仕事時間は半減、手取りは2倍に増えた…「注文があった分しか魚を獲らない」魚嫌いの漁師(37)のアイデア

2024年12月6日(金)6時15分 プレジデント社

富永邦彦さん(左)と美保さん - 筆者撮影

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岡山県玉野市で漁業を営む富永邦彦さん・美保さん夫婦は、2019年から注文が入った分だけの魚を獲る「完全受注漁」をはじめた。仕事時間は半減し、収入は2倍に増えたという。なぜ受注漁をはじめたのか。インタビューライターの池田アユリさんが富永さん夫婦に取材した——。
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富永邦彦さん(左)と美保さん - 筆者撮影

■魚嫌いだった青年と、彼を信じ続けた妻の漁師物語


岡山の三大河川と呼ばれる吉井川と旭川に面した、岡山県玉野市の胸上(むねあげ)港。この漁港では春から夏にかけてハモ、クロダイ、サワラなどが収穫できる。また、冬の期間は良質なミネラルを含んだ海苔が育つことから、海苔の養殖・加工が行われている。


瀬戸内海に面したこの小さな港に、国内外のメディアで注目されている漁師の夫婦がいる。


取材に向かった場所は、胸上漁港の一画にある海苔加工所の邦美丸(くにみまる)だ。そこで漁業を営んでいる富永邦彦さん(37)は、漁に出かけるたびに日焼けするのだろう。肌はこんがりと焼け、Tシャツの袖から覗く腕は筋張っている。続いて、妻・美保さん(37)と次男である5歳の少年もやってきた。


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水揚げされたワニゴチ、マダイ、クロダイ、オコゼ - 写真提供=富永さん

2019年、2人は「漁師の過酷な労働環境を変えたい」「地元の水産資源を守りたい」と考え、消費者から注文が入った分だけの魚だけを獲り、残りの魚は海にリリースする「受注漁」を始めた。その結果、船の操業時間が半分に短縮され、一方で売り上げは2倍になった。


富永夫妻は14のビジネスコンテストで受賞し、首相官邸で表彰されたこともある。イギリス公共放送BBCに取り上げられ、台湾の経済フォーラムでスピーチも行った。これらの経歴を見て、筆者は「きっと、カリスマ性のある特別な人に違いない」と思っていた。けれど、対面した2人はどの田舎町にもいるような、普通の漁師さんだった。


海辺で遊んでいた少年が網を持ってやってきて、「見て! カニつかまえた」と得意そうに笑う。美保さんが「大きいなぁ。カゴに入れたり」と言葉を返す。その姿を邦彦さんが見守っている。このおだやかな日常を手に入れるまで、15年の月日がかかった。それも、行き当たりばったりで、挫折まみれの道のりを——。


これは、魚が嫌いだった青年と、彼を信じ続けた妻の奮闘記である。


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注文が入った分だけ魚だけを獲る「完全受注漁」を続けている - 写真提供=富永さん

■ノリと勢いで漁師になる


大阪府枚方市出身の邦彦さんと岡山県玉野市出身の美保さんは、2005年夏、18歳の時に友人の紹介で出会った。邦彦さんはテレビドラマの影響でプロボクサーになろうと、ボクシング部がある高校に進学。だが、視力の悪さが仇となり挫折。2カ月で高校を中退した。


美保さんは子どもの頃から獣医を目指していたが、高3で重度の動物アレルギーを発症し、目標を失った。失意のうちの2人であったがお互いに惹かれ合い、大阪と岡山での遠距離恋愛が始まった。


2人でいた時、お互いの家業の話になった。美保さんが「うちの家、漁師してる」と言い、それを聞いた邦彦さんは「漁師!? めちゃめちゃかっこいいやん」と目を輝かせた。突然出てきた職業に興味をくすぐられたのだ。


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船上の邦彦さん。漁師の娘・美保さんとの出会いから漁師の世界へ飛び込むことに - 写真提供=富永さん

