NECや日立はかつて「エヌビディア的存在」だった…世界一を誇った日本の半導体産業を潰した"犯人"
2024年11月30日(土)9時15分 プレジデント社
※本稿は、大西広『反米の選択 トランプ再来で増大する“従属”のコスト』(ワニブックス【PLUS】新書)の一部を再編集したものです。
写真=iStock.com/Thicha studio
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■半導体産業を日本が独占していた時代
エズラ・ヴォーゲルの「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は今では「日本の過大評価」であったと多くの人々が見ているが、日本産業の詳細を見れば見るほどその評価が正しかったのではなかろうかと思えてくる。
たとえば、今や「産業のコメ」として、最も重視されていると言っても過言ではない半導体産業については、図表1に見るようにものすごいものがあった。1986年の世界ランキングのトップ3がすべて日本企業であったばかりでなく、トップ10まで見てもその6社までが日本企業となっている。
『反米の選択 トランプ再来で増大する“従属”のコスト』(ワニブックス【PLUS】新書)より
また、当時のICメモリーの中核をなした256KDRAM(Dynamic Randum Access Memory)については何と日本企業が世界市場の90%以上を独占している。
■日本企業がNVIDIAになれない理由
23年にランキング2位だったNVIDIAは時価総額ベースで今年24年に世界トップとなり、すごいものだと世界の人々に見られているが、その眼で過去にはNECや日立や東芝がみられていたのだと考えられたい。日本はどうしてそんなことができるのか理解できない……と驚異の目で見られていたということである。
確かに、半導体といってもこの間の利用用途の中心は大きく変わり、一般電子機器や大型コンピュータの時代からパソコンの時代に移り、それがさらにスマホの時代に入ったかと思うとAIの時代に突入している。そして、その最初の時代に日本企業が制覇し、パソコンの時代にはIntel、スマホの時代にはSamsungだったとも言える。
そして、AIとなって一気にNVIDIAが伸び、それらのために、「日本企業はその新たな方向への転換に失敗した」のだと説明されてしまっているのである。
■先見の明があったのに、潰されてしまった
しかし、考えてもらいたいが、「半導体がキー産業になる」と最初に気づいたのが日本なのであるから、その目ざとさを甘く見てはならない。先の支援戦闘機開発における日本の突出した技術も超小型レーダーなど結局はエレクトロニクス技術で、ハードではなくそうしたソフトこそが重要なのだと日本は気づいていたのである。しかし、そのことに他の諸国は気づけていなかったのである。
逆に言うと、そこで気づいて以降の他の諸国のスピードの速さがほめられるが、少なくとも気づいた時点ではすでに相当に日本と離されており、次のステップへ移るベースとなる技術を欠いていたはずである。
なので、問題はどうしてここまで離されていたアメリカの半導体産業が日本を凌駕できたのか、そこまで強かった日本の半導体産業がどうして壊滅してしまうこととなったのかということになる。その当時の日本産業のものすごさゆえに、死に物狂いで潰しにかかったアメリカの圧力でしかそれが説明できないというのが私の主張である。
■アメリカが仕掛けた「通商戦争」
実際、日米の半導体産業をめぐる紛争は「通商摩擦」というより「通商戦争」というべきもので、85年前後と90年前後の2つの時期に集中して起こされている。
日米の半導体協定は86年と91年に締結されているが、半導体世界市場における日本企業の猛追、86年における首位確保へと向かう情勢の下、米国半導体工業会(SIA)はまず85年に米通商法に規定されているスーパー301条に基づく提訴、アメリカ企業によるダンピング提訴を仕掛けてくる。
この提訴は結局のところ、政府間協議で収拾されたものの、スーパー301条というのは本来の通商法301条の拡大解釈をして場合によれば100%の関税をかけるという一方的なもので、何と現在の米中摩擦でも俎上に上げられていないほどの異常なものである。こんなものが脅しに使われた下での「摩擦」=「戦争」であったことが重要である。
