか7.5キロまで落とせ」ともう一度、指示する。部下はハンドルの粘土をカミソリで少しずつ薄く削っていった。


そして、削りカスを手に載せ、その後、秤(はかり)ではかってみたら削りカスの重さはやっと10グラムにしかならなかった。


その様子を見ていた小口は「よかったな。10グラム軽くなったぞ」と満足そうな表情をする。しかし、部下は「小口さん、たった10グラムじゃないですか。これくらいのことではなかなか減らせませんよ……」と文句を言う。


小口は猛然と怒った。


「そんなもんじゃない。戦争していた頃、中島飛行機の設計室には重量班というのがあって、彼らが設計者の図面をチェックするんだ。予定されている重量よりも1グラムでも重ければ設計図は描き直し。直属の上司よりも重量班の方が偉かった。いいか、飛行機の軽量化はささいなことの積み重ねなんだ」


以後、彼が口を酸っぱくして言ったことは「肉を盗め」「ここを削れ」「ここの強度を上げろ」という3つの言葉だった。


■サスペンションが砂利道に耐えられない


また、スバル360が悪路を60キロで走っても車体ががたがた揺れなかったのは足回り、サスペンションの改良があったからだ。小口のチームは軽量化に続いて、「棒バネ」と呼ばれる新しい形状の材料を使うことを思いついた。


しかし、走行実験を始めると、サスペンションの棒バネが悪路の走行に耐えられず折れてしまう。なんといっても当時の道路舗装率はわずか1パーセントである。日本中の道路は基幹の国道をのぞけば砂利道だと思っていい。


小口は考えた。


「棒バネを長くする、あるいは太くすれば耐久性は増す。しかし、軽自動車の車体幅130センチでは、これ以上は長くできない。かといってバネの直径を太くすれば重量が増えるし、クッションが硬くなる……」


その後も試験走行では、ねじり棒バネは折れたり、曲がったままになったりしてサスペンションの役目を果たさなかった。



そんなある日、百瀬が小口に一冊の洋書を渡した。東京の洋書店まで行って見つけた専門書で、そこには問題解決の糸口が書いてあった。


かつて百瀬たちが戦闘機の技術向上に挑んだ時も洋書を取り寄せるか、もしくは大学の専門家に会いに行くことしかなかった。戦闘機のような国家秘密の塊は他国の現物や部品を取り寄せることができない。


■「スバルクッション」と呼ばれた独自製法とは


航空機で新技術を開発しようと思ったら、糸川がやったようにパイロットに聞く、あるいは鳥の動きを観察したり、さまざまな本を読んで考えることしかなかった。


スバル360のような日本には前例のない革新的な軽自動車を開発する時も百瀬は同じ手法を取ったのである。


バネの専門書にはふたつのことが書いてあった。金属の「へたり」を防ぐためには、あらかじめ、ねじっておく「プリセット法」がある。先に棒をねじっておけば、その後に突発的な激しいねじれがあっても、金属には抵抗力が付いている。もうひとつ、金属の「折れ」に対してはアメリカでは「ショットピーニング法」で加工していた。


ショットピーニングとは金属の表面に無数の鉄の球を高速で衝突させ、金属材料の強さを増す技術だ。鉄の丸い球をショットと呼ぶことからショットピーニングという名称になった。ショットによって表面に無数の丸いくぼみができるが、硬度は上がり、繰り返し荷重に対する強さも増す。


小口はプリセット法、ショットピーニング法などで棒バネの大きさや形を変えないまま強度を高める方法を採用した。


こうしてあらかじめ、ねじった棒バネ、つまりねじり棒バネは機能し、サスペンションは強化された。このおかげで、スバル360の乗り心地はよくなり、「スバルクッション」と呼ばれるまでになったのである。


■傾斜角度13度の急坂を大人4人乗りで挑戦


スバル360の試作車は4台作られ、過酷な試験走行を繰り返した。試験ルートとして群馬県の伊勢崎から高崎までの未舗装道路を往復した。16時間で600キロを走る長距離連続走行テストから始まった。


試作車のエンジンは酷使の結果、故障したため、エンジンを開発した三鷹工場から伊勢崎に来ていた技術者が徹夜で修理し、翌朝には再び、走ったこともあった。


百瀬チームが試験走行の総仕上げに選んだのは、赤城山の登坂路を上ることだった。赤城山にはふもとから新坂平(しんざかだいら)までの14キロ地点に「一杯清水(いっぱいしみず)」と呼ばれる急坂路がある。



傾斜角度が13度というその坂道は見上げるような勾配で、スキー場の急斜面のようにも見えた。当時の国産車では一杯清水を一気に上ることができず、途中でいったん休んでから、また上るのが通例だった。そこをスバル360の試作車は大人4人を乗せて登坂していこうというのである。


百瀬たち技術陣は一杯清水を上った坂の上の地点、新坂平で車を待つことにしていたが、初回のトライアルではスバル360は上ることができなかった。


エンジン全開で登坂すると、途中でオーバーヒートしてしまうのである。そこで、また工場に戻り、設計を考えたり、部品を手直しした。


数回の登坂走行の後、4人乗りでアクセル全開のスバル360は14キロの坂道を35分で走破することができた。運輸省の新車認定試験の直前のことで、なんとか間に合わせることができたのである。