ただ、邦彦さんは子どもの頃から“大の魚嫌い”だった。


「虫が苦手なのと似た感覚で、さわれないですし、食べられなかったです。家で夕飯に魚料理が出ようものなら、その日は帰らなかったくらいダメでしたね。学生時代に流行り始めた回転寿司に誘われても、食べられるものはコーンの軍艦巻きだけでした(笑)」


筆者が「魚が嫌いなのに、なぜ漁師になろうと思ったんですか?」と聞くと、邦彦さんは「うーん、なんでかなぁ」と首をかしげる。その横で、美保さんがおかしそうに笑いながら代わりに答えた。


「彼は、いいなと思ったらノリと勢いに任せてすぐに飛びつく人でして(笑)。うちが漁師一家だと知ってすぐ、バックパッカーみたいな荷物を背負って、父の仕事を見学しに来たんです」


2007年の成人式後、邦彦さんは美保さんの父・藤原良二さんに弟子入り。翌年に2人は結婚した。


■朝3時起床、16時間船に乗り、深夜は市場へ…


胸上港の漁師たちは、4〜9月は底引き網漁を、10〜3月は海苔養殖を行う。胸上は2つの川が流れ込む海苔の好漁場で、県内一の海苔の生産量を誇る。


写真提供=富永さん
湾内にある海苔の養殖場 - 写真提供=富永さん

季節を分けて行うのは、冬の時期に良質な海苔が育つことと、魚を獲り過ぎることで海の生態系を崩さないようにするためだという。この伝統を代々引き継いできた義父の下、邦彦さんは漁師になるべく修業を積んだ。


漁師の仕事は、想像以上に過酷だった。朝3時から16時間ほど漁船で働き、深夜に市場へ魚を卸す。24時間フル稼働で、邦彦さんは「漁師って大変すぎん?」と思った。


言葉の壁にもつまずいた。大阪出身の邦彦さんは聞き馴染みのない岡山弁が理解できず、年上の漁師たちに委縮した。「2回は聞き返すけど、結局わからないわけですよ。雰囲気でいくしかなかったです」と邦彦さん。「漁師たちはエンジン音が鳴り響く船の上で作業をしてるから、普段も怒鳴っているように聞こえちゃうんです」と美保さん。


2009年1月、邦彦さんは「岡山の海苔は生産量のわりにあまり知られていない」と感じていた。美保さんも離乳食の頃から実家の海苔を食べており、「この美味しい海苔を多くの人に届けたい」と思っていた。


そこで、自分たちで海苔を販売すべく、個人事業として「邦美丸」を立ち上げる。この屋号は2人の名前にちなんで名付けた。まだ大人になり切っていない、22歳の時だった。


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船内の様子。4〜9月は底引き網漁のシーズンで、想像以上にハードだったという - 写真提供=富永さん
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網を巻き上げる邦彦さん - 写真提供=富永さん

■空回りした20代


さっそく2人は、自分たちが育てた中から一押しの海苔を選び抜いた。「どこで袋を仕入れるんだろう」「成分表示って?」とわからないことばかりだったが、商工会議所に相談して商品化にこぎつける。まずは、地域の特産品を売るアンテナショップに並べてもらうことにした。だが、まったく売れなかった。


業を煮やした邦彦さんはテレビ局や新聞社に「地産地消の世の中で、漁師が作った海苔を取り上げない手はないです」と手紙を書いた。すると、地元の新聞社が記事にしてくれた。手のひらに乗るくらいの小さな記事だったが、「これがあればどこでも売れるはずだ!」と邦彦さんはその新聞を切り抜いた。


今度は、玉野市にある瀬戸内マリンホテルに電話をかけた。ホテルで提供する朝食に、自分たちの海苔を置いてもらおうと考えたのだ。


ホテルに「海苔を使ってもらいたいので、今から行きます!」とだけ連絡。美保さんを連れて軽トラを走らせた。ただ、ホテルが想像よりも遠かったため、電話をかけてから1時間ほどかかってしまう。


しびれを切らして待っていたのは、現在は料理長を務める品川勝治さん。何時に到着するのかを知らされないまま待ちぼうけを食らって、見るからに怒っていた。緊迫したムードのなか、応接室へ通された。品川さんから名刺を受け取る。しかし、ビジネスの常識を知らない2人は名刺を作っていなかった。