また、86年と90年はアメリカ企業テキサス・インスツルメンツと富士通の間の訴訟合戦の年でもあった。1970年代から1980年代前半までアメリカ半導体のトップ企業であったテキサス・インスツルメンツは、当時焦点となっていたDRAMの製造特許の無断使用を主張して1986年1月に日本企業8社とサムソン電子をダラス連邦地裁に提訴する。そこで請求された特許使用料は通常の10〜15倍もの高水準のものであった。
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■和解金と特許料で「半導体は金がかかる」
そのため、当然のこととして日本企業各社は大いに反発し、東芝や日立などは逆提訴の構えを見せたが、結局のところ250億円という巨額の和解金を払って和解が成立することとなる。
だが、これで終わらないのがテキサス・インスツルメンツである。今度は一般のIC技術と異なり「半導体基板に互いに距離的に離間して配置された複数の回路素子を導体として被着して配線した半導体回路」として定義されるキルビー275特許を使用するには本来のIC技術(これが狭義の「キルビー特許」)の実施権の取得が前提になるとの論法であった。
そして、またしても東芝、沖電気、松下電子、NECがそれぞれ毎年百数十億円から百億円前後を払わされるようになったのであるから、これら企業が「半導体は金がかかる」と思わされてしまったことになる。
■日本のシェアを下げることが努力義務に
ただし、この時、業界4番手の富士通のみは裁判で争う覚悟を決め、実のところ、1994年に東京地裁が、そして2000年に最高裁が富士通側を勝利させている。当時はアメリカとしっかり闘う姿勢を持った日本企業があったということになる。
と言っても、これらが「日米半導体摩擦」の全てではなく、これら企業間の紛争と並行して政府間で2度にわたったぎりぎりの半導体交渉が行われる。
その最初のものは1986年の日米半導体協定であるが、「外国半導体企業の日本市場へのアクセス拡大」とその合意の裏にその市場シェアを20%にまで引き上げるという密約があったためにその後の紛争を再度招く。
そして、そのために再開された日米交渉では「20%を1992年までに達成する」との文言を協定本文に書き込まされるに至っている。日本政府が日本企業のシェアをわざと下げるべく努力する義務を規定した協定である。1991年のことである。
ともかく、こうしてテキサス・インスツルメンツは巨額の収益を得て後の投資をすることができるようになり、逆に日本企業は体力を削がれてしまっている。そして、最後はその「20%」を達成するために日本が大量に購入したMPU(マイクロプロセッサー)でインテルが急上昇することとなるのである。先の図表1はそのことを如実に表している。
1992年までに外国企業の市場占有率20%を実現するにはそうするしかなかったからであり、その後、アメリカ企業のトップにインテルが躍り出た大きな要因となっている。日本半導体企業の凋落と米企業の躍進がこのようにして工作されたのである。
■アメリカの次なる「ターゲット」は…
なお、以上は半導体摩擦を日米間のものとして説明したが、図表1の後半に見るようにその後の主要なアメリカの競争相手は韓国に移る(この経過は大矢根聡『日米韓半導体摩擦』有信堂高文社に詳しい)。そして、その米韓間でもほぼ同様の半導体交渉が行われており、一度トップを飾ったサムスンがその後インテルやNVIDIAに越されるようになったのも、その帰結ではないかと思われる。
写真=iStock.com/wellesenterprises
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さらに言うと、この表ではまだ表れないが、中国も他分野では相当急速なキャッチアップをしており、それがために現在の激しい米中貿易摩擦となっている。日中韓3国が代わる代わるアメリカの攻撃対象となっているのである。
最後にこの問題を永らく研究されてきた坂井昭夫故京大名誉教授の言葉を引用しておきたい。
「こうした米国半導体産業の復調は、日米半導体協定なくしては多分ありえなかったろう」(坂井『日米ハイテク摩擦と知的所有権』有斐閣 P91)
■同じような運命を辿った日本製OS