■オーバーヒートした高級車の運転手もポカン……


参加していた技術者のひとり、松本廉平はこんな感想を残している。


「その後も赤城山の急坂路を上るテストは続けました。ある日、登坂していたら、坂の途中で東京から来た大型の外車がオーバーヒートして、エンジンフードを開けて熱を冷ましていました。そのわきを僕ら大人4人が乗った軽自動車がすいすいと登っていくわけです。高級セダンの横に立っていた人がポカンと口を開けて、茫然(ぼうぜん)と見ていたのを覚えています」


スバル360が売り出されたのは1958年5月である。価格は42万5000円。トヨペットクラウンの半額だった。


その後、同車は1970年まで約39万2000台が生産され、ベストセラーでロングセラーとなるとともに富士重工の基礎を築いた。


てんとう虫という愛称で呼ばれ、大勢のマニアも生まれた。マニアたちは発売から半世紀以上が過ぎた今でも、てんとう虫を愛し、ごくたまに路上でも見かけることがある。1950年代にできた日本車で今も一般道路を走っているのはこの車くらいのものだ。


■中島飛行機時代の“得意技”が生きた


中島飛行機と富士重工で販売部長も務めた太田繁一は「百瀬さんは日本の車を変えましたね」と言った。


「これまで語られていなかったけれど、スバル360にしろ、その後のスバル1000にしろ、本当の飛行機技術が反映されているのです」

「飛行機も自動車も同じように燃料を燃やして走るものです。ところが、飛行機は何千メートルも急上昇したり、あるいは急下降します。酸素の濃いところから薄いところまで行ったり来たりする。宙返りなんかもしちゃうのです。機体がどんな状態であれ、つねにエンジンまで燃料が供給されなくてはなりません。」



「そのためには燃料ポンプ、燃料ホースからエンジンまでの道筋が大切なんです。気圧が変わっても燃料を供給する通路の設計は飛行機技術者がもっとも得意とするところでした。百瀬さんはそれをわかっていたから、スバル360、スバル1000はどんな急坂でも上ることができたんですよ」


太田が指摘したとおり、敗戦後、日本の自動車業界には大勢の飛行機技術者が入ってきた。そして、彼らが伝えた最大の技術とは、一般によく指摘されるモノコック構造ではなく、燃料通路の設計だった。


■日本の自動車技術が格段に上がった理由


たとえばアメリカからの輸入車を持ってきて、坂の多い日本の道を走らせるとエンストしたり、オーバーヒートするのは当たり前だ。アメリカの車は平たんな市街地を走るためのものだったから。


それにアメリカの自動車会社には飛行機設計の技術者はいない。飛行機設計の人間は飛行機を、自動車設計の技術者は自動車をやっていた。


ところが、敗戦国の日本は「飛行機を作るな」と言われ、富士重工に限らず、トヨタ、日産、ホンダなどには飛行機の技術者が続々入社してきたのである。彼らが自動車開発に携わったため、日本の車の質は格段に上がった。


モータリゼーションが進んでからも、日本に主にアメリカ車が入ってこなかった理由はいくつかある。


本体の価格が高かったこと、車体の大きさが狭い道路には不向きだったこと、左ハンドルだったこと……。それに加え、アクセル全開で坂を上るとオーバーヒートしてしまう、あるいはエンストしてしまうことが多々あったのである。


1950年代、60年代、アメリカの自動車技術者は自国で車が売れていたから、小さな日本のマーケットに合わせて自動車を改良しようという気持ちは持っていなかった。


一方、飛行機の技術者を迎えた日本の自動車業界は日本の道路に合わせた設計で次々と魅力的な車を開発していった。


「日本車は故障が少ない」


海外でもそういった定評ができたのは日本車にはモノコック構造など目に見える飛行機技術が車にいかされただけではなく、内部構造でも飛行機の技術が採用されていたからだった。


■“日進月歩”の時代に10年以上存在感を放った


さて、スバル360は発売後、マーケットを快走したが、遅れて出てきた軽自動車、マツダキャロル(1962年発売)が一時期、スバルに肉薄した。性能や室内の広さはスバルの方が上だったのだが、キャロルはデザインが女性ウケして、ユーザーの奥さんたちが「これにしよう」と、夫にすすめたのだった。


トヨペットクラウン、日産ブルーバードといった当時の小型車の主な需要はタクシーと業務用である。選ぶのは男性、ビジネスマンだ。


一方、軽自動車は業務用ではなく、家族が乗る車で、車種選びに女性の意見が重要視される車でもあった。性能や室内の広さだけでなく、見た目が一般受けするマツダキャロルは特に女性に人気が高かった。




野地秩嘉『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)

1967年にはホンダがN360を出した。最高出力はスバルの5割増しで、価格は10パーセントも安かった。


軽自動車のユーザーたちはもちろん飛びついたし、若者たちも入門用にホンダN360を買った。その頃には若者が自分で乗るための車を買えるようになっていたのである。


一方、発売してから10年近く経って、やや時代に遅れたスタイルになっていたスバル360はホンダN360の登場により、マーケットの片隅に追いやられてしまう。


太田は次のように説明してくれた。


「あの時代は日進月歩でしたから、すぐに新しい技術の車が出てくるのです。そんな時代に10年以上、モデルチェンジをせずにやってこられただけでスバル360は幸せな車だったと思うんです」


※この連載は2019年12月に『スバル ヒコーキ野郎が創ったクルマ』(プレジデント社)として2019年12月18日に刊行予定です。



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野地 秩嘉(のじ・つねよし)

ノンフィクション作家

1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『ヤンキー社長』など多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。



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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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