ひとまず海苔を差し出すと、その場で食べた品川さんから「うん、美味しい。で、見積書は?」と聞かれた。2人は「ミツモリショ……??」と、単語の意味がわからない。


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美保さん(前列左)家族と邦彦さん - 写真提供=富永さん

■「名刺も見積もりもない君らをどう信用すればいいの?」


「こ、これならあります」と邦彦さんが差し出したのは、左手に握っていた新聞の切り抜き。「取材された事実があればいけるはず」と思って持ってきていたのだ。品川さんはそこで初めてクスッと笑ってくれたが、真面目な顔に戻ってこう言った。


「この海苔は信用できるけど、事前のアポも取らずに遅れてくる、名刺も見積もりもない君らをどう信用すればいいの?」


2人は返す言葉が見つからず、その日は出直すしかなかった。けれど、美保さんはめげなかった。見よう見まねで名刺と見積書を作成し、「もう(営業に)行くのやだ!」とごねる邦彦さんを引きずり、ホテルに何度も足を運んだという。


現在、瀬戸内マリンホテルでは邦美丸の海苔が使われており、品川さんとは良好な関係を築いている。また、ネット注文の他に地元の小学校の給食に卸し、道の駅や百貨店にも販路を広げ、年間12万枚を販売。焼きのりを始め、味海苔、わさび味、とうがらし味、塩味など種類も豊富だ。


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受注漁のほかに海苔の生産・販売も手掛けている。全5種類(とうがらし、塩、味海苔、焼き海苔、わさび) - 筆者撮影

美保さんは、20代の頃をこう振り返る。


「昔から私たちを知っている人たちには、『お前らはニコイチでやっと一人前や。邦美丸って名前の通りだわ』って言われます(笑)。片方だけだったら、続かなかったと思いますね」


行動力がありながらも逃げ腰の邦彦さん。夫の思い付きを形にしようとする美保さん。このコンビが15年後、多くの人に認められることになろうとは誰も予想しなかった。


■漁師を3年で挫折


2009年の夏、邦彦さんは過酷な労働環境から「逃げたい」と思うようになっていた。


美保さんに「漁師を辞めたいんやけど……」と相談。この時の美保さんは、生後2カ月の長女を育てていた。邦彦さんは朝から晩まで漁に出て忙しい日々を過ごしており、育児はすべて美保さんに任されていた。


「この状態が続くなら、違う道もいいかもしれない」と思った彼女は、夫が漁師を辞めることに納得した。


だが、この決断が美保さんの父との間に溝を生んでしまう。


「家族3人とも、父に勘当されました。初孫の娘のことも『孫とは思わん』と言われて、まだ赤ちゃんなんですけど! って思いましたよ……。この時期が一番しんどかったです。娘を抱っこしながら、家でよく泣いてました」


美保さんの父親・藤原さんにも、怒る理由があった。当時、胸上港で実子以外が漁師になることは前例がなく、胸上漁業協同組合(以下、漁協)では邦彦さんを漁師にさせるのに反対の声が上がっていた。「婿養子にさせるなら受け入れる」と言われていたが、藤原さんはそういった意見をうまくかわし、邦彦さんが働けるようにしてくれていた。


そういった父の思いはのちに知ることになるが、富永一家は胸上港を離れ、市内にある6畳一間の賃貸アパートに引っ越すことになる。


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インタビューは2019年にできた海苔加工場で行った - 筆者撮影

■“こんにゃくごはん”の節約生活


その後、邦彦さんは携帯電話基地局のアンテナを立てる仕事につく。日当は6000円で、休みを返上して働いても、赤子を育てながらの生活はオムツ代などの出費がかさみ苦しかった。


夕食はこんにゃくを足して炊いたご飯や、肉が入っていない豆腐ハンバーグを作り、食費を節約した。「この期間で、もやし料理が得意になりました。毎日、必死でしたね」と美保さん。赤ちゃんへの授乳には母親の栄養摂取は必要不可欠だが、幸い母乳が止まることはなかった。


