「捨てられるものだから安く」は違う…2度の値上げで衰退産業の売上を1.5倍にした"コネ入社"女性社長の手腕
2024年12月5日(木)10時15分 プレジデント社
撮影=野内菜々
戸田実知子さん。もくめんは漢字で「木毛」。
■捨てられる「緩衝材」を製造する、日本唯一の専業工場
贈り物を交わす機会が多い年の瀬。高級フルーツやお酒といったギフトの箱やケースに糸のように敷き詰められている細く削られた木を何というかご存じだろうか。
その資材の名は「もくめん」。
生鮮品や瓶を外部の衝撃から守る、木材由来の緩衝材だ。明治天皇に献上する果物に使用したことが始まりとされ、専業もくめん業者が120社ほどあった1960年頃の高度経済成長期に製造ピークを迎えた。現在は“プチプチ”など安価な緩衝材が台頭し、もくめんは衰退の一途を辿っている。
撮影=野内菜々
食材には香りが少ないマツのもくめんがよく選ばれる - 撮影=野内菜々
厳しい時代のなか、今後ももくめんを製造していくと決めた日本で唯一の専業工場がある。高知県土佐市にある戸田商行だ。
経営を担うのは戸田実知子さん(58)。25歳で跡継ぎの長男の嫁になり、経営危機の状況下かつ夫の政治家転身をきっかけに、取締役社長を名乗る覚悟を決めたという。経営の知識はゼロ。その後社内トラブルを乗り越えた上、衰退産業にもかかわらず8年かけて売り上げを1.5倍に回復させ、、晴れて3代目代表取締役を引き継いだ。
写真提供=戸田商行
- 写真提供=戸田商行
写真提供=戸田商行
もくめんには、贈り物を美しく引き立たせる役割もある - 写真提供=戸田商行
戸田さんはなぜ衰退産業を引き継ぐことを決心したのか。どう未来へ繋げていくのか。取材すると、戸田さんの並々ならぬ試行錯誤の道のりがあった。
■「なんの取り柄もなかった」学生時代から、大手建設会社の社長秘書に
戸田さんは、1966年「丙午(ひのえうま)」に生まれた。「火災の多い年」「この年に生まれた女性は気性が激しく、夫を死なせる」といった根拠不明な迷信があり、出生率は大幅に低下。「競争を知らない世代で、のびのびとした環境に育った」という。
当時は、地元短大→コネで地元企業に入社→数年後に結婚して寿退社、が女性の人生すごろくの理想的なキャリアで、戸田さんはこの価値観を疑うことなく、社会が作ったレールに沿ったルートを歩んだ。
短大卒業後は、生コン業経営を軌道に乗せた父のコネで、当時四国で最大手の建設会社に就職が決まった。しかし、顔合わせの面談でかけられた言葉にショックを受ける。
「『もし入社までによその会社に決まることがあれば、どこでも行ってくれて構いませんからね』と言われました。あなたの代わりはいくらでもいると戦力外通告を受けた心地になり、打ちひしがれて家に帰りました」
なんの取り柄もなく、努力もせずに入社したのだから、そんな心ない言葉も当然かもしれない……。そう自分に言い聞かせたが、戸田さんの中にあった「全力でやってやる」のスイッチが入った。
「私は絶対、会社にとって有益な人材になる」
業務は、工事部の総務的な事務全般。誰よりも早く電話に出て、迅速に書類作成をした。3年後、最も気が利く女性が配属される秘書室に抜擢された。まさに有言実行。新人時代の無念を晴らした瞬間だった。その後も、社長の側近役を担いながら、経営者としての振る舞いやマインドに触れた。
1992年、25歳で結婚するのと同時に退社。その後、夫の両親が営む戸田商行を夫婦で引き継いだ。これが、戸田さんが築いたキャリアの第二章の幕開けとなった。
■政治家に転身した夫
戸田さんは、主に経理と事務処理を担った。業務中の合間に義両親からもくめん製造業の歴史を聞いた。もくめんという珍しいものを作り、事業としてスタートさせた両親を、心から敬意を抱くようになる。
1997年、31歳で出産したのを機にいったん専業主婦になり、育児に専念したものの、組織の中で自分の役割を果たすマインドは健在だった。
PTA役員や教育委員など地域の仕事を積極的に引き受けた。こうした仕事を敬遠する人は多いが、戸田さんは面倒だとは思わない。
「期待に応えて相手の役に立つ」
「求められたことにきちんと責任を果たす」
という本来の性分を発揮できたと戸田さんは自身を分析する。
撮影=野内菜々
戸田商行3代目代表取締役、戸田実知子さん - 撮影=野内菜々
2010年、夫が市議会議員に出馬。事業を義両親に任せて、選挙活動のサポートに専念し、見事トップ当選を果たす。
「大勢の地域のみなさんからご支援をいただいたのに、選挙活動という特性上、なにひとつお返しすることができない。それがとても心苦しく、1年ほど塞ぎ込みました」
以降、夫は本業と市議会議員の二足の草鞋で過ごし、戸田さんも仕事に復帰した。
2012年、経理担当の戸田さんは、右肩下がりになっている売り上げを懸念し始めた。市場が縮小するなか、今から何かしら手を打たねばならない。しかし自分では道筋を立てられない。
夫に頼れず悶々とするなか、2013年に高知県が主催した天然素材にまつわる業種が集う「天然素材研究会」に自主的に参加した。経営状況をどうにかしたいという一心だった。
研究会への参加をきっかけに、同社として初めて、首都圏の展示会への出展を決定。新規顧客と繋がるためだ。
もくめんを緩衝材としてだけでなく、不織布の袋に詰めて香りを楽しむ新商品も開発、補助金を活用してカタログ類を揃えて販売するホームページも作成した。
撮影=野内菜々
もくめんの残渣を活用して自社製造するエッセンシャルオイル。