こうして日本半導体が1980年代、日の出の勢いであったことと関わって、実のところ、パソコンの基本ソフト(OS)もまた日本製が世界スタンダードの一角を占める可能性があったことも述べておきたい。
パソコンの基本ソフトはWindowsだけでなくMacも世界的に通用しているが、それに加えて当時東大助教授であった坂村健氏が開発したBTRONというOSが広まる現実的可能性があったからである。
当時のパソコンはWindowsも含めてひとつひとつの「ジョブ」をアルファベット入力で指示することなしに何もできないような状況にあり、その結果もあり、普及率が数%にしか届いていなかった。が、この問題をこのBTRONは一気に解決できるようなものとして開発されている。
もちろん、「汎用的」なWindowsの優位性ははっきりしていても、これはパッドの使い勝手などいくつかの点でMacパソコンの方が優れていることから想像されるごとく、コンピュータとOSを一体開発すれば立ち上げの時間を短縮できたり、様々な優位性を持てることによっている。
つまり、現在のMacのレベルくらいには十分普及する可能性をもったOSとして多くの日本メーカーも一時は採用しようとしたものであった。
■アメリカの覇権を脅かすものとして排除
しかし、この可能性もアメリカの激しい攻撃で排除されるに至っている。文部省と通産省が教育用パソコンのOSとして採用しようとし、多くの日本メーカーも賛同したところ、アメリカの通商代表部が貿易交渉で「貿易障壁リスト」に入れてきたからである。
このOSを内装したパソコンがそれ以前に一台も輸出されたことがなく、その技術はアメリカ企業にも無料で公開されているにもかかわらず、である。
ここでこの「貿易障壁リスト」に掲げられたのは、当時争点となっていた半導体、スパコンとこのBTRONの2品目であったから、次世代の技術覇権にとって重要なものはすべて自主開発を許さないという姿勢をアメリカは貫いたことになる。
もっと言うと、この時点でももし次期支援戦闘機開発の方式が決まっていなければ「貿易障壁リスト」は4品目だったということになる。
■OS競争に日本が参画していたかもしれない
「アメリカのものを買おうとしないのは不公正貿易だ」とのメチャクチャな論理である。実のところ、約1年後にBTRONはこの「貿易障壁リスト」から外されることになる。
大西広『反米の選択 トランプ再来で増大する“従属”のコスト』(ワニブックス【PLUS】新書)
上で述べたような論理をさすがに通せなかったからとも言えるが、それよりも、その1年の間にすでに教育用パソコンや日本企業の一般パソコンへの採用が見送られたことが大きい。「採用阻止」が目的だったので、それができればもうリストに要らないという話である。
確かに、Windowsが圧倒している現在の状況からすれば、それ以外のOSの採用が簡単でなかったのは事実である。しかし、上でも見たように、特定分野に強みを持ったMacは生き残っているし、今後中国の独自OSが広まって群雄割拠となった場合に非常に不利となる。少なくとも日本がパソコンのコア技術で世界1、2位を争うことになる機会を強制的に奪われたことになる。
現在のように弱体化した日本産業の現状からはとても想像されないかもしれないが、1980年代の日本産業にはそういう現実的選択があり得たというのが重要である。
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大西 広(おおにし・ひろし)
京都大学/慶應義塾大学名誉教授
1956年生まれ。1980年京都大学経済学部卒業、1985年京都大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。1989年京都大学経済学博士。1985年立命館大学経済学部助教授、1991年より京都大学経済学部/経済学研究科助教授、教授を歴任。2012年より慶應義塾大学経済学部教授。2022年3月31日慶應義塾大学定年退職。世界政治経済学会副会長。主著に『マルクス経済学(第3版)』(慶應義塾大学出版会)、他にマルクス経済学や中国問題に関する著書多数。
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(京都大学/慶應義塾大学名誉教授 大西 広)