その後、2011年に第2子である長男が生まれた。「養う人数が増えたのに、この稼ぎではやばい」と考え、邦彦さんは少しでも給料を上げようと電気工事士と陸上特殊無線技士の資格試験に挑戦。


だが、邦彦さんにとって試験勉強は簡単ではなかった。「僕、中卒だから試験問題の漢字がぜんぜん読めなかったんです。問題の意味すらわからなくて」と邦彦さんは照れ笑いを浮かべる。美保さんに単語カードを作ってもらったり、意味を辞書で調べたりしながら、無事合格した。


■子どものために…再び漁師の義父のもとへ


2012年、邦彦さんは電気工事員として3年ほど働き、日当は6000円から1万6000円にアップした。安定した生活を送れるようになっていたが、彼の心はモヤモヤしていた。


「自分なりに決心して移住したのに、なんで大阪でもできる仕事をしているんだろう。漁師になるために岡山に来たのに……」


邦彦さんは美保さんに「もう一度、漁師をやってみたい」と話した。それを聞いた彼女は内心不安だったが、「よし、お父さんのところに行こう」と覚悟を決めた。


後日、美保さんの父親・藤原さんが仕事終わりの頃を見計らって会いに行き、「もう一度やりたいんじゃ」と頭を下げた。すると、藤原さんは少し笑いながら「わし、一度裏切られとるけんなぁ」と言いつつ、邦彦さんのカムバックを受け入れた。


辞めた当初は勘当するほど怒っていたのに、なぜすんなりと承諾してくれたのか。じつは勘当されて間もないうちに、美保さんが父親との関係を修復しようと家業を手伝っていたのだ。それは「夫が漁師に戻るかもしれない」と思ったからではなく、子どものためだったという。


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子どものためにも漁師の世界に戻ると決めた - 筆者撮影

「父に娘を『孫じゃない』って言われて、すごく傷つきました。でも、子どもにとっては、大切なおじいちゃんです。親の都合で疎遠にさせたくなかったのが大きかったです」


美保さんは、自分たちが製品化した海苔の販売も続けていた。育児の傍ら、「取引先の分だけは続けよう」と海苔の袋詰めと配送手配を行っていたのだ。彼女の姿を見て、藤原さんは父親として受け入れる気持ちになったのかもしれない。こうして、邦彦さんは漁師として胸上港に戻った。


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胸上港にある邦彦さん・美保さん夫婦の漁船 - 筆者撮影

■「10年先も漁師を続けられるか?」


戻って来たからには、もう後戻りはできない。


「10年先も漁師を続けるようにするには、どうしたらいいか?」


邦彦さんは、頭の中でこの問いを繰り返すようになった。まず、挫折した理由を考えた。漁師たちと良い関係を築くことが先決だと考え、邦彦さんは大阪弁を封印し、岡山弁を誰よりも話せるようになろうとした。「不思議なもので、方言に慣れると、今まで怖かった漁師たちの印象がガラッと変わりました」と邦彦さん。苦手だったお酒も覚え、漁師たちと飲みに行くことが増えた。


2015年2月には、中古の小型船を購入。船名を「邦美丸」と名付け、漁師として再スタートを切った。しかし、漁師の長時間労働は以前と同様のままだった。天候や水揚げに振り回されて、休みを取ることさえ不安になる日が続く。


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中古で漁船を買い、2人の名前を一文字ずつ入れた - 写真提供=富永さん

ある日、沖に戻った邦彦さんは、テレビのニュース番組に目を留めた。そこで、ドラマ「ファーストペンギン!」のモデルとなった水産会社の社長が消費者に魚を直販していると知る。


■市場への出荷と直販の二足の草鞋


「漁師って、市場以外に卸していいの!?」


と、邦彦さんは衝撃を受けた。すぐに漁協の事務所に行き、「自分たちで魚を売りたいんだけど、どうしたらいいですか?」と相談。漁協の組合員は「出戻りの若造が、また何か言い出したぞ」と思っただろう。だが、若い漁師の熱意にほだされ、次第にサポートしてくれるようになった。