さらに、中小企業家同友会に入会して理念を作成し、社員教育の重要性を学んだ。倫理法人会にも入会し、朝礼で社員とコミュニケーションを図る大切さを理解した。一つひとつ素直に学び、活動量を増やした。すべては会社を存続させるために。
■取締役社長を名乗り、実質の経営者に
2015年、転機が訪れる。信頼するコンサルティングと出会い、これまで自己流で取り組んできた販促ツールをチェックしてもらい、リブランディングをすることになった。当時の代表取締役はまだ夫。実際に機動する戸田さんが信頼されるために、まず戸田さん自身が社長にならなければならないと助言を受ける。
「展示会での商談ではスピードが求められるんです。取締役という肩書だけでは、商談相手からの信用度が下がってしまう。私に決定権があると対外的に知ってもらう必要がありました。ですので、跡継ぎである夫を代表取締役に置いたまま、対外的に決定権者と見てもらうため、2015年より取締役社長を名乗りました。でも、正直とても怖かったです」
衰退産業であるうえ、ここから巻き返しを図るのは相当大変なこと。そのため、外部に覚悟を示す必要があった。だからこそ、事業継続そのものを経営戦略に立てて、キャッチコピーを添えると決めたのだ。
「日本最後のもくめん屋」
そのため同社以外のもくめん製造業者4社を訪問。夫同行のもと、直々に挨拶し、説明をした。
「『今後もずっと業界を継いでいく所存です。工場を畳まれる際にお取引先があれば、私たちが供給責任を果たしますので、引き継いでください』とお伝えしました」
戸田さんは、実質的な経営者になった。
撮影=野内菜々
原木はマツ、ヒノキ、スギ、クスノキの4種。
■メディア露出急増の裏で、社内トラブル勃発
挨拶回りのあとに、ホームページを一新。「日本最後のもくめん屋」のキャッチコピーを添え、会社のストーリーを掲載したことで、高知県内の新聞社を筆頭に取材依頼が入るようになった。社長を継いだ初年度から年間10件以上。NHKなど多くのメディアでも紹介された。
しかし、社長が代わり方針も変わったことで、社内が少しずつ不穏な空気に包まれていく。対外的な対応を優先する戸田さんへの不信感からだった。
「核となる社員含む数名から退職したいと申し出がありました。2015年は売り上げがピーク時より半減したこともあり、焦りのあまりに外部ばかりに意識が向いていて……。社員がいてはじめて製造を続けられるのに。社員一人ひとりとしっかり向き合えていなかった自分を恥じました」
戸田さんは、時間をとって一人ひとりと話し合いを重ねた。言い分を聞き、誤解がある部分は丁寧に説明した。戸田商行にはあなたたちが必要なのだと、説得した。会社の方向性や新たに手掛けている事業の意味合いを伝え、理解してもらうよう、戸田さん自身の言葉で話した。これを機に、社員との心の距離が縮まったという。戸田さんは反省を込めて、年に一度、対外的に「経営方針発表会」を開いている。公の場で社員への感謝の気持ちを伝えることを大切にする。
撮影=野内菜々
鋳物製のもくめん製造機。
撮影=野内菜々
製造されたもくめんは、手作業で丁寧にまとめられていく - 撮影=野内菜々
■持続可能な価格設定のために、2度の値上げ
戸田さんはもうひとつ、経営者として覚悟を決める。もくめんの値上げだ。これまでは「捨てるもの」だからと、低価格に設定。しかしそれでは設備投資や社員の賃金アップにならない。つまり、初めから持続可能な価格設定ではなかった。製造コストに見合う適正価格でなかった側面が、もくめんが衰退産業になった一因では、と戸田さんは分析する。
1度目は2016年。値上げ幅は2割だ。既存の取引先13社に出向き、従来の価格では製造がままならない現状を正直に誠実に伝えることで、理解してもらった。
2度目は2022年。コロナ禍での燃料費や資材の高騰を受け、さらに2割アップした。
戸田さんは値上げの決断を、後悔していない。もくめんというプロダクトを次世代に繋げていくためだからだ。
写真提供=戸田商行
もくめんは緩衝材だけでなく、
■もくめんを軸に、新規事業にチャレンジ
戸田さんは、2022年から積極的に下記のような新規事業の製造・販売に取り組んでいる。
・ヒノキ材や枝葉の残渣を活かしたアロマ精油
・土佐市の特産品文旦を活用したアロマ精油
・土佐文旦の果汁60%アイスクリーム
展示会へは、年3回の頻度で出展。アジアやヨーロッパなどの市場にも広めるべく、海外出展にもチャレンジする2016年から始まった韓国へのもくめん輸出は、2023年も継続した。
写真提供=戸田商行
クスノキやヒノキの消臭・
- 写真提供=戸田商行
2015年に取締役社長を名乗ってから8年。赤字スタートという厳しい状況下の当時から売り上げを1.5倍に巻き返した。“日本最後のもくめん屋”の責務を果たすため、1社でも取引先がある限り、製造し続けていく。
「倒れるときは前のめり」
これは戸田さんの座右の銘だ。丙午生まれの女性の戸田さんらしく、高い熱意のまましなやかに突き進んでいくにちがいない。
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野内 菜々(のうち・なな)
フリーランスライター
1979年生まれ。ジャンルレスで地域のヒト・モノ・コトの魅力を伝えるフリーライターとして活動中。兵庫県在住。
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(フリーランスライター 野内 菜々)