その後、ITベンチャーが運営するサイト「漁師さんの直送市場」や産地直送通販「ポケットマルシェ」などで漁獲した魚の一部を販売。すると、県内外の飲食店から注文が入り、売り上げが増えた。だが、市場への出荷も続けているため忙しさに拍車がかかった。


「深夜1時には起きて、市場に行く生活でしたね。『しんどすぎる。市場の出荷がなかったら寝れるよね』ってよく2人で話しました」と美保さんは振り返る。


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中古で購入した船内で撮影した、28歳の頃の写真 - 写真提供=富永さん

■「獲れるだけ獲る」漁業に感じた限界


2020年春、2人にとって転機が訪れる。


新型コロナウイルスの感染拡大により、ネットやSNSからの注文が伸びたのだ。飲食店からの注文はほぼゼロになったが、今まで月数件しかなかった個人客からの注文が200件を超えた。「配送に追われて、21年の市場への出荷は5日だけでした」と邦彦さん。


邦美丸が行う「底引き網漁」は、漁船から伸ばした漁網を曳航し、魚を獲る漁法だ。多くの魚を一度に獲れる良さがある一方、海に漁網を投げ入れて行うため、海底の生態系にダメージを与える可能性も否定できない。そのため、胸上港では週2回ほどすべての漁を休みにして、多くの魚を獲り過ぎないようにしてきた。


その他にも、邦彦さんたちは水産資源を少しでも守ろうと工夫した。漁で利用する網の目は通常23mmと定められているが、邦美丸ではそれよりも粗い34〜50mmの網を利用し、できる限り稚魚を獲らないようにしている。その背景には、魚の減少があった。


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獲った魚はできるだけ早く下処理を行い、梱包する
写真提供=富永さん
梱包作業はもっぱら美保さんの担当だという - 写真提供=富永さん

■「完全受注漁」という新しいかたち


邦彦さんは現場にいて「魚が年々獲りづらくなっているな」と感じていた。たとえば、漁師になりたての頃より、アナゴやシャコ、イカやタコが目に見えて減っていた。


「必要な分の魚だけ獲れればいいのでは?」


そう考えた富永夫婦は、「完全受注漁」と名付け、22年の4月から9月まで直販のみを行い、どんな変化があるのかを実験することにした。


結果は、冒頭に記した通りだ。船の操業時間は半分に短縮され、売り上げは前年の2倍に増加した。それだけでなく、漁獲にかける時間が短くなったことで、船の燃料代や網などの備品の消耗を最小限に抑えることができた。市場の値動きに翻弄されることなく、スーパーで売られている値段に近い価格帯で販売できるようになったことも大きい。


各ECサイトや公式Instagramで注文が入った翌日には、「お任せ鮮魚ボックス(3600円から)」として宅配便で発送(海苔の養殖が行われる10〜3月は海苔販売のみ)。顧客からは「魚種もいいし、美味しい」「きちんと下処理されていて、鮮度がいい」と声が上がっている。


写真提供=富永さん
船上で魚に神経締めという下処理を施す邦彦さん - 写真提供=富永さん
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鮮魚BOXの一例(ヒラメ、マダイ、コウイカ) - 写真提供=富永さん
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瀬戸内海では春から夏が旬のマナガツオ - 写真提供=富永さん

■余った魚は海へ返す


ここで、邦美丸の漁の一日を見てみよう。早朝6時、邦彦さんは漁船でここだと思う漁獲ポイントに向かい、網を落とす。40分ほどして曳航する。巻き上げた魚を船の甲板上に出し、顧客からあらかじめ注文が入っている分量のみカゴに入れ、余った魚は海に返す。


漁獲された魚は海底と海上の圧力差で空気が入り、浮き袋状態になって泳げなくなる場合があるのだが、邦彦さんは魚の肛門に管を刺して、空気を抜いてから海へ戻すというひと手間を加える。最後に、網に巻き取られた海底のビニールゴミなどをトングで取り除き、沖に持ち帰る。


お昼頃、港では美保さんが待ち構えており、発砲スチロールを抱えて船に乗り込む。邦彦さんは水槽から魚をすくい上げ、神経締めという下処理を施す。美保さんはそれを受け取り、一箱ずつ丁寧に梱包していく。発砲スチロールの蓋の裏面に、マジックでお礼のメッセージを添えながら。


時折、顧客から「母の誕生日なので、タイを入れてください」「次はハモに挑戦してみたい」と魚種の要望をもらうこともあるそうだ。邦彦さんはそれに応えようとするものの、自然が相手なので、お目当ての魚が獲れる保証はない。獲れなかった場合、素直に「ごめんなさい」と伝えるが、それで顧客が離れることはない。海の資源を大切に思うリピーターたちが、邦美丸を支えているのだ。


写真提供=富永さん
胸上港の様子 - 写真提供=富永さん

■「子どもの成長は今しか見れない」


受注漁に切り替えたことで、富永一家に変化が起きた。


以前は子どもたちに全く構うことができなかった邦彦さんだが、早く帰れるようになったことで、子どもと遊ぶ時間が増えた。2019年に生まれた次男の保育園のお迎えや寝る前の絵本の読み聞かせは邦彦さんの担当だ。


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5歳の次男・虎太朗(こたろう)くんと - 筆者撮影

以前の邦彦さんを、美保さんはこう語った。


「長女が幼稚園のころ、家族の似顔絵を描いてきたんですけど、パパだけおでこに2本の線があって『これは何なん?』って聞いたら、『パパ、こんな顔してる』って。眉間のシワだったんです(笑)。上の子2人にとっては、怖いお父さんだったんじゃないかな」


漁師の娘である美保さんは「職業柄、親との時間が少ないのはしょうがない」と思っていたものの、「子どもの成長は今しか見れない。無限じゃない。有限だよ」と邦彦さんに何度も訴えていたという。


受注漁のおかげで、子育てに力を注げるようになった邦彦さんだが、「以前は彼女の言葉が右から左に抜けていました」と言う。


「僕のイクメンぶりは副産物です。時間に余裕ができたから『あれ、嫁が大変そうにしてるな』とか。『これならできるかも』って気づけるようになっただけで。でも、そのおかげで『うちの子って素晴らしい!』と思うようになりましたね」


■娘の描いた似顔絵に起きた変化


中学3年生になった長女は、両親の仕事を作文にしてたびたび賞を取っているそうだ。「経済の勉強をして、いつか家業を支えたい」という目標を弁論大会で発表し、決勝まで進んだ。


「これ、娘が渡してくれてね」と、邦彦さんは名刺入れから1枚のカードを取り出した。


そこには、両親への感謝のメッセージと似顔絵が書かれてあった。父親の眉間にシワはなく、にっこりと笑っている。そのカードを嬉しそうに見つめる邦彦さんの傍で、美保さんはこう語る。


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邦彦さんの名刺入れには中3の長女からのメッセージカード - 筆者撮影
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幼少期に書かれた邦彦さんの似顔絵には眉間のしわは書かれてあった。いまは笑顔に変わっている - 筆者撮影

「私にとっては、彼の変化が一番良かったと思ってます。以前は夫が家族の中で笑ってるっていう絵が想像できなかったから。今ではみんなで笑い合えてるし、娘や息子たちとも何でも言えるようになりました」


■「自分たちだけ成功しても意味がない」


邦彦さんと美保さんの取り組む完全受注漁は、漁業が抱える課題を解決する取り組みとして「第7回ジャパンSDGsアワード」などの他、ビジネスコンテストで多数受賞した。また、イギリスのテレビ局BBCから取材を受けたり、台湾の経営者が集まるフォーラムに登壇したりなど、富永夫婦は注目の的となった。


写真提供=富永さん
左から長男の竜空(りく)くん、次男の虎太朗くん、長女の美夢(みゆ)さん - 写真提供=富永さん

だが、邦彦さんたちは「一介の漁師ですから」というスタンスを崩さない。「自分たちだけ成功しても意味がない」という思いが、彼らにはあるからだろう。以前、高齢の漁師たちに魚の直販を紹介したが、「おまえらだからできるんや。いいのはわかるけど、わしらはよーできん」と言われた。「それなら、アナログに回帰しよう!」と、地元で魚を流通させることに力を入れ始める。


今年の6月に開始した「黒鯛プロジェクト」では、漁師の間では海苔を食い荒らす厄介者とされ、消費者にも馴染みの薄いクロダイを市場価格より高値で買い取り、地元の飲食店に卸すようにした。漁師たちからは配送代として1回200円をもらう。地元とはいえ、宅配便より安い。9店舗の飲食店が参加し、黒鯛の地元での流通量は700kgを超えた。おかげで地元漁師の手取りも2倍に増やすことができた。


「時期によっては市場だとkg単価50円にしかならないクロダイを、400円で買い取って、参加した飲食店に600円で販売します。でも、料理人には『鮮度がいい魚がこんなに安くていいの?』って言われるんです。これが本来のあるべき流通価格だと僕は思います」


■「目の前の人を幸せにできなかったら意味ない」


今年5月に会社を法人化し、未経験の社員を1人雇った。近い将来独り立ちできるようにと、漁の仕方を覚えてもらいながら、地元の漁師から飲食店に配送する仕事を任せているそうだ。


もう一つ、富永夫婦が地元に貢献したものがある。縁もゆかりもない邦彦さんが漁師になったことで、漁協の昔ながらのルールが改善されたのだ。そのおかげで、跡継ぎのいない漁師に県外からやってきた人が手を挙げて、後継者になるという事例が出た。邦彦さんと美保さんがもがきながら開拓した道のりは、未来の誰かへと繋がった。


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邦美丸のロゴマーク - 筆者撮影

2人は、2019年に新設した海苔加工場を作業場兼直売所として運営している。美保さんの父・藤原さんが「2人が継いでくれるなら」と、銀行の融資を受けて建てたという。


「大きな投資だったのでは?」と聞くと、邦彦さんは少し肩をすくめ、「船も網も、海苔の機械も消耗品なので、新しくするしかないんです」と答えた。後継者がいない漁師は、子どもたちに借金を負わせたくないからと、商売道具が壊れたら早々に引退することも少なくないという。


「この辺りで同世代の漁師は、数えるほどしかいません。数年後には僕らだけになると思うと、めちゃめちゃ危機感があります。おっきなこと考えても、目の前の人を幸せにできなかったら意味ないなって思うんです。胸上港の漁師や、お義父さんが喜ぶような、漁師の現役寿命を延ばしていけるような環境を作ることが、僕にできることだと思ってます」


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美保さんの父・藤原さんが新設した海苔加工所 - 筆者撮影
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海苔を加工する大きな機械も導入した - 筆者撮影

■家族との時間も、海も、地域も守る働き方を目指して


工場内は「子どもたちの見学ツアーができるように」と、海苔を加工する機械に小窓を作るなどの工夫を施した。「漁師って閉鎖的な部分が多いけど、大変な思いをしながら漁をしたり、海苔を作ったりしてるんだよってことを、地元の子どもたちに伝えたいですね」と美保さんは言う。


漁師のいる玉野市で、子どもたちが地元の資源を学び、大人たちが元気に働く。そして、次なる担い手が育っていく……。「玉野市モデルとして、全国に浸透させたいなって思います」と邦彦さんは言う。


ふと、「ちなみに、今も魚が嫌いなんでしょうか?」と聞くと、邦彦さんはニッと笑った。


「今はめっちゃ好きです。彼女が捌くタイの刺身は絶品なんすよ」


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「ブレない、着飾らない、正直者」がモットーの富永夫婦は、これからも挑戦を続けるだろう - 筆者撮影

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池田 アユリ(いけだ・あゆり)
インタビューライター
愛知県出身。大手ブライダル企業に4年勤め、学生時代に始めた社交ダンスで2013年にプロデビュー。2020年からライターとして執筆活動を展開。現在は奈良県で社交ダンスの講師をしながら、誰かを勇気づける文章を目指して取材を行う。『大阪の生活史』(筑摩書房)にて聞き手を担当。4人姉妹の長女で1児の母。
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(インタビューライター 池田 アユリ)

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